六 怪物と紅月その一
彼は妃にすると言っていた。そう言っただけでその後の動きは特にない。本当に妃にする気などあるのだろうか。
となりにいれれば、いい。それだけで有栖には十分である。正直な所、彼の行動の真意が有栖には読めない。それとここ二日ほどの彼の行動がはおかしい。この間とは別のことを恐らく隠している。
(シェリルの言っていたとおりだ。だとするとなにを隠している?)
日を追うごとに白銀の彼はどこか異質な雰囲気を纏いはじめている。今までの生活で感じたことのないもの。
それと同時に外もなにか変だと気づいた。明らかに空気がおかしい。寒くもないのに空気が氷点下のように肌へと刺さってくる。ピリピリと刺激してくる、おかしい感覚。
「なにかあったの?」
「どうしてそう思う」
「どこか変な感じがするから、かな?」
彼は一瞬じっと見つめる。はぐらかされるだろうか。
「お前にはあまり言いたくないことだった。だが知りたいのなら時間をくれないか?」
「え?いいの?」
「よいとも。有栖がそんな風に気にかけると思わなかったがな」
そこで有栖はむっとする。確かに彼の目には誰にも興味を抱いてないと、映っていたのだ。そんな彼女でも彼についてわからないのが、すこしもどかしくなっていた。
そして白銀の彼は基本受け身でいる。有栖自身、己の中で整理しているがまだまだ先になりそうである。それで本当によいのか。彼女にはそんな疑念が生じていた。
朝になり、彼はどこか軽い足取りで執務へと向かう。部屋の外で待っていた宰相も気が付くぐらいには。もっとも有栖は外を見ていてそれには気が付かず、当の本人も気づいてない。
聞いたことについて、起きて部屋を出ていった後も考えていた。最低な人間なのかもしれない。聞いておきながら、おそらくなにもできない。ただの知的好奇心を満たすだけの、それ以上でもそれ以下でもない質問である。役に立ちたいというのはあれからも変わらない。ただ知りたいだけなのではと、思いもありながら。
王城を歩む有栖ははどこか浮かない様子でいた。守備兵も異変を読み取り、軽く形式的にしか引きとめない。業務を果たしながら一応の主君を丁重に、腫物のように丁重に。
(やっぱ体のなかでもやもやしている)
それでもこれは知らないといけない。知ってからできることもある。迷う人や、求める人の願いを、せめてすこしでも叶えられるようにするのは、神が与えた役目だと彼女は自負している。それは自惚れでも過信でもない。これまでの日常がそうさせた。
そう決心して、有栖は半ば日課とかしていた王城の探索を切り上げた。
■
粛々と仕事をこなして、白銀の彼は昨夜のことについて思い耽ってしまっていた。再会してからの有栖は、彼から見てどこか浮世離れしていた。だからこそ意外であり、未だに彼は信じられない。彼女から自分について訊いてくことがあるとは。彼女はどこか受け身的だった。命の危機さえ、そうだったのだ。それが自分へ訊いてくるとは。
白銀の王は執務机に向き合い手を止めずにいる。法案や各地からの報告書へ手早く目を通していく。普段と変わらぬ雑事。彼はその中で心がここにあらずという状態でいるだけ。もっともそれはほぼ悟られない。妹や側近の宰相にも。執務室には彼と衛兵しかいない。
(となりに居てくれるだけでよかったはずなのだが)
彼にも人並の心はある。ただ押し殺して生きることに慣れてしまっただけで。それ故に、彼自身で気づけなくっている。そうしていると時間は瞬く間に過ぎていった。丁度よく宰相が入室してくる。
「お疲れささまです、陛下。今夜は紅月ですがいかがいたしましょう」
「いつもどおりだ。私の部屋には何人たりとも近づけるな」
「仰せのままに」
やっと解放されたという脱力感が彼を襲う。普段ではこんなことはなかった。直後にいいようのない不安と、恐怖が全身を支配していく。しかし白銀の王はそれすらも心地よく感じていた。この感覚はいままでではあまりなかったものだ。
