一 騒乱序曲
異世界に来てしまった。いったいどんな経路で、どのような経緯で来たのかは、皆目見当がつかない。死の淵に立った時、はじめてそれらしい手がかりこそあったが、それっきり。この世界にいる理由など、半年も生活しているのに依然として曖昧ではあるが、一つだけ有栖に確かなことはある。魔族の王であり、ロボと自身が名付けた彼と、共に生きていくことだけが彼女の目的となっていた。
謁見の間。王への拝謁や、王制にとって重大な決定を行う空間。有栖はそこに呼ばれた。呼び出した代表は宰相ベフデティとなっている。有栖の認識があっていれば、宰相は国の行政の頂点だ。二度ほど会話したが、信頼のおける人物ではあった。隼にも似ていながら、細く神経質そうな目で、有栖は睨みつけられるばかりであるが。
前日に、呼ばれる旨を伝えられていたので、有栖は白銀の王の部屋で待機していた。呼びに来たのは軍事を司る、いや軍事方面の責務一を手に引き受けている、軍事大臣ウィンディゴ。偉丈夫であるこの男が、小間使いとすら言えた役回りをやる。これが意味するのは彼が宰相に賛同しているということ。最低でも黙認。宰相も遠回りなやり方をするものだ。
(この城に味方なんていないって、言いたいのかな)
あからさまである。圧倒的に不利。彼女に与する人物は僅少。片手の半分ほどしかいないだろう。
静々と歩く有栖に、偉丈夫は振り向かずに話しかける。決して涼しい顔などしておらずにいるのは、顔を見ずとも察せられた。
「単刀直入に言います。有栖様、あなたに陛下の正真正銘の正妃となっていただきたい」
「え?」
何を言っているのかわからなかった。妃となるのは白銀の王の意思次第。有栖自身の意向など、介在するものでない。であるのに何故この場で、そんな話をしてきたのか。
「初めて会った時から、陛下の妃となるべきは、あなた様しかいないと思っていました」
なにをそこまで買っているのか、甚だ疑問だ。この偉丈夫との接点もあのお節介を焼いてくれた時以外ではほぼない。
(私にそこまでの価値はないはずだけど)
有栖は自身をそこまで評価できない。所詮は凡人で、人ならざる異能持ってしまって、それに振り回される半生しか送れていなかった。だからこそ今は、有栖にとって至福の時間と言っても過言ではないし、その時間を少しでも、長くする努力はしようとはする。
「此度の呼び出しは、あなたに酷な体験をさせるやもしれませぬ。ですが私は、傍観することしかできません」
彼としても賛同しかねることではあったらしい。しかし気に入らないからだけで、反対するほどこの偉丈夫は単純ではなく、多角的に考慮し結果として承諾したのだろう。
「これからもあなたへの見方は厳しい、もっと言えば下等な種族とされるでしょう。それでも我が王の伴侶となれますか?」
口を開こうとして、何も言葉にできない。以前の彼女ならば躊躇すらなかった。そんな有栖の変化に、振り向かずとも偉丈夫が気づいたのか、立ち止まる。
「あなたはきっとこれからも成長していく。ですがそれは誰のためですか?」
成長。はじめて知った。自身が成長していることを。
(私が成長?)
