#07
「あ、お疲れ様です、カイさん」
「あぁ」
「作業はスミでしますけど、邪魔だったら言ってください」
「大丈夫です」
「では、引き続きよろしくお願いします」
ホルストは嫌な顔をするが、フーゴは家の中の仕事をサトルに与えてくれた。簡単なことばかりだが、フロレンツの家に直接貢献できているようで嬉しかった。
厨房にいたカイは、最近雇われた料理番だ。フーゴとホルスト以外の使用人は必要な時間だけ出勤するのだが、調理場に慣れたいとカイはしばらく長めに時間を取っている。口数は少ないが、柔和な顔立ちをした人当たりのいい男だ。そのカイに軽く挨拶をして、スミの方でフーゴの説明を聞く。
「銀食器の手入れは、少々根気はいりますが、難しくはありません。サトルさんの仕事はいつも丁寧ですから、問題ないでしょう」
フーゴが取り出したのは銀製のカトラリーである。少し黒ずんでくもっている。フーゴが専用のクリームと布で磨くと、あっという間にピカピカになった。
「特にこの凹凸や溝を入念にお願いします。ゆっくりでかまいません。では、私は別の仕事を片付けてきます。また後で確認しますので、よろしくお願いします」
「はい。しっかり磨いておきます」
きゅこきゅこ磨いていく。目に見える成果の出る仕事は楽しいものだ。細かな箇所もしっかり磨き上げ、一本一本片付けていく。
「……ん?」
何か、手応えが違うものが混ざっていた。少し重さと輝きが違う気がする。気のせいと言われれば、それくらい些細なものなのだが、違和感は違和感である。フーゴに確認してもらおう。何事もなければそれでいい。そう思い、そのスプーンを避けておく。他にも磨いているうちに、違和感を伴うナイフが出てきた。念の為避けておく。何事もなければそれでいい。
「サトルさん」
「はい?」
声をかけてきたのは調理場で作業をしていたカイだ。
「よかったら味見してもらえませんか?」
「僕でいいんですか?」
「はい、ぜひ」
渡されたスープカップには、なみなみと入ってはいないが、味見というには十分過ぎる量のスープが入っていた。スパイシーなかおりと、それも何かのスパイスなのか、ふんわり甘い香りがする。
「いただきます」
少しすすってみる。思ったほども熱くなかったので、もう一口二口飲んでみた。
「おいしいです! でも、何か苦みを感じたんですけど、こういうものなのですか?」
「そうですか? 調整してみますね」
「僕の好みの話ですから、こういう味のものならいいと思います」
言うが、カイは鍋の方にもどってしまった。仕方なく、作業にもどろうと次の銀のスプーンを取り上げる。
身体が熱くなってきた。同時に、まぶたが急に重くなる。
「あの、これ……」
確認しようとカイの方へ身体をむけようとするが、抗えず、意識が途切れた。
鐘の音が聞こえた。目を開ける。そこはベッドだった。目が回る感覚がつきまとい、吐き気が胸のあたりまで上がってくる。目を開けても閉じてもぐるぐるする。
まさか、毒?
思いついてしまった可能性に血の気が引く。
どういう状態なのか、まわりには誰もいない、気づかれていないなら、看てもらわなければ。
身体は動くが、まともに歩ける気がしなかった。目が回る感覚は時間の経過でも軽減せず、吐き気を増長させる。
「サトル、いるか?」
ノック音。フロレンツだ。声が細くしか出なかった。返事をしたくても、届くほどの声を出す気力がない。
「サトル、いないのか? 夕食の時間だ」
もう一度、呼びかけられる。
食事、銀食器、毒。結びついた。
銀食器が使われる理由は、貴金属という理由もあるが、毒の検知という理由もある。何か化学反応で銀が変色するのだ。あらゆる毒に対して有効ではない。どのような反応で何が検知できるかまでサトルは憶えていないが、おそらく、無味無臭無色とかで気づかれにくく、用いられやすい毒に対して有効なのだろう。
銀食器と銀でないものに取り替えられていたら?
