四 どうすれば
シェリルは茶会から有栖のことをいたく気に入り、三日に一度は茶会に呼んでは世間話などをしている。そうして二週間が過ぎた時、シェリルがあることを尋ねた。
「ところで兄上の様子になにか変わったところはなかったかしら?」
その質問で考えてみた。彼にどこか変わったところはあったか。しかし何も出てこない。
「とくに変わったところはないはずだけど・・・・・・」
そこまで言って一瞬黙る。そこから少しと前置きをしてから言う。
「どこかそわそわしているような気がする」
その言葉でシェリルは持っていたティーカップを皿に置き、はぁと溜息をつく。ここにいない彼に対してなにか言いたげだったが、しばし無言でティースタンド上の茶菓子をどんどん食べ、満足したのか手を止めてやっと口を開いた。
「それはね、兄上がなにか隠し事とか、やましいことがある時の典型的な行動よ。覚えておくと得をするわ」
「そ、そうなの?」
「ええ、昔からの大切な家族や信用している人にしか見せない悪癖よ」
首を傾げながら茶を飲んでいく。覚えているとなにが得なのだろうか。そうしているとあっという間に時間が経ち、いつものように白銀の王が来た。すこしばかり眉間に皺が寄っている気がする。しかしそんな彼を睨みつける者もいた。
「兄さん、少しいかしら」
シェリルはそう言うと、不愛想な兄を別の部屋へ半ば強制的に連れていき暫しの時が流れた。兄上とは呼ばず、兄さんと呼んだのはよほどのことだったのだろう。侍女たちは小声で「きっと姫様は怒っているのね。」と会話している。部屋から出てきた二人はそこからまったく会話しなかった。
抱えあげられた有栖とともに、彼は自室へ戻る。気づけばとうに地平線の彼方に日が落ちて、濃紺に空が染まっていた。
部屋に入ってからの白銀の彼は目を瞑り、無言になっている。そんな彼を有栖が不思議そうに見ていると、やっと動き出す。決心の溜息をつきながら鷲のような鋭い双眸を向けてきた。なにもない自分を見るには過分である。なのにどこかで見た気もした。己ではない、もう一人が見たような。思い出そうとして靄のかかる、その先。最初に会ったときと大してわからない、ないはずの記憶。
「お前はこの国で生きていきたいか」
生きていきたいか。
彼女にはその意味がわからなかった。目の前の白銀の王は生きる意味を与えようとしている。だが彼女には自分が、生きたいのか生きたくないかすらわからない。そもそ、もそう望む意志すらあるかも不明瞭だ。なにもわからない。
(わたしはどうすれば。私はどうあれば。有栖はどう決めるんだろう)
心を鎖のように縛りあげてゆく。目の前がモノクロになっていき有栖の心から少しづつ、着実に色が剥がれゆく。
■
「お前はこの国で生きたいか」
質問で彼女の雰囲気は明らかに変わった。どこかからカチリと音が鳴ったように。
こちらを見ていた彼女の瞳は澄み切り、姿が映っていた。虚飾に塗れた、偽物の王が。水晶ですら見劣りする、見たものすべてを吸い込もうとするようで、見た側のなにもかも映しだす瞳。
偶然とはいえ久しぶりに、長年待った末にやっと会えた。あの時の約束を果たせる。彼の心は躍った。それなのに再会した今の有栖は、なにか違う。成長からくるものではない。木はどれだけ大きくなろうと、枝や草が生え変わろうとも、同じものだ。木は木。木自体が変わることはない。
なのに違う。あの星屑のようにきらりとした瞳は濁りのなく、見たものを映す。さながら夜の湖水。瞳はその者の鏡だ。人生そのもの。
(あの娘になにがあった。人とはここまで変われるのか?)
