#04
鐘の音が聞こえる。教会が時を知らせるために鳴らしているもので、朝・昼・夕方に鳴らされる。フロレンツの屋敷は教会から離れているが、そこまで聞こえるほどの大音量というわけではなく、スピーカー(内部機構は異なるが、機能は同じもの)を利用して町中どこでも聞けるようになっていると教えてもらった。この町に限ったことではなく、時間管理は教会がおこなっているのである。
ゆっくり目を開ける。室内は日中よりも薄暗い。向かいのソファでフロレンツがランプの明かりで本を読んでいた。がっしりとした厳つい身体にふさわしい大きな手でペラリとページをめくっている。
「……あれ?」
サトルが身を起こすと、毛布が肩からずり落ちた。
「あぁ、起きたか」
優しい声になでられ、また横になりたくなった。
「……僕、寝てましたね! お話中にごめんなさい!」
「こちらこそすまない。おそらくアルコールが原因だと思うのだが、あれくらいで酔うとは思わなかった」
「お酒だったんですね。僕も、そんなに弱いなんて知りませんでした」
サトルの両親は酒に弱いという自覚があり、サトルの家では、飲酒は日常の中になかった。親戚ほとんどが酒に弱いので、十中八九血筋だ。サトルもそうだとは思っていたが、一匙の酒で酔ってしまうほどだったらしい。
「しかし、わかったのが今でよかった。酒を飲ませてどうこうしようという輩はどこにでもいる。自衛してほしい」
「気をつけます」
男の自分がどうこうされるものかと思ったが、強盗だとか誘拐だとか、いくらでも最悪の事態は考えられる。漂流者が富を招くという伝承がどれほど強く信じられているのかもわからないのだ。肝に銘じておこう。
「夕食は兄に誘われている。サトルに確認せず誘いを受けたが、よかっただろうか? ここで食べるよりちゃんとしたものが出る」
「お誘いはいいんですけど……フロレンツさんの普段の食事、大丈夫ですか? その身体を維持するのに、食事って大事な要素だと思うんですけど」
「食事はあまり優先順位が高くない自覚はある。すまない、考慮する」
「いえ、僕は何でも食べられますから。あぁ、お酒以外は、ですね。おいしいにこしたことはないですけど」
最後は少し弱々しく付け足した。
ヘルマン一家の食事は、たしかに十分に味気があった。あまり使い慣れていないナイフとフォークの食事だが、ゆっくりになってしまったが、おいしく食べることができた。マナーは気にしなくていいと先に言ってもらえていた。ローザとヘルムントに『教えてね』とお願いすると、張り切って教えてくれたので、大きな失敗はなかったと思いたい。
食後は、お茶を飲みながら話をすることになった。
「まだ何もわからないことばかりで不安も多いですけど、フロレンツさんが気を使ってくださるので、不安も早く解消できそうです。今のところ、環境がただちに僕の身を害してくるようでもないので、今日はもう少し安心して眠れそうです。同じような形の人間が生活しているんですから、適応する環境も似てるんでしょうね。ほんの少し空気の成分の割合がちがうだけでも、僕の身体には害になりかねませんから」
「呼吸一つで死にかねないのは、たしかにそうね。ほんと、無意識。でも、子どもの面倒を見ていると、些細なことで亡くなったなんて話もよく聞くから、サトルはそれに近いかもしれないわ。一日よく生き延びてくれたと思います。おめでとう」
「ありがとうございます……?」
母親の経験は重い。それはけして大げさなわけではない。ほんの些細なことが幼児の死亡事故につながるという話は、サトルもよくニュースで聞いていた。サトルがちょっとつまずいただけで死にかねない勢いで言ってくるのも、あながち間違っていないのかもしれない。
「生きるには問題はなさそうですけど、僕が住んでいた土地はもっと湿潤で、ここは乾燥してるなって感じます。今日だけたまたまかもしれませんけど。ちょっと肌や唇が乾燥しますね」
「それは大変! すぐに持ってくるわ!」
「え、何を……」
答えを聞く前に、エリザは消えていた。