毒殺を目的として取り替えが行われたのであれば、サトルが昏倒したことも含めて、犯人は決まってくる。そして、フロレンツに服毒させるタイミングは、これからの夕食に限られる。
「ダ、メ……!」
無理やり身体を動かす。頭がぐわんぐわんしたが、無視して転がるように駆ける。まともに二足歩行できた気がしなかった。体当たりと反動でドアを開ける。
「っ! サトル!」
その場を離れようとしていたフロレンツが駆け寄ってくる。
「ごはん、だめです! 食べちゃ……ごっ!」
喉元までせり上がっていた吐き気が、ついにこぼれ出た。
顔から出せる体液を垂れ流しながら、サトルはまた意識を失った。
その後のことは、サトルが気を失っているうちに完結していた。
結論からいえば、フロレンツの暗殺計画はまったくなかった。サトルの勘違いである。あったのは、銀食器の窃盗。もちろん、犯人はカイである。金目の食器を少しずつ入れ替えてかっぱらっていたのだが、サトルが気づいたように見えたので、酒を飲ませて(試食のスープに強い酒を混ぜた)昏倒させた。カイはサトルが酒に弱いことを知っていたが、どれくらい弱いのかまでは知らなかったため、眠らせたあと追加で飲ませた。そしてベッドに運んでおいた。目が回るような感覚と吐き気は、つまり泥酔のためだった。
カイは、窃盗を企てる浅はかさの持ち主だ。あっという間に捕まった。
そうして、サトルが目覚めるまでに、事件は解決していたのである。
朝の鐘の音で目が覚めたサトルは、顔面からいろいろ垂れ流したからだろう、カピカピになった気分だった。ずっと付いてくれていたフロレンツから事の顛末を聞かされ、とりあえずホッとした。
「フロレンツさんが大事に至らなくてよかったです」
「サトルは大事に至っている」
「今はもう無事ですから」
「どこが無事なんだ!」
ほとんど消化していたのだろうが、昼食だったものを吐き散らかし、以降は夕食どころか水分も取れていない。エネルギーが枯渇しているのだろう。身体に力が入らず、ベッドにふせったままだ。重力にすら抗えない。
「ご迷惑をおかけしました。でも、心配しないでください。すぐ回復しますから」
ただのエネルギー不足と二日酔いだ。食べて寝ていれば治る。
「サトルは、私が心配することも許してくれないのか?」
「え?」
手を握られた。厚くて大きい、岩のような手。サトルの手は簡単に包みこまれてしまう。
「これは私の勝手だ。サトルを心配させてほしい。私に迷惑をかけてほしい。そうでなければ、何も起こらないようにサトルを閉じ込めてしまいたくなる」
「うん……うん?」
不穏な言葉が頭で処理しきれず、聞かなかったことにした。
「それは、はい……フロレンツさんの勝手です。ただ、それがフロレンツさんの心労になるのは、僕の本意ではないです」
小柄で細身のサトルは頼りなく見えているのだろう。そんなサトルが慣れない環境にあって、心配するなという方が無理なのかもしれない。少し考えを改めよう。弱々しい何かが無防備に外に出ていこうとするなら、閉じ込めておきたくなる気持ちもわからなくはない……か?
