表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

『雨上がりのコーヒー』

作者: Mizuguma

雨上がりの午後3時。

私は古びた喫茶店の扉を開けた。店内に漂うコーヒーの香りが、緊張で固くなった肩の力を少しずつほぐしていく。

「いらっしゃいませ」

マスターの柔らかな声が響く。10年以上通い続けているこの店は、私にとって第二の書斎のような場所だった。締め切りに追われる時も、スランプに陥った時も、この店のブレンドコーヒーと、マスターの温かな笑顔が私を救ってくれた。

「今日もブレンドで」

いつもの席、窓際の4番テーブルに座る。雨上がりの街並みが、水滴を纏った窓ガラス越しに見える。締め切りまであと3日。生活情報誌の特集記事を書き上げなければならない。ノートパソコンを開き、資料を広げる。

その時だった。

「ブレンドコーヒーを一つ」

聞き覚えのある声が、背後から聞こえてきた。思わず振り返った私の目に映ったのは、10年前に別れを告げた人の姿だった。

「美咲...?佐伯美咲さん?」

深山啓介。高校時代の同級生で、私の初恋の相手。今でも忘れられない、あの夏の記憶の主人公。

「深山くん...」

言葉が喉から絞り出されるように出てくる。啓介は少し戸惑ったような表情を見せたあと、柔らかな笑みを浮かべた。

「久しぶり。10年ぶりくらいかな」

時が止まったような感覚。店内のざわめきも、雨上がりの街の音も、全てが遠のいていく。まるで、青春時代にタイムスリップしたかのような錯覚。

「座ってもいい?」

啓介の声で我に返る。つい先ほどまで広げていた原稿用紙を慌てて片付けながら、私は小さく頷いた。

彼は昔と変わらない優しい笑顔で椅子に座った。スーツ姿は高校時代の制服姿とは違って見えるが、目元の優しさは昔のままだ。

「相変わらずだね、この店」

啓介が店内を見回しながら言う。そうだった。高校時代、私たちはよくこの店に来ていた。放課後、試験勉強をしたり、何気ない会話を楽しんだり。今でも鮮明に覚えている、あの頃の放課後。

「マスターも同じだし、メニューも」

「うん。ブレンドの味も、10年前のまま」

会話が自然と続く。啓介は商社に勤めていて、海外部門で働いているという。今回は一時帰国中で、来週にはシンガポールに戻るとのこと。

「美咲は?」

「私はフリーランスのライター。今も締め切りに追われる日々です」

少し照れくさそうに答える私に、啓介は「すごいね」と言ってくれた。

「昔から文才があったもんね。高校の文芸部で書いていた小説、今でも覚えてるよ」

心臓が高鳴る。彼が私の小説を覚えていてくれたことが、純粋に嬉しかった。

窓の外では、夕暮れが近づいていた。雨上がりの空が、オレンジ色に染まり始める。

「また会えるかな」

帰り際、啓介がそう言った。

「うん、また」

答える声が少し震えていた。

その夜、久しぶりに高校時代の写真アルバムを開いた。文芸部の部室で撮った集合写真。啓介と並んで写っている私は、今よりもずっと幼く見える。

スマートフォンが震える。LINEの通知音。啓介からのメッセージだった。

『明日も、あの店で会えないかな?』

心臓が大きく跳ねる。返信を打つ指が震えた。

『いいよ。いつもの時間で』

送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚があった。これは、10年前に感じたのと同じ感覚。

そうして始まった、啓介との再会の日々。

毎日の午後3時、私たちは喫茶店で会った。彼は仕事の合間を縫って来てくれた。私は締め切りのプレッシャーを忘れ、彼との時間に没頭した。

「高校の時、告白しようと思ってたんだ」

ある日、啓介が切り出した。

私の心臓が止まりそうになる。

「でも、できなかった。勇気がなくて」

「私も...」

言葉が詰まる。

「私も、告白したかった」

10年分の想いが、一気に溢れ出しそうになる。

しかし、現実は残酷だった。

「実は、婚約者がいるんだ」

啓介の言葉が、私の心を凍らせた。

「シンガポールで、一緒に働いている人」

それは、5日目の午後のことだった。窓の外では、また雨が降り始めていた。

「おめでとう」

精一杯の笑顔で告げた。

心の中で何かが音を立てて崩れていく。

「ごめん。こんな形での再会になって」

「ううん。良かった。会えて」

嘘ではない。彼に会えて本当に良かった。

けれど、それと同時に、もう二度と会えない方が良かったのかもしれないという思いも、心の片隅にあった。

啓介が帰国する前日。

私たちは最後にもう一度、あの店で会った。

「これ」

啓介が一冊のノートを差し出した。

「高校の時の文芸部誌。君の小説が載ってたやつ。ずっと持ってた」

表紙が少し色褪せたB5サイズのノート。『文芸部誌 第23号』と手書きで書かれている。

「私の小説...」

「『雨上がりのコーヒー』。今でも時々読むんだ」

私の処女作だった。高校2年生の時に書いた、拙い恋愛小説。主人公は、ある喫茶店で出会った男性に恋をする。その時の私は、啓介への想いを昇華させるように、この小説を書いた。

「あの時は、自分のことを書かれているなんて、気付かなかった」

「え...」

「今なら分かる。主人公の女の子が好きだった男の子。あれは僕のことだったんだよね?」

目から涙が溢れそうになる。10年越しの告白。

けれど、もう遅すぎた。

「私、書き直そうと思う」

「え?」

「『雨上がりのコーヒー』を。大人になった私たちの物語として」

啓介は静かに微笑んだ。

「読ませて」

「うん。完成したら」

それが、私たちの最後の会話となった。

翌日、啓介はシンガポールに戻っていった。

あれから1ヶ月。

私は毎日、この喫茶店に通っている。

いつもの席に座り、パソコンに向かい、新しい『雨上がりのコーヒー』を書いている。

大人になって気付いた。初恋は、終わりのない物語なのだと。

それは完結することなく、私たちの心の中で永遠に続いていく。

そして時々、雨上がりの午後に、懐かしい香りとともに蘇ってくる。

窓の外では、また雨が上がろうとしていた。

マスターが、ブレンドコーヒーを運んでくる。

「ありがとうございます」

私は静かに微笑む。

そして、新しい物語を紡ぎ始める。

これは、叶わなかった恋の物語。

けれど同時に、新しい始まりの物語でもある。

カップから立ち上る香りが、優しく私を包み込む。

この香りに導かれるように、言葉が流れ出していく。

「第一章、雨上がりの午後――」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