実感のないもの。果たしてそんな人らしいことをできているのだろうか。有栖はそんな疑惑を、己でかけてしまう。あの日以来、停滞しかできずにいたはずであるのに。虚を突かれた将来の主人に、偉丈夫は語っていく。
「あなたは陛下によく似ている。どこかへ埋もれようとも輝く存在であるという点が、とても」
「私はただ・・・・・・」
しみじみと、過去を懐かしんでいるのか、一言を噛み締めながら話していた。
「私もまた、王の剣でしかありません。これ以上の肩入れが、意味することは、あなたにとっても良くない災いとなってしまいます。ですので、ここからはあなた次第です」
そこでまた進みだす。有栖は戸惑わないでついていき、謁見の間に着いた。偉丈夫が問うたことに返答できないで。
無理やり乗り込んだ時とは違い、門兵が畏まって開けていく。大扉が開いた先に王城の名だたる高官であろう者たちが座り列席していた。多くが陰りを持ち、これから起きる事にうっすらと恐れている。
長机の上座、王の前を陣取る位置の宰相が自分の対面となる大扉から最も近い空席へと招き、着席を促す。机には書面と小さなナイフが少女に向かって置かれていた。
隼に似た男、宰相べフテディ。彼は通常の会議でも議長格として仕切るのだろう。
眼前の恐怖してもいい状況に、有栖は眉一つすら微動だにせず、用意された椅子に座った。宰相の背後の白銀の王は、背もたれへと不機嫌そうにもたれかかっている。
「さて、今回お呼びだてしたのは、有栖様に妃となってもらおうと、思ったからです」
一体どういう風の吹き回しか。あれほど人間である有栖を、毛嫌いしていた神経質な男が翻意するとは。
「ですが、今すぐにとはいきません。なにしろ有栖様は、出所不明の身の上に加え人間。それらを加味すれば、いくつかの条件が必須になるでしょう」
対面の文官は顔色一つ変えずに、言ってのける。他の高官たちが固唾を飲み、この話の行く末に身構えているというのに。
宰相もまた非凡ならざる人物なのだ。何事も損得勘定で判断し、淡々と処理していく。国の執政官としては、適任も適任。こういった部分で、有栖は信用に足るとしている。先祖からの恨みとか、個人的で矮小な野心では、ぴくりとも動かない。改めて実感させる。宰相という男は、優秀な人物だ、と。
「まずは伝統の花嫁争いを催します。有栖様にも参加してもらい、勝ち残ることができたなら、妃候補として扱わせてもらいます」
妃候補。明らかに何か、裏の意図がある。それに花嫁競争をくぐりぬけても、その後に、二の矢三の矢が用意周到に、手配されているはずだ。有栖にもわかったのだ、白銀の彼もたちどころにわかり、とてつもない怒気を漂わせ、宰相を睨んでいる。
「どうされますか?あくまで有栖様に決定権はあります。飲めないのというのなら、それでも構いません」
隼に似た神経質な男は目を細めて得意げに言う。
「あくまで、あなた様の自由意志なので構いませんが、その時は、私をはじめこの場に列席してくださった方たちはもとより、この国の誰もが妃とは認められません」
回りくどくも、効果的な手段である。ガルムが謹慎していたひと月とすこしで、主要な高官を言いくるめ、この場を設けた。流石にここまでの人数で上奏されると、白銀の彼でも取り合わないわけにもいかない。強権的に振る舞いながら、あくまで文治を是とするが故の、弱点。
白銀の王はいまにも宰相の首根っこを掴みかからん危うさを持っている。宰相はしてやったりとしているのか、怯まずに有栖へ返答を催促していく。
「どうしますか?いいのですよ、怖気づいたのなら、それで。そのかわり妃としては、認めないというだけですので」
どちらへ転んでも、勝ち。ここへ彼女が来た時から、趨勢は決していた。誰しもがそう思っていた。白銀の王でさえも。
「認められん、認めらんぞ。私の妃は私が決める。私が選び、私の一存でだ。貴様、なにか勘違いをしているぞ」
「はて、勘違いとは如何様にでしょうか?」
挑戦的で、悪足掻きしようと無駄である、と言いたげだ。そう勝ち誇った神経質な文官は、主君を余裕を持っていなしてく。
そこで白銀の彼は我慢ならなくなり、勢いよく立ち上がった。もう止めらない。憤怒と化した王に、室内のほとんどの者が震え上がっていた。王はさらに張り上げ、さながら咆哮と形容できた声を上げる。