「心労になどなるものか。サトルは──」
フロレンツは言いかけてサトルの頬をなでた。
「食事を持ってこよう。今日は一日身体を休めるんだ」
フロレンツは席を立った。
「────え?」
一人になって、クラクラするほど顔に血が上った。優しい触れ方は、サトルが思っている以上の“何か”が乗っているようで。
「何なんですか、それ……」
考えるにもエネルギーが足りない。保留にしておこう。未来の自分に投げておいた。
フーゴかホルストが持ってきてくれるものかと思っていたが、フロレンツが直々に朝食を持ってきてくれた。
ベッドを出ようとしたが、止められた。身を起こされ、口元までスープをすくったスプーンが運ばれる。
「そこまでしていただかなくても……」
「フーゴが作ったものだ。心配ない」
「……はい、いただきます」
手は下げられなかったので、しかたなくそのままスープを口に含んだ。
ミルク色のスープは、野菜と塩漬け肉の旨味が行き渡っていた。柔らかい口当たりは優しい。しかし、悪くなってしまったものを口に入れてしまったように、身体が飲み込むことを拒絶した。
「っ! えふっ! こほっ!」
咳き込む。スープのほとんどはとっさに抑えた袖口に吸い込まれてしまった。
「すみません、食欲ないみたいで」
「食欲がないというものではないだろう! これは大丈夫だ。私も食べている」
サトルに見せるように、一匙フロレンツは口に運んだ。少し、気持ちがざわついた。もちろん毒など入っているはずもない。わかりきっているのはずが、どうしても過剰に反応してしまう。
フロレンツはまた口元にスプーンを運んでくれた。大丈夫なことはわかっている。少し、口の中に入れる。
「──……」
飲み込めなかった。
口元を抑え、噛むものもないのにもごもごしていると、タオルを渡された。
重く罪悪感がのしかかってくるが、しかたなく咳き込みつつ吐き出す。
「ごめんな「すまない。この家での安全は保証すると言ったのに、それを反故することになってしまった」
「しかたないですよ。悪意なんて目に見えないものを持ち込ませないことは難しいって、僕にもわかります」
フロレンツもフーゴも、わざわざ盗人とわかって雇っていたわけではない。経歴なども問題なかったのだろうが、そのつもりがなくとも、魔が差すことなどいくらでもある。
「“仕方ない”などで片付けたくはない。サトルが安心できる場所がなくなってしまう! すまない、私の不手際だ」
「いえ、いろいろ考えてくださってありがとうございます」
「せめて、一口でも」
ふと、なにか思いついたようにフロレンツの目線が左下に流れた。
フロレンツは一口二口スープを自分の口に運んだ。食べられないと判断されたのだろう。無駄にせず食べてくれるならその方が気が楽になる。持ってきてくれた朝食にはパンもついてきた。無理な気はするが、食べてみようか。
と。顎がつかまれた。
「~~~っ!!??」
口の中にスープが流し込まれた。口移しで。
一部は口の端からこぼれてしまったが、驚きと勢いで飲み込んでいた。
「少しは飲めたな?」
「へ? あ、はい」
力なく最低限の動きしかしていなかった心臓がどかどか鳴りはじめる。血が巡る。一瞬でクラクラした。
フロレンツはまた自らの口にスープを運ぶ。また顎をつかまれた。
「まっ……! それは心臓が持たないです!」
「緊急事態とお見受けします!」
「はいそうです緊急事態で……す?」
ドアが全開放されていた。つかつか入ってきたのはマリーである。その後ろに、困惑のフーゴとホルスト。
「神は基本的に請われたときしか干渉しませんが、今回は例外です!」
「は、はい!」
「神からのお告げです。パンがなければケーキを食べればいいじゃない!」
「たしかにマリーだけど、アントワネットの方!?」
「作ってもらったものに文句があるなら、自分で作りなさい!」
「お、お母さん!? ……でも、たしかにそうですね」
「え?」
サトルは妙案だと思ったのだが、フロレンツには何もわからなかったようである。
自らコップに汲んだ水はどうにか飲めたので、はちみつと塩を溶かして簡易経口補水液を飲んだ。活動するにギリギリのエネルギーは摂取できた。
「本当に大丈夫なのか?」
フロレンツはオロオロしながらも見守ってくれている。
