六 不和入来
閉められた扉の奥から、はっきりと聞こえる、声。合わせて二つ。一つはよく知る白銀の彼の厳かな、親しみ切ったもの。時折、歯が擦れる音がぎりぎりと部屋の中で響いている。そこにどういった感情があるのか、有栖には推し量れない。
そして、もう一つ。魅惑的な妖しい艶のある、最近知った声。なぜ彼女が、白銀の彼の部屋にいるのかなど、明白だ。夜に、異性の寝室への用など決まっている。
『何を躊躇っているのですか?陛下も男子なれば、遠慮しなくてよいのですよ』
できれば聞きたくないが、黙っているだけしかできない。扉を背に耳を澄まして。そこそこ厚いはずの扉だというのに、空気の流れから、二人の一挙手一投足までもよく聞こえてしまう。
(こんな時だから、なの?)
有栖は視界の冴えと読心こそ収まっているが、聴覚が鋭敏なまま。寝るまで収まりそうにないとは、彼女自身理解できる。まるで真の想いに応えるように。
『ふふ、人間に姫とは出来ぬでしょう?ですから、今宵は時間を忘れて愛し合いしょう』
今すぐこの場から離れ、人目につかないどこかに、ひっそりと隠れたい。二人の間に発生する事柄に、有栖が為す術など、ありはしないのだ。ありはしないから、ただ静観するしかない。
(なのに、こんなにも胸が苦しい)
心臓が、胸の底で跳ね回って、何かを必死に訴えている。止めることなど、叶わないだろうに。何を伝えようとして、どうしてここまでなっているのか。呼吸も心拍も落ち着きくことなく、確実に上昇していた。青天井にただひたすら。
音がした。か細い衣擦れの音。その音が何かはわかる。わかってしまった。もはや我慢するしか、選択などないはずであるのに。ずきり、と胸に生じた鋭く新鮮で鮮烈な感触で有栖の体は動いていた。
「だめっ!」
息は上がり、呼吸は浅い。正しい訳がない。しかし、ここで動かずにはいられなかった。
(この胸の痛みが、何からくるものかわからないけど)
シェリルとのやり取りでもあった、有栖の体の奥底から這い上がってきた衝動。認めては、傍観しては、ダメであると言っていた。そこにある感情が未だ未知で、それ依存からくるものだとしても。
「えっと、あの・・・・・・」
室内を照らす月明りは誰がどこにいるかを、ありありと示していた。今まさに、はじまろうとしていた、情事を。有栖は扉を開けたかと思えば、数歩の後ずさりして瞬く間にその場を後にした。廊下の暗闇に身を翻して。
実際のところ、白銀の王は手を出してなどいなかった。まるで誰かを、待ってでもいたのか、言い寄ってくる美女に目もくれず、厳しい態度を崩さずに。冷静になれば、有栖にも把握可能であったかもしれないが、それどころではなかった。自分の本心から目を逸らすように有栖は廊下を泣きながら駆けていく。
結局は話すこともないまま、シェリルのもとへ逃げていた。泣き腫れた有栖の顔に、シェリルは深い詮索をしないでくれて。
「寝物語の代わりに、一つ話でもしましょう」
「・・・・・・」
同じベッドに横になり、抱え込む形で、シェリルは横になっている。背後にいる義理の妹は、有栖は直視しない。今はただこうして、横になっていたいのだ。
(どうしてこんなに苦しいのかな)
身を寄せ合う有栖の沈みようを、肌で文字通り感じたのか、優しく彼女を包みこんでいく。
「あるお城に、将来を嘱望される王子がいました。彼は次代の王となるため、様々な教育を受け、周りの期待通りに、年を追うごとにみるみる王の器へと王子は成長していくのです」
きっと誰かの話。微睡みと、湧き出し続ける苦しさで、それ以上の感想を有栖は出せない。
「そんな王子は、幼い時にある出会いをしました。彼しか出会わず、守り役はおろか、彼の妹も弟も両親も知らない、運命の出会いを」
そこからほどなくしないうちに眠った。王妹に密着して寝ていたはずであるのに、有栖は寒々しそうに身を丸めて。今までで一番と断言していいほどの、息苦しさ。この一日で三度も未知の、それもそれぞれ異なるもの。彼女許容量をゆうに超え、限界を迎えている。
日の出からまもなくして有栖は起きた。シェリルは起床済みで寝室に姿はない。
(まだもやもやする)
寝起きのぼやけた頭でも、前夜の記憶ははっきりとしている。昨夜のあの感情。ズキりとした胸の痛みが。彼が己以外の女性と話していると思ったときの、口にすることができない何か。有栖をじわじわと蝕んでいく。
「おはようございます、姉上」
「お、おはよう」
いきなりのシェリルに驚きつつも、なんとか返事する。普段の彼女なら、からかいまじりに笑っていただろうが、今朝は少し事情が違った。
「兄上が花嫁候補達と、食堂で朝食を共にするそうです」
なので早く身支度を整え、城の食堂へ急げとのことだった。どうやらわざわざ使いをよこしてまで、伝えてきたらしい。どういった意図があるのかは、有栖に知る由はないが、昨日の願いを聞き入れてくれたのか。
何とも言えない表情のシェリルは、慣れた手つきで素早く有栖の身支度をしていく。髪を櫛で梳かし、いつもの髪形を結うどころか、服の用意まで。
