十八 教会
妹であるジョシュアの案内で、彼女が世話になっているという教会を有栖は訪れた。礼拝堂らしき空間の奥には、竜を象った大きな像がある。竜神と崇められている、ズメイの石像。はじめて目にするが細部まで技巧が凝らされている、見事な彫刻だった。それでも経年劣化はしており、それで些かの古さを感じさせる。街と同様に昔の最盛期の名残と、寂れてしまった現在を両方象徴しているようだ。
「おやおや、こんな寂れた教会に見知らぬ人が来るとは」
落ち着き切った声音の初老の男性。ジャッカルの特徴を持ち、背丈は有栖よりは大きくジョシュアよりは小さかった。神父のような様相で、簡素ながらも黒主体の整った衣服。枯れ木とまではいかないものの、健康的と言うには最低限であろう、骨張った手足。
「この人は信用できるから、大丈夫よ」
「うん」
妹の言葉で有栖は変装の一部を外した。人間であるとわかっても驚く素振りすらせず、ふむふむと顎をしゃくっている。人間に馴れない者は怯えたり、恐怖したりする。それがこの老司祭は冷静なまま。
「司祭様、私の姉です」
司祭と呼ばれる老人は寄ってきつつ吟味をしてくる。
「ゲールと申します、あなたが有栖様ですね。お噂はかねがね聞いております。ようこそおいでくださいました」
「ど、どうも。妹がお世話になっています」
どうやら彼がジョシュアを匿った張本人らしい。魔族でも稀有すぎる人物。だからこそ信用されているのだ。魔族としての常識を度外視してまで助け、衣食住まで提供していたから。
「ですが、あなたは今は王都にいるはずではなかったのですか?」
「それは・・・・・・」
有栖は少し言い淀んだ。
「言いにくいことなら構いません。故郷へ帰る手段が見つかるまで、この教会に居候してもよいですよ」
「そうにもいかなくて・・・・・・」
なんとも歯切れの悪い有栖に他の二人が不審そうにする。
(この子が信用してるから、問題名と思うけど)
ジョシュアはあまり人を信用しない。妹になったはじめも、人間不信で家族や周囲と馴染めずにいた。そんな彼女がここまで気を許しているのだから、疑いをかけるのは無意味だ。
「実はこの国の王様の妃というか、妃候補っていうか・・・・・・・」
「は?」
「ほう、それは真ですか?」
間の抜けた声を上げたジョシュアとは対照的に、初老の司祭は興味深そうに発言の是非を見定めている。
「あの難解なお方が心を開く方がいるとは。はは、世の中何が起きるかわかりませな」
白銀の王を、難解と口では言っていたものの、その表情は慈悲深く、それでいて喜々としていた。まるで孫を見守る祖父で、背後の竜神と崇められているズメイを連想させる振舞い。魔族の頂点たる彼とこの司祭は、どういった関係なのか。
ジョシュアが信用するというだけでも稀有であるのに、あの彼に近い人間だったのでますます珍しい。
「昔、私は王都の本拠地にいました。そこでそれなりの権力を手にして、年に二回ほどの王城へ謁見として登城もしていました。その時にですよ」
昔をいたく懐かしんだ、現状の寂れた教会の司祭には似合わぬ過去。
「王様と仲が良かったんですか?」
「まあ、そうなりますな。教会の者では私ただ一人が、陛下に邪険にされずに話せていましたから。それだけで教会ではそれなりに重用されましたし、陛下からの相談もたまに受けておりました。もっとも陛下が私のことをどうお思いかは、わかりませんが」
「小さい頃からの知り合いだったから?」
その一言で、微笑みをより一層強くした。
「はは、その通りです。あの御方がまだ王子だったころでした、初めてお会いしたのは。あの頃から立派な方でしたよ。将来王になるからこそ、自分が治めるであろう民の暮らしを間近で見なければいけない。そんなことをよく言っていました」
そんな王にも気に入られていた男が、なぜこの寂れた教会にいるのか。厄介払いで、かつての本拠であるこの地に飛ばされでもしたのか。それとも自ら隠遁するためにここへ来たのか。
「なんでこの街にいるの?なにかあったの?」
「こちらへ行くことが決まり、最後に陛下へ謁見したときにも同じことを聞かれました。私は疲れていたんです」
「疲れていた?」
疲れた、という意味についてあまり合点がいかない有栖はきょとんとした顔になる。そんな彼女に優しい口調のまま、話し続けた。
「教会といっても私欲を捨てている者ばかりではないです。出世や、権力者に取り入ろうとする者も多い。それが悪とは断じませんが、私の性には合わなかった。それに王都での日々は決して楽しいものではなかった。だから生まれた地で後の余生を過ごそうと、思ったまでです」
最後に「あなたはあのころに陛下によく似ていますね」と老司祭は呟く。損得を見ず、己の繁栄を考えず、私欲すら薄い他者の幸せを捉えるだけの瞳がよく似ていたらしい。
「こんなもう老い先長くない者の話はよいのですよ、もうなにもかも昔のことですから。それよりもなあたの今後を、妹さんとお話はなされ」
半ば置き去りのジョシュアへ気を利かし、教会の奥へと消えていく。姉に起きたことを、うまく飲み込め切れていないながらも、なんとか振り絞って訊いてきた。
教会の礼拝堂と思しき部屋の中ほど。天井は高く、壁や屋根には日光を効率的に取り込むためにガラスが多く使われている。時間はちょうど昼を回ったところ。
「ほ、本当なの?妃って話」
再会したときとは、違う震え方をしている。言葉の途中がぶつ切りになっており、平静さをまるっきり失ってしまっていた。いつもは凛としているのに、今はまったく別だ。有栖にとってはどちらも変わらぬ大切な妹であるが。
「そうだよ。王城の中で倒れた私を介抱してくれて、私を妃にしたいって言ってくれたの」
「どうしてそんなことに。姉さんは嫌じゃない、の?」
「――それはないよ。私があの人の傍にいたいの。だから置いてくれて、私のこれまでを尊重してくれてる」
否定しきった姉の姿でさらに狼狽する。それは彼女の目にはどう映ったのかは有栖にはわかりはしない。彼女の双眸には羨望と尊敬がいつもこもっていた。
(ジョシュアには、前の私はどう見えていた?)
