二十四 二の矢
イルーシから王都へと帰還してから、心ここにあらずであった。妃としての一般教養を修めている時間、本来は嬉しいはずのロボとの食事、何気なく王城内を歩いているとき。
(私には何ができたのか)
あの時、見てられることしかできなかった。止める資格すらないとは、今でも思っている。だからこそ、止めるべきだったのでは。あの二人に間に入ってでも、そうするべきだった。
それなのに、動かなかった。妹であるジョシュアが特殊な感情を抱いいたのも、まるで神かなにかを見る目でいたのも知っていた。それでも彼女に関心など割かずに、過ぎゆく日々を諦観を持って生きていただけの自分に言葉をかける資格すらない。そう有栖は決めつけていた。
本当は怖かった。その事実に直視するということは過去の罪に、怪人たる己の片鱗に触ってしまうことが。
「・・・・・・有栖様?何か、ありました?」
散り散りになっていた思考を瞬時に切り替え、絞り出すように有栖は返答した。
「だ、大丈夫だよ。ちょっと考えていただけだから」
いつもならば熱心に聞いているはずである有栖の様子は、明らかにおかしく映ったのだろう。
「イルーシでは人間が処刑されたと聞いております。そのことでお気を揉んでいられるのですか?」
「う、うん」
的を得ているようで、核心ではない問い。はぐらかした答えは敏く気づかれた。教鞭を揮う手を止め、そっと見守っている。彼女にしてみれば、王城に帰城してからの有栖の振舞いには、普段一緒にいる者ならば分かる、明確な違和感を伴い続けていた。
ほんの些細な変化だったが、かれこれ半年は間近にいるコルキス。有栖が口にするまでもなく気が付いている。
「悩み事なら、吐き出すのも手ですよ」
そう言い、目くばせをして書庫内にいた侍女二人を退室させる。彼女たちなりの配慮であった。
「私はこのままでいいのかな?」
「どうして、そう思ったのですか」
信頼でき、これまでも一切叛意を見せなかった彼女になら言ってもよい。そう有栖は判断し、イルーシで起きた事の顛末を話す。
止められず、傍観することしかできなかった。なによりも二人が傷ついていく中で、無力だった己に有栖は憤り続けている。弱いままでは、何も守れない。守られるばかりでは駄目だ。
コルキスも判断に困り、黙りこくってしまう。自分がおいそれと言及していいのかと、窮してしまうのだ。役割を自覚して、分を弁えることを自発的にできているからこそ。
そうして沈黙が書庫内を支配しだした頃に、来訪者が来た。
「わざわざ見に来たのにずいぶんと辛気臭そうな顔ですね、姉上」
王の妹で、有栖からすればもう一人の妹。コルキスがすぐさま席を譲ると、どこか不満そうな顔にシェリルはなり、仕方なくといった風に腰を下ろす。
「ど、どうして」
「帰ってきたというのに、こちらに一切来ないからですよ」
イヌ科のような鼻を小さく鳴らして、とても不服だったと表す。彼女にしてみれば、悩みがあるのなら自分を頼ってほしかったらしい。
「姉上は何故、人に頼るということができないのですか。誰かを助けるくせして、誰の手も借りようとしない。それは何故です?」
シェリルがおよそ半年ほど有栖を観察してきて得た知見。彼女にしてみれば疑問点が多く、あまりにも歪に映っていたのだ。
かねてより人に助けを求められなかった。声を聴き、それに基づいて適切とされる行動をする。書物や人の会話から適切かどうか演算し、決める。それは人ではなく機械やAIの類ともできるだろう。普段は声が聴こえなくなっている現在でもそのように考えることがある。
「私はいらない子だったから。親さえもゆっくりと遠ざけた、まともじゃない子。私にはわからないの、それの良し悪しも」
鮮明な記録。人間ではなくなっていった決定打。無数の記録の中で最も重々しい、忘れ去れない瞬間。
「これ以上を望んでいいのかすら、私にはわからない。それが悪いのかすらも、何も」
俯瞰した物言いはどうにも浮世離れした雰囲気を漂わせていた。決して世間を知らないというわけではなく、知りすぎた結果。有栖にとっては当たり前でしかない。
普段の姿からはまるで想像させないが、シェリルとの初対面でちらりと見せた一面。油断はしていなかったはずなのだが、青天の霹靂のように王妹を一瞬硬直させていた。だがいつまでも呆けずに、すぐさま有栖に言葉をかける。
「姉上に無理に変われなどと、私はもとより兄上は言ってないはずです。はじめて会ってからも小さいですが、あなたは確かに変わって成長しています」
怯える必要も、急ぐ意味などない。言葉と目、その両方でシェリルは語りかけた。
「私は姉上が傷つきながら、強くなってほしいなどとは欠片も思っていません。ゆっくりでもいいので、傷つかない方法で強くなればいんです」
「コルキスとの話、聞こえてたんだ」
不躾ですけどと謝りながら、シェリルは首を縦に振った。