どれだけあっても人は、所詮は人。根っこが変わる事はない。ただその人生という環境で適応するだけのもの。とつい先刻まで白銀の彼は思っていた。しかし目の前の光景はそうでなかった。
「お前は何だ?」
何もかもが違う。ただの人間の少女であった、有栖とは。別人にすら感じられる。再開したとき、わからないと呟いていた。ここ数日、在りし日へ思いを馳せていた。かつての彼女の特徴と照らし合わせるために。匂いは同じく、雰囲気も多少違うとこはあるが根本は同じと感じた。
だというのに今は似た別人とすら思えてしまっている。その形容のしずらい気持ちが、彼の中で恐怖へと変換され出す。
(いや同じだ。こあの時出会った、有栖と同じなのだ)
やはり彼女は有栖で、あの数十年前に見た初めて会った幼き頃の思い出にある彼女なのだ。あの時に果たせなくともよいとすら考えた、約束を結んだ少女。そう確信させた。
「お前に何があったかは知らん。お前がなにかも私にはわからない」
彼女の瞳が一瞬曇り、湖水が映した星屑のごとく煌めいた。白銀の彼は有栖の体を抱き寄せて左手を優しく握る。その人ならざる瞳をまっすぐ見つめた。先ほどよりも意志のこもった目で。
「私はお前に生きてほしい。またあの頃のように笑い合いたい。わたしの隣にいてほしい。お前に何かできるなら力になりたいのだ。お前はどうしたい、どうしていたいのだ」
なにもかも受け入れる。ここまでをねぎらってあげたい。励ましたい。ただ、生きていていてありがとうと伝えたい。寂しそうに、多様な想いがこもった微笑みを白銀の彼はかける。
「この国にいたくないならよい。人間の国へも帰そう」
何があったのかはあずかり知らない。今すぐに知ろうとも思わない。それが彼女のためになるのなら。
「私はここに居ていいの?あなたの傍にいていいの?」
「そうだ。老いてもずっと、そばにいてくれ」
なぜだろうか。そこで有栖の瞳から自然と涙が溢れてきていた。ただその言葉をかけてほしくて。一緒にいていいんだよ、と声をかけてほしかった。そう、こぼれ続ける涙が雄弁に語っている。
握られていた左手を握り返され、涙でかすんだ瞳でまっすぐ見つめられる。
「でもすぐには私のこと言えない。わ、私自身が整理が出来るようになったらで、いい?」
おどおどしていて、どこか不安そうで、しかし確実に一歩進んだ。銀色の不器用な青年は静かに安堵していた。白銀の王の隣にいたいという願いを有栖が抱いた二日後に、王国を揺るがす大事件は起こった。王城を凍り付かせ、次第に火種となっていく事が。そんなこと逡巡しなくても、王である彼にはわかる。
(私はお前のためなら、何でもしよう。ずっといられるのなら、何でも)
議論や謁見などが行われる玉座の間。そこに城内の主だった高官たちが集まっていた。彼らは王から重大な発表があるとして、集められていた。どのような発表があるのかと皆が思い思いに話している。
そしてついにその時は来た。
「陛下がご入来です。どうかみなさまご静粛に」
宰相の一声で華美で絢爛な大扉は開かれる。玉座の間の高官たちには何も伝えていない。白銀の王は突飛な提案や発言をしがちだが、今回の決定は度を越していると自覚しているのだ。有栖のためにもことは早ければ早いほど良い。
(この発表で城内が、王都が、国全体が戸惑うだろう。認めたくない者も現れるだろう。私は有栖と共に歩みたい。まだ見ぬ道の果てまでも)
玉座の間は静まり返り、主君である王の言葉を待っている。その視線は王ではなく、その傍らに抱えれた人間の少女である有栖に集まっているが。ある者は見覚えがあると顔を顰め、ある者は心安らかに王の次を待ち、大多数の者たちがなにがあるのかと不安を覚えていた。
「この場を持って知らす。この人間の娘を私の妃とする」
前代未聞の宣言で騒然となる。まさか人間を妃にするなどというのは、想像すらしていなかった。宰相ですら狼狽えている。そんな様子を半ば起こる事とわかっており、二人は諦めて眺めるだけ。
「だから、いいって言ったのに。わたしはそばにいれればいいのに」
「こうするしかないだろう」
場慣れしているのか有栖はやけに堂々としている。そんな彼女を白銀の王は少しだけ持ち上げ、頬へ顔を擦り付けた。その仕草で騒然となっていたその場は静まり、いったんは落ち着く。彼はそれを横目で確認して静かに小声で
「おかえり、有栖。これからよろしく」
と呟いていた。