九 貂熊
白銀の王が有栖と仲違いしてから二日ほど経った。有栖は相変わらず王妹の元に居続けている。わだかまりは未だ二人の間で大きなしこりとなって存在していた。白銀の王は一人だけの自室で、有栖が読むために積み上げた本の山から一つとり、読むわけでもなく眺めるだけをするばかり。
(私は有栖がいないのを、不満に思っているのか?)
どれだけ着飾った美女よりも、大切に想っている人間の少女。彼女がいない部屋はかつてないほどに寂しく、空虚さだけが募っていくだけ。
玉座の間では宰相と軍事大臣をはじめ、主だった高官たちが列席していた。朝議はすでに終わり、時間は昼へと移っている。
「陛下、近衛隊副隊長グーロウス以下近衛中隊二百名、バレッタから無事帰還いたしました」
玉座の間で畏まっているのは、近衛中隊を率いていた近衛隊副隊長。公爵が急病のために代理と共に警備強化のため派兵していた。近衛隊隊長たるウィンディゴはいかにも武人といった厳つい大男であったのに対し、白銀の王の眼前の副隊長は傍目には屈強だとは映らない。ともすれば線が細くあまり強靭な印象でこそないが、その実内に秘める膂力は魔族の中でも指折りであった。
「何か不測の事態はあったか?」
定期報告は欠かさす行われていたが、直接口にせねばわからぬことある。近頃の王国内の情勢は平穏とは言い切れない。かつての内乱で取り潰した名家の生き残りや、王国の外交方針に不満を持つ者たちが地下に潜って密かに活動しているのだ。予断を許さない状況でこそないが、いつ動きだしてくるかは予測がつかない。警備中に肌身で感じ取った微かでも異変があったかは、これからの動きを判断する上で重要である。
玉座にどかりと座り込んでいる主君の意向は、側近たちに無論伝わっていた。宰相と近衛隊の責任者たる軍事大臣、そして副隊長も。
「特にこれといった混乱、それらを扇動する者はおりませんでした」
主の言外の意図を理解し、数秒の沈黙の後の発言。高官の中にはそこで安堵する者や、まだ尻尾を見せぬことへ複雑な表情をする者など様々である。
「そうか、ご苦労であった。今宵は晩餐会も用意している。束の間ではるが、休息をとってくれ」
束の間。その言葉で部屋全体に緊張が走っていく。すでに王城内で知らぬ者はいない、人間が王都と水運で繋がっている街で目撃されたという報告。動けるようになればすぐにでも王自ら近衛隊を伴い、赴くのはすでに決定事項である。今回の侵入の目的、裏に潜むかもしれない者たちを炙り出すため。処遇などは未定であるが、生易しい決定はされないだろう。
白銀の王は玉座の間で形式として出迎え報告を受けた後、執務室へ戻った。
「やはり簡単には尻尾を出しませぬな」
「簡単にいくなど最初から思っていません。先々代のお若い時代からこれまでずっと動かず、息を潜めていたのですから」
「どうしても秘密しなければいけなくて、動かないのか。それともはなから好機はここでないと、決め打ちしているのか」
「そう判断できる材料はありません」
白銀の王に招かれた文武のそれぞれの頂点が渋い顔をする。不穏分子の組織に繋がりそうな情報の手がかりは目下の課題だ。情勢が不安定になる時機であったため、少なからず動きはあると踏んでいた。しかし読みは外れ、公爵代理の到着前後でも微動だにせず、手がかり一つすら得られないまま中隊が帰還した。
「平和であることに越したことはない。我慢勝負ならば、体力は天と地ほど差があるのだ」
人間の件にしても、動きが鈍いかわりに持久戦の利があるのはこちら。待ち続ければ、いずれ根を上げて動くほかなくなるのは、いつの時代も隠れ潜む側。
(有栖には知られてほしくないが)
彼女と同じ人間に、惨い仕打ちをするしかなくなるかもしれない。もしかすれば、彼女は幻滅してしまうかもしれない。その時に、あの人間の少女は離れていくのだろうか。白銀の王はそう考えだすと、悶々としていく。
きっと彼女は自分との扱いの差に憤る。また危険を顧みずに、捨て身で助けようとするはず。そうなれば、ともに処刑もやむなしといった流れになってしまう。それだけは白銀の王としても避けたい。花嫁争いを片付けても、肩身をさらに狭くして生活していくことになる。
「くれぐれもこのことは王城の外に出ないようにしろ。イルーシにも改めて厳命するのだ。噂になって出回ることがあれば、噂を流した者を突き止めろ。一時的に牢に入れることになっても構わん」
とにかく情報の流失は最小限にしなければ、いらぬ混乱が起きる。過去に人間が侵入してきたことは何度かあった。白銀の王の知るところでも二十人近く。そのたびにもみ消しを試みたが、成功したのは半分にも満たなかった。多くがその前に拷問にかけられ、その拷問を生き残った者のいずれもが衰弱して命を散らしていった。
(私に有栖を妃にする資格はあるのだろうか)
そうだ。種族が違からと言って、なんとしでも助けたわけでもなく、助けられないと知れば見て見ぬふりをした。有栖はきっとどんな時でも、自分を顧みずに助けようとする。それは己にはできなかったことだと、白銀の王は思う。そうして捨ててきた自分と、どんな命でも平等に扱う彼女。
「陛下、私は仕事が残ってますので」
「うむ。各地からの定期連絡でおかしなことがあれば、すぐに上げるのだ」
「はい、心得ております」