「話にならん。くだらんことに付き合うのここまでだ」
取り付く島もなく、己の妃を連れて出ようと、ずしずしと歩いた時。凛とした面持ちで、有栖は言ってのけた。
「わかりました。提案を受け入れます」
沸騰しかけた部屋が、その一言で凍り付いていた。連れ出そうとした王はもちろん、もはや破談であるとしていた者も。話が承諾されたのだ、青天の霹靂にも等しい。ただ一人、対面に座す男だけは平然としていたが。
「ではこの書面に、判をお願いします」
そう言ってベフデティは、事前に準備していた小さな儀式用のナイフに目をやっている。それで指先を切って、血を落とせということらしい。有栖も魔族の歴史について学んでいたので、その刃物が何をするためのものかなど、判別はついていた。
血を一滴、落として書類への署名とする。現在ではあまり使われないが、専用の印章などなければ、伝統的にそうする習わしであるらしい。本人の血を使えば、偽造などできずにいるから、なにかと都合がいいそうだ。
躊躇いなしに、有栖は華美なナイフへと手を伸ばす。左にあったそれを握ろうとしたが、白銀色の大きなに手に、手首をつかまれた。宰相がすかさず主君へ非難を浴びせてくる。
「すでに有栖様は了承なされたのです。たとえそれが陛下、あなた様であろうと覆せません。あくまでも有栖様の、ご意思なのですから」
「・・・・・・・・・」
そこで神経質な男は、びくりと体を震わす。ここまで平気であったのに、何が彼を恐怖させたのか。ここまで冷や汗すらかかずにいたのに。向けられた者を圧死させかねない威圧を、一点へ突き立てていた。有栖の肌にもピリピリとした、居心地の悪い肌触りが伝わってくる。
(でも私にはこ、れしかないから。そんなに心配しなくても、大丈夫だよ)
空いている右手で、そっと白銀の彼の手に触れる。彼女自身、無謀であるのはわかっていた。だが、そうだとしても、これは避けられないとしている。もう知らないふりなど、できない。ここで白銀の彼に、甘えてしまうことなどできない。きっとここで甘えていしまえば、大事な何かが崩れる。
そこで白銀色の手はゆっくりと放れた。
かくして有栖は書面に血を落とす。それは揺るぎない証拠として堅持されるもの。もう引き返すことも、逃げてしまうのもできない。
自室に戻ってもしばらく二人は無言でいた。向き合わず、背中合わせにして。室内を夕焼けが窓から色付けていく。
「私はお前には、ただ隣にいてほしいだけなのだ」
「知ってるよ」
いままでも有栖が穏やかに王城で暮らせたのは、白銀の彼が王として目を光らせていたから。誰も口にはださなくとも、彼女にそれとなく伝わっている。
(私は何もしなくていいの?)
この世界の歴史についておおよそ学んだ。その中で、妃の実家に起因した争い、王位の跡目争いが、やけに目についてしまった。長い間の治世で内乱にこそ発展しなかったものの、決して少なくない。政情は複雑で、怪奇な、おどろおどろしいものへと、昇華されていったのだ。先代の妃、白銀の王の母でさえ快く思わない者たちの、嫌がらせや暗殺未遂は数えきれない。
たとえば明日、人間の娘が正当なる妃と公に口外すれば、果たして認められるか。以前の夜会はあくまでも事前のお披露目、という体で行われた、諸侯と上流貴族だけの宴である。
あっという間に流れるはずの時間が、いまの有栖にはやけに長く感じる。
「お前は私が守る。守らせてくれ。それだけが私の願いなのだ」
何も言わぬ有栖の置かれた手へ、やんわりと重ね、彼女へ語りかけるように。その日はそれで終わった。二人は会話らしい会話もせずに、ベッドに体を預けた。
翌日から花嫁争いのための用意で、城内は整然としながらも、慌ただしくなった。来賓用の部屋の準備や、日程の微調整。事前に記されていた計画書と照らし合わせながらの作業ではあるが、大々的な催しであるので、自然と忙しくなっていく。
白銀の王も増えた政務に、多少忙殺されていったので、有栖としっかりと会話できずに一日、また一日と遠のく。気が付けば季節は秋が早々に終わり、目の眩む、真っ白な雪が彩る冬へと移っていた。