五 夜
無我夢中で、有栖は飛び出してしまった。彼の弁明を待たず、衝動に駆られたまま。我が事ながら、こんな行動をしてしまったのには彼女自身も驚いた。
(私はどうしちゃったんだろう)
廊下ですれ違う人々に目もくれず、灯された明かりを頼りに壁沿いを走る。数分だったかもしれないし、一時間近くそうしてしたのかもしれない。瞳から涙が溢れるのにも気にとめず。誰かとぶつかってしまった。とは言ったものぶつかった両者とも転ぶことなく、有栖が相手の懐に飛びつく形となって。
「何をしてるんですか」
聞き慣れた声で、有栖が顔を上げれば昼にお茶したばかりの義妹がいた。お付きの侍女が何事かと慌てて、怪我がないかを聞いていた。しばらくして有栖は誰に言われることなく、離れて事情を話していく。
深く長い溜息をつき、シェリルは状況を把握する。怒る気にもなれない、と体全体で表して。
「それで廊下を走っていた、と。兄上が吠えるのは珍しいので何事かと思えば、まさかそんなことが」
どうやら、つい先ほどの咆哮で異変を察知し、信頼できる侍女を伴って歩いていたらしい。
「確かに私はどうしたいかを兄上に、伝えるべきと言いました。ですが、それは本当の気持ちをです。体裁とか、相応しくないかなどを、考えろなどとは言わなかったはずです」
ただ甘んじて、受け入れるしかない。王妹の口調が有無を言わさないものであり、有栖本人にもこのいつ以来かすらおぼろげな、未知の感情に狼狽えている。
「今夜は私の部屋で寝ればいいです」
「いいの?」
「兄上は意固地なので」
無邪気さはなりを潜め、どこから見ても暗い。シェリルはそんな有栖を横目に、付き従っていた侍女達へ自室に義姉を招く準備するよう、命令していた。
「そんなに気にするなら今夜の内に話せばいいのでは?」
有栖としては、またとない提案ではある。しかし、何故だか躊躇いを捨てきれずに、足踏みしてしまう。
「二人の間のことを私は知りませんので、とやかくは言いません。ですが、あなたにとって兄上は、何なのですか?」
「私にとって、あの人は・・・・・・」
すぐに答えを出せない。王妹は歩いていた足を止めた。
「難しい問いかけでもないはずです。それとも、兄上へ向けている感情は、私の想像しているのとは違うものなのかしら?」
見つめくる王妹は、白銀の王とは毛色から瞳の色までまるで違うのに、あの視られた者が動けなくなる眼差しをしていた。普段の温和な姫とはかけ離れ、圧をかけ、厳しく追及していこうとしている。シェリルの言わんとしているのは、有栖自身知りえないこと。
「いくつもの選択肢の中から、兄上の隣にいるのを選んだのではなく、一つに限定して引け目で留まっただけなのですか?」
「それは、違う・・・・・・」
「何が違うんです?選択してここまで来たのなら、すぐに言えるでしょうに、実際のところは言い淀むだけ。それはその場の引け目で、選択すらせずにいただけでなくて?」
(こんなにも悔しいはずなのに、反論どころか否定すら無理なんて)
「それは依存ではなくて?命を助けてくれ、そばに置き続けてくれる人への」
依存。それだけは、認めたくない気がして、認めては己の中の芯が崩れてしまう。そう有栖は思うと、また衝動が体を突き抜けていく。鈍い音が、脳に到達し、我に返る。あったのは親しい妹の驚愕の顔。有栖から一気に血の気が引き、過呼吸気味になりシェリルに縋りついた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私、あなたを傷つけるつもりじゃなかったのに」
慌てて、恐慌状態になった有栖は落ち着きがない。本当のところはやり場を失った衝動を拳に乗せ、壁に打ち付けていた。彼女は人を殴ったことがない。だからこそ、拳に残る痛みが壁を殴りつけたものだと、理解できなかった。
「ま、まず落ち着いてください」
「で、でも」
「いいから深呼吸して」
深呼吸を繰り返し、なんとか調子を整える。落ち着いたのを確認して、話を再開していく。
「大丈夫、姉上は誰も殴っていませんよ。それに私も言いすぎました」
「どうして、こんなこと・・・・・・」
「いいのです、感情があってこその人なのですから」
「私が、誰かを傷つけていいわけがないのに」
有栖の根底を形成している、想い。それが呪いになり、踏みだすのに怖気づいてしまっている。誰かの特別になどなれるわけがない、と。それはいつでも、どこでも影を見せ、彼女の思考の端でちらつく。
「姉上は自分で思っているほど無価値ではないです」
赤々と充血した有栖の手の甲を、シェリルはそっと撫でる。労わるために、義姉のことを否定しないために。
「話し出せば本音は自ずと出るものです。眠るのは私の部屋でも問題ないですから」
「そう、かな?」
目を伏せ、シェリルの言葉に半信半疑といった具合。それは対面している王妹にもわかった。そっと触れていた手を、静かに上げていく。
「確かに兄上の毛色はとても珍しいです。王家の歴史でも唯一無二。しかし、生まれ持った体の特徴なんて、おいそれとは変えらません。この深淵にも似た黒色は、姉上だけのモノなのですから」
後ろで結われた有栖の髪の束を、羨望ともされた眼差しで見つめていた。
「黒にもなれず、さりとて白にすらなりきれない私にとっては、姉上も十分美しいですよ。まったく違うのに、こんなにも近い。私はいくら手を伸ばしても、どれだけ求めようと無理だったのに」
陶酔しきり、幻想に浸っている。王妹もまた自分を、白銀の王と比較をしながら生きてきたのだ。聡い彼女は無駄だと、悟りながら、彼と同等になりたかったのだろう。
(シェリルに私はどう映ってるの?)