「兄上も言いはしませんが、きっと同じです」
その意見には有栖は共感できる。不器用で何を考えているかわからない白銀の王だが、一貫して気遣われてきていた。言葉にする時もあれば、行動だけの時も。
今の有栖には自分を肯定できない。甘え、目を背けてきた行く末の一端があれだとするならば。無意味で、己のなにもかもを肯定できない。それらから目を背けるのは、あってはならないのだ。
眼前の有栖の様子の変化に、シェリルは目を細めながら注視する。異変とまでいかない些末な変化だったが、人をよく見ている彼女には簡単だ。
「姉上はもっと近くを見てください。何もか見えるから大変でしょうけど、もっと近くを見ていけば」
きっと兄にも同じ事を抱いて生きてきた。全てを見通すとまではいかないものの、およそ普通ではありえないとできる見地からの言動ばかり。
利己を一切排除しきって、人としては不気味すぎる指針。気づいている者こそ少ないが、とても似ていてる。英雄になれる器こそあれど、踏み外せばどう転ぶかはわからない危うさを内包している。それが王と血の繋がる妹として、シェリルの本心。
夕方になって部屋に戻ると、しばらくしてから白銀の王も戻ってきた。窓から外を眺める後ろ姿はあからさまに不機嫌で、無言だったものの何かあったとわかる。おそらくは有栖自身に関わりのある内容。
それとなく窺いつつ、訊いてみる。言いたくないこととわかっていながら。きっと彼には受け入れがたくとも、見ないふりはできなかった。
「もしかして私についてなにかあったの?」
「わかるのか」
「ごめんね、隠したいことだったよね」
ふっ、と一息をつくと有栖へと向き直った。
「お前に隠し事は無駄だったな。私はそれを知っていたというのに」
「ロボ・・・・・・」
真実を知ってなお、有栖は大切にされている。権謀術数渦巻く世界で常に生きる彼には、なんてことないらしい。彼女にとっては人生ではじめて会った、気心の知れた人物。
だから好きであり、彼のためなら命すら差し出していいと有栖はできた。茨の道を歩むことなど、それに比べれば容易い。
「イルーシでの一件は王城内を分断しつつある。もちろんお前に大事ないようにしたいが、ベフデティとウィンディゴを筆頭とした多くの者がある意見を上奏してきた」
「どんな意見なの?」
わずかに逡巡し、すぐには答えてくれない。了承し難い、到底不可能とされるもののようだ。
「妃になるための条件としてお前に魔獣か神獣を召喚させ、契約を結ばせる。それによって王妃の器であると示させるというものだ」
かつてズメイから契約をしないのかと問われた。長い歴史の中でもそれを成し遂げた王妃は少なく、反対している高官や兵士に至るまで納得する理由にすらなってしまう。
だが、うまい話には必ず裏がある。美しい薔薇の棘と同じ、痛い出血を強いられるのは必然。きっと何か大きな代償を払うことになりかねない。
「お前は自分でもわからないと思うが、莫大な魔力を生成している。あまりに莫大すぎて現在の観測方法では総量が計りきれないほど」
「でも召喚するならそっちのほうがいんじゃ」
「確かに召喚だけならばそれは利点だ。利点ではあるが、欠点でもある。魔力とは長い鍛錬を通して蓄、その量を増やす。生成するなどというのは、例外すぎる」
有栖の無限ともできる魔力がどう作用するか。予想は困難で、あまりにも危険な賭け。
「その魔力が呼び水となると、お前と契約するには過分すぎるものが呼び出されかねない」
彼の危惧は王家代々の記録による推測でこそあったが、根拠としては十分すぎる。契約をできなければ、待っているのは召喚者への大きな代償。命を削るだけなら生易しい。それは万に一つの可能性であり、大抵の結末は死。相応しくない召喚をした者は、命をもって贖うことになる。
言いたいことは、有栖には曲がりなりにもわかっていた。大切にするから、真に愛しているから、躊躇う。
「それでも、私は・・・・・・」
「今回に限ってはお前の願いは聞けぬ。不確定な要素ばかりの、半ば人柱にすることなどできないのだ」
予測はできない不測の事態が起きるのが半ば決まっていながら、それ以外は碌な仮説も立てられないとあれば、安牌を切って召喚はさせるべきではない。ロボらしくない、その時の最良を志した決定ではなかったが、そうせざるを得ない状況でもあった。
(ありがとう。その気持ちだけで十分だよ)
彼からたくさん貰った。ありふれた幸せな時間や、人らしい感情。命さえも助けられた。それは有栖にとっては大きすぎる恩であり、返すべきもの。
年頃の少女らしく運命などという曖昧な事象を、有栖は信じている訳ではない。しかし、運命という曖昧な概念はあながち嘘ではないだろう。今、この身に降りかかっている一連の巡りあわせは運命、と定義できるのかもしれないから。内心で彼女は決心して、そう思えた。