「じ、自分でできるのに」
抵抗を試みる有栖に対し、終始無言で思うところがありといった風を崩さず。
「我が姉上は人使いが荒くて困るよ」
「あはは、なんかごめんね」
「なに、このくらいお安い御用さ」
案内兼護衛として食堂までの付き添いを手配していた。少し前まで王子、今は実質軍事大臣の付き人と化してしまったガルムだ。三兄弟の中で最も愛されて育った彼は、顔の整った優男といった容貌である。損な役回りを受けても、にこにこと歩いているのが、半ば浮世離れしてしまっているガルムという人物を象徴している。
「まあ、僕にいちゃもんを付ける人なんていないから、うってつけと思っているんだろうけど」
相変わらず白銀の彼に似つかない軽い調子で、有栖を案内していた。
「それにしたって大食堂に兄上以外も入るなんて、いつぶりだろう」
「そうなの?」
「そうだとうも。兄上が王に即位して以来、なぜだかわからないが食事は基本一人でとるようにしていたんだ」
元王子はやはり愛され育ったのだ。他者との関わりを、極力避ける兄を心底不思議がっている。なんとなくではあるが、有栖にはわかる気がする。外れてしまっていることが怖くて、その真実を知られた時が、恐ろしくて。同じであるから、他人事ではない。
「君はきっと兄上の気持ちがわかるんだろうね。僕や姉上をはじめ、この国の誰よりも」
「どうして、そう思ったの?」
白銀の王や王妹とは似ていないとしていたが、案外三兄弟で同じ部分はあった。人に愛された故の鈍いところこそあるが、思考の基礎はきっと一緒である。
「兄上も君も自分を大事にせず、誰かを優先しようとする。だからわかる。似ているから、お互いを理解し合えている」
なんというか、物語の王子がそのまま生まれてしまった人。それが有栖が改めて抱いた、感想である。王子らしく、王にはなれない者。浪漫を愛し、風流を解する、血みどろの政争とは無縁の。
「なんだか王族って感じしないね」
「あはは!そうとも、僕は王族に相応しくないんだ!本来だったら兄上に楯突いた時に処刑されていたぐらいには」
ひとしきり明るく笑い切って、話を再開する。
「だから、もっと誇っていいんだ。僕を助けた行動を、兄上の気持ちを汲んであげたことを」
僕が原因だから大きい声で言えないけど、と付け加えて。ガルムも王妹と同意見のようだ。有栖を王妃になるだけの器だとしている。兄弟仲が王族にしては良い三人は、内情こそ相違があるが、それぞれが有栖に篤い信頼を置いているのだ。一人は親愛を。もう一人は尊敬を。最後の一人は、自覚のなく過去の己を重ねて。
大食堂につく手前、お針子が合流した。有栖を見つけるや否や、飛びついて、心配したと繰り返す。顔の細部から手足の隅々まで、お針子は有栖に傷の一つたりともないかを、しつこいくらい確認して。ガルムへのあいさつも忘れ、ただ安否確認に傾注していた。
「陛下から聞いた時は、何があったのかと気が気でありませんでした」
ここまで心配されるとは、有栖自身思っていなかった。以前倒れた時も、お針子は気を揉んでいたが、今回はとりわけ気苦労をかけてしまったようだ。
せわしなく無事であるかを確かめ終え、やっとガルムへと気づき慌てる。
「有栖様を守る理由が、あなた様にあるのですか?」
お針子は警戒心を多分に持った視線で、元王子に尋ねた。
「僕個人にあると言えば嘘になるし、かといってどうでもいいわけでもない」
「疑わしいですね」
「兄上からお目付け役を任じられた君からすれば、僕が疑わしいのには納得するよ。しかし、未来の義姉となる人に害を及ぼすはずないさ。そんなことすれば姉上からの説教はもとより、兄上は今度こそ僕の首を刎ねるだろうし」
未来の義姉。そこでお針子はとりあず警戒を解いた。ガルムも安堵したのか、一息をつき、再び前へと歩みだしていく。
「他の姫を待たせてもいけないから、早く行こう」
やはり童話に出てくる白馬の王子すら想起させる佇まい。白銀の王が神々しく、一見すれば浮世離れしていながら、その実為政者としての苛烈な面を内包しているのとは、対照的である。似ていないながらも真反対の位置にいる兄弟。
(ロボは私のこと、どう思っているのかな)
有栖には見透かせない、白銀の彼の想い。
「また兄上のこと考えてるね?」
「え?」
ガルムへ目をやっても、彼は歩くのをやめずにいる。
「わかりやすいのさ」
「あ、あの」
「あまり自分の気持ちに盲目になりすぎるのはよくない。自分に自信が持てないから、そうなってしまうの仕方がないのかもしれない。でも兄上は、そんなの望んでいないし、姉上やウィンディゴもきっとそうだ」
きっと彼はこんなこと言える資格などないと、分かっている。元はといえば彼の行動が、巡り巡って有栖の進退を判断せねばならなくなったのだから。お針子が元王子とはいえ最初疑いをかけたのも、それが原因だ。だからこそ、あまり口を開くべきではない。それでも彼なりに、兄たる白銀の王の助けになりたいのだろう。
ガルムとは大食堂の手前で別れた。あくまでも姉からのお使いであると弁えて。