「妻の実家は養蜂家で、嫁いできてからも庭に蜂を飼っている。自分で作ったものを含めて、化粧品の研究に余念がない。その中から何か取りに行ったのだろう。美しくありたいと務める妻は、とても美しく愛しいよ」
エリザを見送ったヘルマンは、柔らかく口元で笑みを作っていた。
「ノロケですかね?」
「あぁ、ノロケだ。兄は、町一番の愛妻家だと言われている。諦めてくれ」
「本当のことでも照れるな。事実なので仕方ないか」
その自覚があるのはいいことなのか悪いことなのか、サトルは判断しかねた。
そのまましばらくノロケを聞かされた。エリザが戻ってくるまで。
「肌に合う合わないがあるから、試させてくださいね」
手首の内側の下辺りに、クリームや化粧水らしきものが塗られた。
「きめ細やかできれいな肌! 髪もしなやかでつややかね。コシもあって、しっかりしている。のばさない?」
美容の話題には食い気味のエリザだった。
「えっと、そういえばみなさん髪が長いですね」
エリザはもちろん、フロレンツとヘルマンも長髪といえるくらいに髪が長かった。二人は簡単にまとめているだけだが、エリザは繊細なアクセサリもつけている。町の中でも、男女問わず髪が長いものがほとんどだったことを思い出す。
「髪は、威厳よ」
「威厳」
急な重い言葉を、つい繰り返す。
「のばすのは、考えておきます」
それが普通ならば、のばした方がいいのかもしれないが、まだ判断できるほどの情報を得ていない。
「義弟の方は石鹸しかなかったでしょう? ストックを持ってきてるわ。これはね──」
かごに持ってきたそれぞれを、エリザは気が済むまで説明したのだった。
「たくさんもらっちゃいましたけど、いいんでしょうか?」
「むしろもらってほしい。義姉は、そういうものを作るのは趣味で、売れるほども作っていないが、一家族で使うには持て余すくらいできるそうだ。聞いてのとおり、石鹸は我が家でも使っているが、それ以外はほとんど使っていない。質がいいことはわかるのだが……」
かごには各種ヘアケア・スキンケア用品がつまっている。エリザが蜜蝋やはちみつから作ったものなのだそうだ。夫と義弟に比べて遥かに美容の話が通じると知れたので、ずっと語られた。年の近い妹と、母の話によく付き合っていたからだろう。エリザのこだわりもある程度は理解できた。それが伝わったのだろう。嬉々として話してくれた。あれもこれもまだストックがあるからと、各種ケア用品がサトルに渡されたわけである。おかげでカサついた唇も無事に潤った。肌は乾燥すると痒くなる。試しに塗ったところ問題はなさそうなので、ありがたく使わせてもらおう。
「お風呂が楽しみになる……あっ、お風呂の頻度が毎日って、もしかして多いですか?」
「人それぞれだろう」
「フロレンツさんの頻度は?」
「……毎日ではない。気にせず使っていい。何でもこちらに合わせなくてもいい」
「うぅ、ありがとうございます」
サトルとしては、一日くらい入らなくても平気ではあるが、それと、入浴が隔日(あるいはそれより長い間隔)になることは別である。できるだけ毎日入りたい。そこは甘えさせてもらおう。気にしないでいいと言われても気になるものは気になるので、せめてフーゴに風呂掃除について聞こうと思いながら。
湯を使ったあと、サトルは早速使用人のフーゴを探した。フーゴとホルストはほぼ住み込みで働いている。使用人室を訪ねると、フーゴ快く中に入れてくれた。ホルストは今日は帰宅しているとかで、いない。少しホッとしたのは、まだ丸一日しかこの屋敷で過ごしていないが、ホルストは妙にサトルへのあたりが強いからだ。何を思っているのかは本人にしかわからないことだが、急に湧いたサトルのことを煩わしく思っているのだろう。きっと、サトルのせいで仕事も増えているにちがいない。
「それで、ご要件は何でしょうか?」
「お風呂のことを聞きたいんです」
事情を話すと、理解を示しつつも、
「それはサトル様が気にされることではないですよ」
と答えてくれた。