「大丈夫ですよ。お仕事のお手伝いで調理手伝いみたいなこともやっています。元の世界でも、一人暮らしのために料理を教えてもらっていましたから」
厨房であれこれ探す。大きさや色味が異なるものもあったが、フロレンツに聞きつつほんやくコンニャク機能を通すとだいたいサトルの知っている食材であった。ほんやくコンニャク機能を信じて調理を進めよう。
「おい、ばあさん……連れてきたぞ……」
ぜーはー息を切らせてホルストが連れてきたのはカルラだった。カルラは至って涼しい顔をしているので、カルラの足腰を考えると、ホルストがおぶってでもして連れてきたのだろう。
「サトルくん、ご飯食べられないんだって?」
「うん。よくないもの食べさせられちゃって、ちょっと怖くて。自分で作ったものなら大丈夫かなって思って、今から作るところなんだ」
「あら。おばあちゃんの串は食べられる?」
「うーん、わからないけど、おばあちゃんの串は食べたいなって思うよ」
「そう。じゃあ、横で焼かせてもらうわね」
「うん」
大学に通うため、一人暮らしを始める予定だったサトルは、料理を母から教わっていた。野菜をたくさん入れた味噌汁に卵を落として、あとはご飯があれば大丈夫、と母は言っていた。家庭科の授業を思い出すに、炭水化物とビタミンとタンパク質が摂れる献立なのだろう。そして、出汁が──うまみを感じられれば、味付けが極端でなければ、だいたいおいしい。
野菜はあらかじめ炒めておくと、旨味が出やすい。少し塩を振っておくと、より旨味が出る。あまりかき混ぜず、少し焦げ目ができるくらいがいい。トマトは旨味の塊。干して出汁が出るなら、干さなくてもキノコは旨味が豊富。肉からも出汁が出る。そしてタンパク質だ。全部スープにしてしまえば旨味は無駄なく食べられる。炭水化物は、パンを添えてもよかったが、今回は全て自分の手で作りたい。小麦粉を水で練ったものをのばしてちぎって入れていく。一部ふんわりした記憶もあるものの、知識を総動員させる。
母は、万が一を考えて一度うどんとパスタを打ってみようと言って、作ったことがあった。その万が一は金銭的な万が一で、今回とは異なるが、今回は今回で万が一だ。ご飯も味噌汁もなければ、小麦粉でどうにかすればいいじゃない。
本来は醤油で味を整えるところだが、ないので塩で味を整える。スープの味見は問題なくできたので、どうにか食べられそうだ。やっと、空腹が戻ってきた気がした。
「できましたけど、お鍋いっぱいになっちゃいました」
「足りないよりずっといい。私ももらっていいだろうか?」
「はい。お口に合えばいいんですけど。おばあちゃんも食べる?」
「あら、あたしももらっていいの? もちろんもらうわ」
カルラが焼いた串とともに、朝食とも昼食とも取れるものを食べることになった。
味見をしたので味はわかっていたが、だいたい想像通りの味にできあがった。いかに旨味を出すかに重きをおいたために作ったごった煮になってしまったが、栄養が全部摂れるのでよしと、心の中の母が言ったので、よしとしておく。
小麦粉で作った団子も、各種野菜肉も、問題なく食べることができた。カルラが焼いてくれた串は、サトルがその工程を見られるようにわざわざとなりで調理してくれた。サトルの口に合わせて小さめにカットされている肉片を口の中に収める。食いでのある噛みごたえ。もうすっかり“いつもの味”になったほどよい塩味とスパイスの風味。噛み締め、飲み込む。
「おばあちゃんの串焼きはいつもおいしいね」
「ありがとう。サトルくんも、お料理上手ね」
「みんなに色々教わったからね。おばあちゃんにも、火の氷石の扱い教えてもらったから」
元いた世界でも料理を教えてもらっていたが、この世界の調理器具は使い勝手が違う。そのギャップは、あちこちアルバイトをして回るうちに埋まっていたのだ。
「とてもおいしかった。これは、どういう料理だ?」
黙々と食していたフロレンツは、早々に皿を空にしていた。
「母の出身地の郷土料理をベースにしたものですけど、トマト入れませんね」
母は野菜を何でも入れていたが、トマトを入れたことはなかった。トマトはうまみが強いが、味も強いのである。
「トマト味のひっつみ……なのかなぁ……? トマトとひっつみは相容れない気がする……」
料理名が胡乱なことは、少なくともサトル宅ではよくあることだった。
「おかわりをもらっていいだろうか?」
