『雨上がりのコーヒー』
雨上がりの午後3時。
私は古びた喫茶店の扉を開けた。店内に漂うコーヒーの香りが、緊張で固くなった肩の力を少しずつほぐしていく。
「いらっしゃいませ」
マスターの柔らかな声が響く。10年以上通い続けているこの店は、私にとって第二の書斎のような場所だった。締め切りに追われる時も、スランプに陥った時も、この店のブレンドコーヒーと、マスターの温かな笑顔が私を救ってくれた。
「今日もブレンドで」
いつもの席、窓際の4番テーブルに座る。雨上がりの街並みが、水滴を纏った窓ガラス越しに見える。締め切りまであと3日。生活情報誌の特集記事を書き上げなければならない。ノートパソコンを開き、資料を広げる。
その時だった。
「ブレンドコーヒーを一つ」
聞き覚えのある声が、背後から聞こえてきた。思わず振り返った私の目に映ったのは、10年前に別れを告げた人の姿だった。
「美咲...?佐伯美咲さん?」
深山啓介。高校時代の同級生で、私の初恋の相手。今でも忘れられない、あの夏の記憶の主人公。
「深山くん...」
言葉が喉から絞り出されるように出てくる。啓介は少し戸惑ったような表情を見せたあと、柔らかな笑みを浮かべた。
「久しぶり。10年ぶりくらいかな」
時が止まったような感覚。店内のざわめきも、雨上がりの街の音も、全てが遠のいていく。まるで、青春時代にタイムスリップしたかのような錯覚。
「座ってもいい?」
啓介の声で我に返る。つい先ほどまで広げていた原稿用紙を慌てて片付けながら、私は小さく頷いた。
彼は昔と変わらない優しい笑顔で椅子に座った。スーツ姿は高校時代の制服姿とは違って見えるが、目元の優しさは昔のままだ。
「相変わらずだね、この店」
啓介が店内を見回しながら言う。そうだった。高校時代、私たちはよくこの店に来ていた。放課後、試験勉強をしたり、何気ない会話を楽しんだり。今でも鮮明に覚えている、あの頃の放課後。
「マスターも同じだし、メニューも」
「うん。ブレンドの味も、10年前のまま」
会話が自然と続く。啓介は商社に勤めていて、海外部門で働いているという。今回は一時帰国中で、来週にはシンガポールに戻るとのこと。
「美咲は?」
「私はフリーランスのライター。今も締め切りに追われる日々です」
少し照れくさそうに答える私に、啓介は「すごいね」と言ってくれた。
「昔から文才があったもんね。高校の文芸部で書いていた小説、今でも覚えてるよ」
心臓が高鳴る。彼が私の小説を覚えていてくれたことが、純粋に嬉しかった。
窓の外では、夕暮れが近づいていた。雨上がりの空が、オレンジ色に染まり始める。
「また会えるかな」
帰り際、啓介がそう言った。
「うん、また」
答える声が少し震えていた。
その夜、久しぶりに高校時代の写真アルバムを開いた。文芸部の部室で撮った集合写真。啓介と並んで写っている私は、今よりもずっと幼く見える。
スマートフォンが震える。LINEの通知音。啓介からのメッセージだった。
『明日も、あの店で会えないかな?』
心臓が大きく跳ねる。返信を打つ指が震えた。
『いいよ。いつもの時間で』
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚があった。これは、10年前に感じたのと同じ感覚。
そうして始まった、啓介との再会の日々。
毎日の午後3時、私たちは喫茶店で会った。彼は仕事の合間を縫って来てくれた。私は締め切りのプレッシャーを忘れ、彼との時間に没頭した。
「高校の時、告白しようと思ってたんだ」
ある日、啓介が切り出した。
私の心臓が止まりそうになる。
「でも、できなかった。勇気がなくて」
「私も...」
言葉が詰まる。
「私も、告白したかった」
10年分の想いが、一気に溢れ出しそうになる。
しかし、現実は残酷だった。
「実は、婚約者がいるんだ」
啓介の言葉が、私の心を凍らせた。
「シンガポールで、一緒に働いている人」
それは、5日目の午後のことだった。窓の外では、また雨が降り始めていた。
「おめでとう」
精一杯の笑顔で告げた。
心の中で何かが音を立てて崩れていく。
「ごめん。こんな形での再会になって」
「ううん。良かった。会えて」
嘘ではない。彼に会えて本当に良かった。
けれど、それと同時に、もう二度と会えない方が良かったのかもしれないという思いも、心の片隅にあった。
啓介が帰国する前日。
私たちは最後にもう一度、あの店で会った。
「これ」
啓介が一冊のノートを差し出した。
「高校の時の文芸部誌。君の小説が載ってたやつ。ずっと持ってた」
表紙が少し色褪せたB5サイズのノート。『文芸部誌 第23号』と手書きで書かれている。
「私の小説...」
「『雨上がりのコーヒー』。今でも時々読むんだ」
私の処女作だった。高校2年生の時に書いた、拙い恋愛小説。主人公は、ある喫茶店で出会った男性に恋をする。その時の私は、啓介への想いを昇華させるように、この小説を書いた。
「あの時は、自分のことを書かれているなんて、気付かなかった」
「え...」
「今なら分かる。主人公の女の子が好きだった男の子。あれは僕のことだったんだよね?」
目から涙が溢れそうになる。10年越しの告白。
けれど、もう遅すぎた。
「私、書き直そうと思う」
「え?」
「『雨上がりのコーヒー』を。大人になった私たちの物語として」
啓介は静かに微笑んだ。
「読ませて」
「うん。完成したら」
それが、私たちの最後の会話となった。
翌日、啓介はシンガポールに戻っていった。
あれから1ヶ月。
私は毎日、この喫茶店に通っている。
いつもの席に座り、パソコンに向かい、新しい『雨上がりのコーヒー』を書いている。
大人になって気付いた。初恋は、終わりのない物語なのだと。
それは完結することなく、私たちの心の中で永遠に続いていく。
そして時々、雨上がりの午後に、懐かしい香りとともに蘇ってくる。
窓の外では、また雨が上がろうとしていた。
マスターが、ブレンドコーヒーを運んでくる。
「ありがとうございます」
私は静かに微笑む。
そして、新しい物語を紡ぎ始める。
これは、叶わなかった恋の物語。
けれど同時に、新しい始まりの物語でもある。
カップから立ち上る香りが、優しく私を包み込む。
この香りに導かれるように、言葉が流れ出していく。
「第一章、雨上がりの午後――」