そんな主君を見ていた宰相はまだなにか言いたげだったが、ただ見ているだけ。彼とて、わからぬわけではなかった。が、それを無視するように彼は足早に自室へ向かう。まずは外の変化から説明すべきだろうか。そうしたほうが分かりやすいだろう。ここまで考えてきたことだというのに、彼は今になって緊張してきた。そうして緊張しだしていると、部屋についていた。
「おかえり」
有栖はいつも一言だけ。白銀の彼はそれだけでも励まさられる。彼女は朝と同じく空を眺めている。外は微かに暗くなりだしてきていた。見え始めてきた月が、ほのかに紅く色づいている。
自室へ戻ると白銀の彼はベッドへ腰を下ろした。朝とは違う雰囲気に彼女も気づき、横へ腰を下ろす。両者ともすぐには話し出さないので、二人の間で暫く沈黙が起きる。なんとも言えない空気になり、なんとか打破しようと、有栖が他愛のない話を訊くため、口を開きかける。だが、紅い月光で染まっていく彼が制止した。
「お前は月が紅くなっているのに気が付いたか」
「う、うん」
「あれはな、不定期に魔力が溢れだし空気にまで作用して月光が紅く見えるのだ」
言い淀みながら、月が紅くなる現象について説明していく。声がわずかに震えていくのに、彼自身も悟っている。恐怖を堪えているのか、それとも今まで向き合ってきたものを他者に初めて話すからか。
話が進むにつれ、外は徐々に紅に染まる。不気味でありどこか神秘的な夜へと移っていた。有栖が隣の白銀の彼の異変に気づいたのは、紅月について説明し終わってから。
照明は付けず、月明りだけが頼りで部屋は紅く染まる。白銀の彼の姿がありありと彼女の瞳に映っている。いや、その月明りが彼の異常をより引き立たせてしまっているのだ。体躯は通常より大きく異様なものとなり、牙や手足の爪は長く鋭利なっていた。
「気づいたか。そうだ、私は化け物なのだ。玉座に座っていることすらおこがましい、神話の英雄に討ち果たされる怪物だ」
■
確かに怪物かもしれない。耳は尖り、牙はさらに鋭くなっている。手足は筋肉が増し、体躯も倍とまではいかないが大きくなっている。目つきも普段より鋭く、前を睨みつけているように見えた。だが有栖にそう見えたのは一瞬。その何かを恨む瞳が自分への蔑みを持ったものだと、彼女は理解した。
「やはり、私が怖いか?そうだろうな。我が事ながらはじめは恐怖でなにもわからなくなった。物心ついた頃からこうだったのもあり、もう慣れたが」
なにも言えない。その姿と向き合ってきたはず。だから白銀の彼にどんな言葉をかけても同情になる。それは彼に失礼でしかない。有栖は顔を曇らせてしまう。
(私はどうすれば・・・)
有栖が少し無言でいると「少しを距離をとっておく。だから気にせず過ごせ」と寂しそうに、その場から離れようとする。そうしてベッドから立ち上がろうとした瞬間に、有栖の手が精一杯の力で変異した白銀の彼の手首を掴む。怪物と自称した彼はが振りほどこうと彼女に目をやれば、俯きながらも体は微かに震えていた。それがわかると、また腰を下ろした。
思考よりも言葉よりも先に、体が動いていた。安心してほしかった。ただ自分を肯定してほしかった。大丈夫だと伝えたかったのだ。
「あなたがどんな姿になっても、私はそばにいるよ」
「有栖、私は・・・」
「あなたのためになるのなら、私はなんでも」
それは刹那だった。言い終わる前に有栖は押し倒された。彼の目は血走る寸前で、口が開いて彼の吐息がかかる。次第に有栖の頬へ冷たい感覚がたらりと零れてきた。それは獲物への食欲を抑えきれない捕食者の仕草。白銀の彼はそれでも理性で抑え込むようになんとか紡ぎだす。なんとか持ち直そうと、藻掻いている。
「すまない。おまえのその言葉を聞くと体が抑えられなくなった。こんなことは初めてで私にもどうしたらいいか、わからないのだ」