宰相も動かぬことは予測できたと口では言いながら、腹立たしそうだ。軍事大臣たるウィンディゴも直後に退室した。
■
王城の廊下。有栖がシェバと共に書庫へ向かっていると、見知らぬ武官と出くわした。有栖が噂の人間の姫だと確認した瞬間、片膝をついて跪く。慌てて声をかけようとする彼女を制しながら。
「あなたが人間の姫ですね。はじめまして、私は近衛隊副隊長グーロウス。以後お見知りおきを」
「は、はじめしまて。湖上有栖です」
アナグマのようで、イタチのような見た目の精悍な武官。細身でありながら、瞳に宿しているのは確かなる闘志。そこだけがやたらに攻撃的でいて、底知れぬ印象にしていた。
「私も異論がない訳ではありません。ですが、陛下の意思は我らの総意。剣となり、盾となるのが我らが使命。あなたが陛下と共に我々を導ける器であること、願っています」
時には妃も兵士たちを前線で鼓舞しなければいけない場面もあるだろう。たとえ人間が妃でも平静を装い、忠誠を捧げる。ならば、その忠誠に見合う人物であってくれ。命を賭ける価値を示せ。そう言っているのだ。
「ところで有栖様はなぜ、翆鳥族の姫と一緒におられるのですか」
「そう、ですけど。彼女と私がいることに、何か思うところがあるんですか?」
眼前の武官の発言を許すことができなく、有栖は庇うように返答した。もし、この人物が自身を否定しても構わない。それが自分以外に向けられるのは、彼女は我慢できなかった。
グーロウスは咳払いをし、人間の少女の抱いたであろう誤解を訂正をした。彼としても不本意だと表明して。
「私は純粋な疑問で、聞いただけです。陛下は万民を愛しているのですから、我々兵士も倣うだけでしかありません」
そこには嘘偽りない。この男もまた、滅私奉公で忠勤に励んでいる。瞳に宿す闘争心は、主君の敵対者全てに向けられるだろう。だが、主である白銀の王が愛する対象が何者であろうと守り、兵士の任を全うするのだ。有栖が兵士として知っている人物の多くが、このような精神ばかり。国の中枢に近づいた者であるのならば、当然かもしれない。
近衛隊副隊長は突いていた膝をほろいながら立ち上がり、一礼してその場を去っていく。細身で大柄ではないのに、確かで強固な意志を感じた。いつか、彼らの主の代わりとして振舞う日がくるのか。
「静かな人だったね」
「はい。ですけど、私たち翆鳥族を尊重してくださる人が有栖様以外でもいるなんて」
シェバにとっては驚きしかないらしい。彼女の半生について軽くであるが、聞いた。幼少期から良いとは言えない扱いをされ、ただ耐えるしかなかった日々。貴族の末子であったのも、拍車をかけていた。それでも多くの魚獣族が敬う存在であり、彼女がそれを支えにしてきたこと。敬われるのなら相応しくあろう。そうして今日まで来た。
「たくさんいるよ。私やグーロウスさんはもちろん、王様だって」
「陛下も、ですか」
「そうだよ。言ってたでしょ?みんなを愛しているって」
何事も、そのまま受け取るべきではない。相手の腹の内の底まで探りぬき、決して表面上で信用するな。そう教育されてきたのだろう。だからこそ、言葉通りには受け取りずらいのだ。
(そうだよね?ロボ)
白銀の王がここにいたら、同じことを言うはず。確信とまではいかずとも、有栖はそんな気がしていた。この倒られることのない、美しい花を。
「陛下は恐ろしいと方と言われていましたが、実際は違いますね。恐ろしくも、物事の道理というのを見て、気分のままに振舞わない。まだお若いというのに、自分を俯瞰して見れているのでしょう。それでも、有栖様が近くにいると年相応に感じさせますが」
「そうなの?」
初めて聞く、白銀の王の傍目から見た様子。多くが口を揃えて言うのは、恐怖と畏怖。だが、シェバは違う捉え方をした。白銀の王は人間の年齢に換算すると、二十代。それでもまだまだ若いという範疇である。
「きっと楽しいんです。こんなことを私ごときが言うのは烏滸がましいかもしれせんが、陛下は有栖様といるのが」
シェバは場の空気を読むことや、小さい動作から相手の心理を読み解くのを貴族であるからか、身につけている。王城に来てわずか数日しかないというのに、しかも彼女は基本的に白銀の王の前ではあまり冷静ではない。それは有栖が不得意であり、これからもあまり出来そうにないことである。権謀術数渦巻く王城や王都、王侯貴族との関わり合いでは必須だ。
「すごいね。そんなにわかるものなんだ」
「所詮は生き抜くためにそうするしかなく、癖になってしまっただけです」
人付き合いは円滑に進みはするが、悪意などにも敏くなる。きっと初めて食事を共にした二日前はそれでも委縮していたのだろう。最も恐れていた対象の白銀の王は初めから有栖以外眼中になく、他の姫たちはそれに気づけずにいるだけ。喉も通らなくなっていたのは、重なり合ったそれぞれの思惑に卒倒しかけていたからだ。
「誰かにとっての特別はそうそう見つかりませんが、見つかった時には、胸の奥から伝えてくれます」
あまり自分には無縁としながらも、焦がれてやまない感覚であるらしい。どこか夢見がちなそれは、有栖には理解できない、できていない、誰しもがもつであろう感情。いつか彼女にもわかる日がくるのか。
(私は一緒にいる時、どう思っているんだろう)
特別か。それとも依存であるのか。真相は有栖本人にも不明瞭である。