「どうぞどうぞ。僕、お腹いっぱいになりましたから、気にせず食べちゃってください」
フロレンツは嬉々として皿に胡乱なスープを注いだ。
「サトルくん、お腹いっぱいになったのね。よかったわ」
カルラは我がことのように喜んでくれている。
最初はすべてを疑う気持ちが強かったが、それもいつの間にか消えていた。この世界──この町とて、すべてが善意でできているわけではない。悪行ははびこり、己の快楽のために人を貶めることも、いくらでもある。時々悪意に触れてしまっても、悲観的にならなかったのは、善意がサトルを守ってくれたからだ。
「顔色もよくなってるわね。食べられなくて、お腹が空いているのはよくないわ。おばあちゃんが小さいころの話ね。おばあちゃんのお父さんは、ちょっと夢見がちで、お酒の好きな人でね。お仕事はしていたんだけど、お酒を飲んでから帰ってくるから、いつもあたしはお腹を空かせて待っていたのよ。それを、フロレンツ様のお祖父様が、あたしと年も変わらないのに、お説教してくれたのよ」
小さい頃がどれくらいを指すのかはわからないが、ここでの成人は十五歳だ。それよりも前の年だろう。領主は世襲制ということは聞いていた。フロレンツの甥姪もそのための勉強を始めている。フロレンツの祖父も小さい頃から立派だったのだろう。年上の男を改心させるくらいに。
「でもね、お父さんは生活を変えなかったの」
「あれ?」
改心していなかった。
「もう自分でどうにかするしかないって思ったから、教会で何ができそうか調べてもらって、食堂で働きだしたのよ。そこから始まって、今も串焼きをしているわ。だからね、サトルくん。人は、おいしいものを食べてお腹いっぱいになったら、だいたい元気になるの。それを自分でできるのは、強い力。この味、お店で出せるわ」
「そんな、大したものじゃないですよ」
「あたしが褒めてるんだから、素直に褒められなさい」
「はい……」
「昔のことを思い出しちゃうから、お腹が空いて辛い子は見ててあたしも辛いのよ。サトルくんもお腹が空いてどうしようもなくなったら、あたしのお店に来なさいな。いっぱい食べさせてあげるからね」
「はい、ありがとうございます、おばあちゃん」
ぽんぽんと腕をなでられた。触れたのはほんの一瞬だが、温かさと柔らかさがじんわり染み込んでくる。
「僕、食べるのが怖くなってたんだと思います。自分で作ったものはともかく、おばあちゃんの串焼き、食べられてよかったです。僕、おばあちゃんの焼いた串がおいしいって知ってますから。これなら、他の人が作ったものも食べられると思います」
「そう、おばあちゃんのこと信じてくれたのね」
「……うん」
「フロレンツ様のことも信じてあげてね」
「うん。信じないと、生きていけませんから」
「あら、ダメよ。そんなことは関係なく、フロレンツ様自身を信じてあげて」
「うん……」
カルラは手を握ってくれた。年季の入ったシワの多い小さな手だ。優しく抱きしめるようになでてくれた。
腹が減っては戦はできぬというが、何をするにしてもエネルギーは必要だ。例えば、泣くことにも。
信じたかった。優しく笑むカイを。苦みに対してあまりにも過剰な己の中の警告は、ただの気のせいだと。血の気が引くような怖気。気が遠くなっていく恐怖。こみ上げてくる吐き気。目覚めた瞬間の安堵と信じがたいが思いついてしまった推測。悪意ある計画。一気に押し寄せてきた。嗚咽が漏れる。涙がこぼれる。鼻水も出そうだった。
「あたしは漂流者じゃないから、全部わかってあげられないわ。それでも、ちょっとだけ想像できるの。何を信じていいのかもわからない世界でも、サトルくんはいい子だから信じたかったんじゃないかしら? でも、悪意に巻き込まれちゃって、信じたくても信じられなくなっちゃって。辛いわね、それは。いい人もいれば、悪い人もいる。いい人も悪いことをすれば、悪い人もいいことをする。悪いことは、きっとまた起こるわ。いいことも、たくさん起きるわ。まだ諦めずに信じてほしい。いいことにも目を向ければ、この世界も悪くないと思えるから」
「うん……」
目元を拭う。背を、あたたかくなでられる。
「まだ至らない点もあるだろうが、この家がサトルにとって安心できる場所であるように、私も努めよう」
背をなでていたのはフロレンツだが、しっかり二杯目の皿を空にしていた。