不安と恐怖、なにより嫌われたくないという感情が、有栖へと流れ込んでくる。きっと誰かにこの姿を受け入れてほしかったのだろう。だからこんなにも悩んでる。普段の白銀の王であったら、そんな風には考えないだろう。精神が肉体に引っ張られているのかもしれない。そして、これだけはどうしても受け入れられないとも思っている。
有栖は獲物を前に我慢している捕食者がいるという事実に目もくれず、ただ怪物の王を見つめる。先刻と同様に彼女の体が無意識に動く。彼の頬に彼女の伸ばした小さな手が触れる。頬に手がつくと血走っていた獣のような鋭い目は、鋭利でありながら優しい瞳に変わっていた。
「私はあなたに悩まないでなんて言えない。大丈夫すらも、私には言えない。でも、こうやって触れ合うことはできるから、私がついているから」
「有栖・・・」
「私がずっと、ずっと」
伸ばした腕の手首が握られる。その手は己よりはるかに大きい。有栖には一切恐怖はない。いつもの彼のように優しく握ってきていたから。白銀の毛並みを持ち、王としての尊厳に溢れた彼は年若い青年にも有栖には見えた。それどころか、今は幼ささえ残っているとすら思える。
白銀の彼ははゆっくりと起き上がる。そうして有栖に背を向け、己の状態について絞り出すように話し始める。
生まれた時からこうだったらしい。魔力が濃くなる紅月はもちろん、魔力が常時濃い霊脈といわれる場所へ行ってもこうなるそうだ。なんとかしようと、足掻きはした。だが無意味なものでしかなかった。だからできるだけ隠し、他の者に悟れぬように紅月の夜だけは部屋で閉じ籠る。自然とそうとなっていったという。
そんな自分と向き合っていると、奥底に何か得体の知れない、どす黒い衝動が眠っているのを知ったという。わからないはずだった。先ほどまでは。目の前にいた、怪物となってで初めて対面した有栖を押し倒したのでようやくわかった。
「私は人が食べたいのでないか」
あまりにも単純で。それでいて高度な知性を持った生物ほど、最も禁忌とする行いの一つ。思ってもみなかった。そんな感情があるのかという、思いすらある。恐怖よりも不安より、何故。所詮はただの人間でしかない有栖には、白銀の彼のこの状況についてわからない部分も多い。
(それは違う)
彼の根幹は、そんな単純なものではないずだ。単純ならば、なぜ今までわからなかったのか。
「それはきっと違うと思うよ」
「なぜそう言える?私はお前を押し倒した。それはなぜだ?眼前に、極上の料理があるような感覚になった。これは人間はもとより、同族ですら食べたくて仕方がなかったのではないのか?」
沈痛な面持ちで白銀の彼は言う。確かにそうかもしれない。有栖には否定できるほどの確信はない。だが肯定する材料にも乏しい。なにより、どうして思いとどまれたのか。
「私はね、あなたが辛そうな顔に見えた。話と合わせたらわかった。人を進んで食べたいなんて、これぽっちも思ってないって」
不確かである。さりとて、これ以上目の前の青年にただ苦しんでほくはない。
「食べたいっていう衝動はあっても、そんなことはしたくないはず。あなたはそんな単純じゃない」
白銀の彼は暫く無言になる。ただ考えていたのだ。心の葛藤について、それは彼にさえわからない物だろう。押し倒したとき、確信したようだ。己は正真正銘の化け物、怪物だと。けれど有栖は言った。違うと。本当にそうだったのかはわからない。だがそう思うと少しだけ、体の力が抜けていくのが二人にはわかった。
あの衝動がどうかはわからない。しかし有栖の言う事を信じてみることにした。大切な彼女がそう言ってくれたのだから。
「有栖、夜が明けるまでつきあってくれるか」
「もちろん。私がそばにいるからね」
二人は互いを見つめて、いつものように添い寝をする。違うのはすぐに眠らずお互いの顔を見つめ静かに語り合ったこと。
外は紅く、日常ではない光景。しかし部屋の中はいつもと同じ。変わらずの二人。欠落した二人。怪物と怪人。