きっとそれは彼女の根幹に根差す、深い問題。
「一緒に日本に帰る手段を探して、帰りましょう。きっと何か見つかるから」
そこで有栖は手首を強く掴まれた。手を離されると跡が少しの間残ってしまいそうな、強さ。
「外に出て、どうするの?逃げても、逃げてどうにかなるって思ってないでしょ?」
「そんなことどうでもいい!姉さんが騙されているのに、私は我慢できない!!」
血気迫るジョシュアに対し、どこか冷ややかな思いで、有栖は妹を見た。それでも今の彼女に何を言っても無駄であるとわかって、とりあずはしたいようにさせようとした。
教会から、街の外を目指して歩く。イルーシの郊外は建物こそあれど、人が住んでいる家屋は少ない。最盛期の頃に建てられ使われていのが、活気を失うにつれ人が離れて、次第に使われなくなったため。そのさらに外へ行けば、農地も見えてくる。
昼を回っていた時間はいつの間にか日が傾ききり、夕焼けが空に広がりだしていた。
「このまま目的地も決めずに逃げ続けるの?」
しばらく歩き、ジョシュアの頭も多少は冷えたと思っての発言。そこでやっと握り続けていた手は離された。
「姉さんはわかってない。あの男は、姉さんのことなんて面白い愛玩動物ぐらいにしか思ってない。姉さんは魔族が国入り込んだ人間になにするか知ってるの?」
「ジョシュは彼も同じだって言いたいの?」
そこで有栖にしては珍しい剣呑さを帯びていく。そんな姉など目にしたことがなかったらしく、また狼狽しだす。
「姉さんを騙してるだけなのよ!!どこまでいっても本能に従って生きるしかできない連中の頂点に立ち続けているんだから、染まりきっているに違いないわ!!」
彼女はあの司祭から何を聞いたのか。いや司祭は誇張もせずにただありのままに語って、それをジョシュア自身が曲解したのだ。王都での気苦労の絶えなかった、王族や諸侯との関わりを全て聞いてしまった結果。
あの老司祭も目にしていた。人間がどう扱われるかを、同じ知的生物であるはずの人間に行われる惨い仕打ちを。だからこそ疲れた、だからこそ自分を見失しなうのが耐えられなくなり、王都を離れた。
ありふれた街路。廃墟が点在する郊外のさらに外。そこで人間二人が立ち止まっている。それはきっと飛んで火にいる夏の虫だったのだろう。二人を囲むように柄の悪いならず者を通り越した、野盗が現れた。
「あんたら、人間だろ?どうしてこんなところにいるんだい?」
首領らしきコヨーテに近似した特徴の男をはじめとした野盗の群れが、包囲を縮めながらゆっくりと迫ってくる。全員がイヌ科動物の特徴を持っている、野犬の群れだ。
「あんたたちがこの人に一秒でも触れたら、絶対許さない」
人数を把握するため、闘志に燃え滾るジョシュアは碧眼をせわしなく動かしていく。その彼女の言葉で野盗の一団は笑いをこらえきれなくなる。嘲笑って馬鹿にした笑い。
「人間に何ができるんだ?はは、道化の技でも見せてくれのか?」
一様に笑い、ひとしきり笑ってやっと動き出そうとしていく。
「あんまり暴れんなよ。暴れて傷でもつくれば、それだけで商品価値が下がっちまう」
「はん、私たちは商品ってわけね。下らない、ほんと馬鹿みたい。自分より弱いと思っている相手にしか、強くでられないなんて。そんな風に生きられないなら、姉さんはもとより私以下、人間以下よ」
魔力と生き、魔力をよりよく利用できるのだから人間よりも格上の生き物だと、無意識のうちに刷り込まれてきた。彼らの心の一線を知っていながら、ジョシュアは踏みつけた。ここから退いてく可能性を事前に潰した。
日本人ではまずいない金髪碧眼。そして年を重ねるごとに、同年代の中で顕著になった体格。有栖と直接的に血は繋がっていない。本来は外国に住む、顔も知らない従兄妹同士だった。それがひと悶着を起きた後、紆余曲折を辿った末に有栖と義理の姉妹となった。
「いいぜ。お前をここでずたずたにするのは生易しい。手足を捥いでやる。その大好きなお姉ちゃんが売られるのを、見ていくことしかできなくしてやる!!」
その首領の一声で、牙と爪を剥き出しにして一斉に飛び掛かってくる。
(ジョシュアも逃げる気ないみたい)
喧嘩強さと負けん気は、学校きってだと有名だった。誰しもが不気味だとした姉の評判を一人で守ろうとした結果。健気さとはかけ離れた、打たれた鋼のような意思。
人ではなかった己には出来すぎだ。改めて有栖はそう思う。彼女がここまで健やかに生活できていたのも、一部ではそんな良い妹がいたから。だからその想いを知ってなお、無関心でいた者には過ぎたる妹。