はらりと落ちる有栖の黒髪を眺めていると、王妹は不意に戻った。
「すみません、呆けてしまって」
「いいの、あなたのおかげで気づけたから」
そうだ、もう一度話そう。決心し、顔色をよくした有栖を、王妹は快く送った。自身は部屋へと踵を返して。迎い入れる準備しなければ、と呟いて。
今、心は二分されている。シェリルへの感謝の気持ちは言うまでもなく、後できちんとしたお礼をしなければと思っていた。それと彼女が指摘した依存について。図星であったのかもしれない。いつ捨てられてもおかしくない相手に、寄りかかっているのは否定できない事実である。
(私は依存して、いつ捨てられてもいいって思っていた)
目を背けていたが、事実だ。それすらも王妹は見透かしていた。彼女が知っていたのだ、白銀の彼も、気づいていただろう。それはどう映っていたのか。声は聴こえなくとも、人の悪意には、鋭敏になっているはずだが、何も感じなかった。
ふと、ちくりと痛みが走るように、声が聴こえた。女性の妖艶なもの。すぐに聴こえなくなったが、どこからしたのか。一旦立ち止まり、きょろきょろと周囲を見渡しすが、手がかりはない。
(あっ)
瞬間的に視界全体が冴え、廊下の奥、白銀の王の部屋の手前に人影が見えた。誰かまで判別をつけるには一瞬すぎ、距離自体もそれなりにはあったため、良くて背格好までである。それでも有栖の記憶の棚から適当な人物が、導き出された。
■
(ただ一人として安心させられないとは、情けない)
明かりを灯さず、時が止まってしまった、空の部屋。白銀の王は虚無に身を任せていた。扉もいつもなら用心して閉めるものを、有栖が勢い余って両方とも開けたまま。彼女が来てからは結界も張っていた。微細な魔力でも反応し、部外者が触れれば、弾き飛ばす。弾かれない者は、術者たる白銀の王と人間の少女のみ。
「今宵の空は綺麗に澄み切り、月がよく見えますね」
そんな王の居室に、侵入者が一人。珍しい香木の香りを、さらりとした光沢のあるドレスと共に身に纏った、不躾な人物。部屋に入るなり扉をばたりと閉め、廊下からの目を塞いだ。
「王たるこの私の部屋に無断で入ることが、それがどんな意味を持っているか、わかっているのか?」
「ええ、わかっておりますとも。普段は高度な結界を張って、他者の入室すら拒んでいるのに、今夜は開け放たれている意味も含めて、しっかりと」
できれば有栖が戻ってくるまで、待っていたかった。だからこそ予定外の来訪者に、苛立ちを隠さずに睨んでいる。窓から入ってくる月明りだけが、部屋を照らしているだけであるからこそ、爛々とした深紅色の瞳が際立って輝く。
「わたくしは何も、有栖様を蹴落とすなどという、身の程弁えぬ野望を抱いてなどいません」
(下らないことを画策しおって)
実に下らなく、野心と打算に塗れた行動。白銀の王はこういった権力闘争には、まるで興味がない。諍いを起こしそうな親族の、お調子者の弟と愉快犯的な妹とは仲は良好で、従兄妹や叔父などもいない。それになり得る系譜は、彼の祖父の代で断絶していた。その時は内乱に発展しかける前に、即座に処断され、それきり表舞台に現れてくることはなかった。それもあってか王族にありがちな親族間での暗殺に毒殺、血で血を洗う闘争にはほぼ無縁である。辛うじてガルムが二度ほどそそのかされてしまったが、それぐらいだ。
一概に切って捨てることはできなくとも、白銀の彼の興味は一点にしかない。冷ややかなあしらう目つきは暗闇では分かりづらいだろう。自身に向けられてるとはつゆ知らず、むき出しの床で足音を最小限にして、白銀の王へ侵入者はにじり寄ってくる。
「あのような貧相な人間の姫では、無理でしょう?これからのことは」
ぎしり。とうとう寝具の上にまで、上がってきた。振り払うの簡単。だが、今夜なんとかしても、明日、明後日と連日夜這いに来る。どんな手段を使っても取り入ろうとしているのだ。
(そんな下らない手練手管で、気に入られると思ったのか)
考えただけで、歯軋りが鳴り止まなくなる。そんな安く、単純な者だと断じられた気がしてならない。
「私も貴族の生まれ。陛下のお気持ちは察することができますので、私めは側室でも問題ありません」
「私が、それを望んでいるとでも?」
もとより穏便に帰すなど、目の前の奸婦がつけあがるだけ。強烈な、なにをしていても思い出す恐怖を、叩きつけるほかない。静かに相手の出方を窺いながらも、主導権を握らせないよう注意を払う。白銀の王は、一刻も早くこの唾棄すべき状況を終わらせ、本来の待ち人に備えたいのだ。
「何を躊躇っているのですか?陛下も男子なれば、遠慮しなくてよいのですよ」
自分の使える武器を、最大限使っているつもりなのだろうが、まったく食指が動かない。いや最初から動く食指は目の前の者には向けられてなどいなかった。
(そんなものは通用するわけなかろう)
疾くと失せてほしい、と逸る心を落ち着かせ、我慢の時だと内心で納得させて好機まで耐え忍ぶのみ。白銀の王は結界越しの人の気配を、見落としたまま、茶番に付き合っていく。