「すみません、僕はただの庶民なので気になるんです。まだ、何もできないからこそ、そういう些細なことからでも、自分ができることを探したいとも思っています。あ、そうだ。僕になにかできることはないでしょうか? 簡単な家事はできるつもりです」
「お客様にそのようなことをさせるわけには……」
「僕は客ではないです。今はまだ仕方ないかもしれないんですけど、いずれ自立して生きるすべを見つけて出ていかないとと思っています。ここでも僕は成人している年です。一生このままお世話になることもできませんから」
この世界でも、一年という単位があった。閏年や端数はなく三六〇日らしい。聞いて、約数が多いなと思った。サトルの基準で一八歳は、誤差はあるが大きな誤差ではない。
「おっしゃりたいことはわかりますが、まだお早いのではないですか?」
「急いでるつもりはないです。できるだけ早く行動に移したいとは思っていますけど。今日も、フロレンツさんの一日分の時間を使わせてしまいましたから。ヘルマンさんにご夕食に招待していただきました。エリザさんにケア用品をたくさんいただきました。フーゴさんも、お茶、おいしかったです。ありがとうございました。こんなにたくさん頂いて、何も返せないのは、心苦しいです」
「サトルさんはお優しいのですね」
「ただの小心者ですよ」
誰かに手を引いてもらわねばならないのが現状である自覚はある。だからといって、いつまでもその状況に甘んじてはいられない。
「人を一人養うって、大変なことです。僕は自発的に動けますから、手間は慣れてしまえば軽減できるでしょう。でも、金銭はそうはいきません。僕に支払い能力があればいいんですけど、あるのはこの身一つだけ。なにもなくて、もらってばかりで、対等には程遠い。あぁ、話がずれちゃいましたね。この御恩を返せるように、そのために協力してくださいって、なんだか本末転倒な気はしますけど、協力してもらえると嬉しいです」
今のところ、サトルは聖なる力や飛び抜けた技術や知識を持っているわけではない。庶民ができることと言えば、フロレンツたちが治めるこの町の健全な一市民として貢献することくらいだろう。極端な富とはならないが、少しくらいは足しになるはずだ。
「わかりました。えぇ、実は明日、フロレンツ様から申しつかっていることがありまして。午前中はローザ様とヘルムント様との学習と聞いています。午後からは、サトル様の身の回りのものを揃えるようにと」
「買うってことですよね」
「はい。主に衣類ですね。今のお話を聞いたところ、サトル様には心苦しいかもしれませんが、今は諦めてください」
「はい……」
サトルが借りている衣類は子ども用の服なのである。
「それと、仕事の一環としてギルドに行く必要がありますので、そこでサトル様の仕事について調べてみるのはいかがでしょう?」
「ギルド、ですか? それはどういうところでしょう?」
急に出てきた異世界ものらしい言葉である。ほんやくコンニャク機能が訳しているはずだが、いまいちピンとこない。
「個人での利用でいえば、仕事の斡旋をしてくれる組合のことです。本来でしたら職業別の組合があるのですが、この町はそこまでの規模がありませんから、それぞれの担当はいますが、総合的な仕事の仲介業者となっています。専門性がある仕事には、訓練の機会を設けている場合もあります。短期的なものから長期的なものまで紹介してくださいます。漂流者が特殊な事例であることは理解してくださると思います。相談してみてはいかがでしょうか? 不安でしたら、私も一緒に話を聞きますよ」
「へえ。じゃあ、ギルドまでついていきます。知ることにはつながると思いますから、今後の指針になると思います」
「えぇ、ご協力いたします」
話を聞きながら、ギルドなど異世界物(あるいはファンタジー世界観)で聞きそうな言葉だと思ったが、つまりはハローワークだな、という結論になった。もちろん、それ以外の役割もあるのだろうが。
いくらか不安が解消されたのか、サトルは前日よりもう少し眠ることができた。