十六 災禍のはじまり
有栖は宰相と三度目の対面をしていた。それは宰相が直接呼び出してまで設けた場。そこは彼の執務室の一角。休憩するための、ソファらしき調度品に有栖は座っていた。柔らかで、いつまでも体を預けていたくなってしまう物であった。
白銀の王は言い表せない顔つきで、了承してくれた。部屋の外で待つことを条件として。迂闊さに付け込み、妙な約束をせぬように。もし、それがあればただちに乗り込み、無効とするつもりなのだ。そんな主君にほとほと呆れながら、宰相は承諾した。
「さて人間よ、貴様が王妃などにはなれぬ器だというのは身に沁みたはずだ」
ちくり、ちくりと相手をつつく言い方。兵士の噂話や、シェリルの会話から得た評判通り。有栖にも悪意に近いなにかを、感じ取れてはいたが、そんなのは些細なことでしかない。王の信頼第一の家臣というだけの忠誠が汲み取れた。
「そこで尋よう。いまもなお卑しい人間の身でありながら、我が王の妃となりたいか。あの貴き御方のただ一人の正妃となりたいか」
彼もまた、値踏みするかのごとし口調。そこには悪意も敵意もない。負の想いなど一切なく、忠誠心と、自己犠牲にも似た献身の心。
「私は変われないから」
ただ短く。有栖にはそれしか言えない。変わることは、できない。有栖にも持たざる者という自覚はある。それは先日の出来事において、彼女が肌身で感じ取ったことだ。それにいつか捨てられる。だというのに、望んでしまった。彼女にはもう、後戻りも以前の自分になることも無理だ。
「ふん、そんなことよくも言えるな」
涼しい顔して答えた有栖を、宰相はきつく見据えていた。悟った風に断言することをふくめ、あまり快くはないらしい。そこには、なにがあるのか、有栖は知りたくなった。その刹那の想いが引き金となった。
ただ王を、盛り立てるだけ。宰相のいままでの心情を、それだけで聴いて、盗み見た。彼の本心になにかもが。観えて、聴こえて、中へと流れ込んできた。人生という名の、記録のすべてが。
曇りなく一点を貫く、視線ががくりと床に落ちる。
(見てしまった。忘れていた、あの感覚)
彼女の認識が、歪みそうになる。なにもかも。誰も彼もの声を聴く、あの感覚。今までの知覚がすべて奪われ、別のものへと置き換えられてしまう。
(いやだ、厭だ、嫌だ。私には、有栖には、この子にはなにもなかった。やっと人になれたはずなのに。あともう少し、待って。彼女にあとすこしだけの猶予を)
耳元にこえが、聴こえた。そのこえは「助ける」と訴えている。やめて。なにも言わないで、と少女は声にならない言葉を心へ虚しく響かせる。
突然取り乱した有栖の異変を嗅ぎ付け、宰相が呼んだのもあり勢いよく大きい音をたてて彼が押し入ってきた。その音で先刻までの狂乱といえる姿の人間の少女は、平静を取り戻した。瞳から滂沱の雫を、頬につたわせながら。
「私、わたし・・・?」
なにも見つめることができず、ただ慟哭するがごとく、見上げている。有栖の姿に白銀の彼は哀しげな顔つきになる。宰相とはなにやらまなざしを交錯させいく。数分とせず、ただちに終結をみせた彼ら会話、は鮮やかだとすら思わせる。それは彼との関係を、推し量ることができただろう。冷静に分析できた人物がここにはいなかったが。
「有栖、とりあえず部屋へ戻るぞ」
白銀の王は、未だ涙が乾ききらない有栖を抱え上げ、足早に宰相の執務室を後にした。なにがあったのか、王も宰相も結論を出せず。ただ目の前の異変を、収めることしか動けずに。
(なにが・・・・・・)
有栖は部屋に着くころには、気を失ってしまっていた。目を覚ましたのはベッドの上。ただあるのは胸の中の恐怖。彼女が現状唯一、明確に嫌うという、感情を抱いたこと。起きてすぐ、立ち上がろうするが手に力が入らない。
(・・・・・・っ!?)
ズキリと痛むように、記憶にヒビが走った。光ディスクが傷ついた状態で再生したような。それと一緒に流れこんできた、だれかの記録。
幼くあまり長くないマズルと、あどけない笑顔の狼。一緒に別の人物の笑い声も聞こえる。
(私、気を失っていたんだ)
なんとか動かなければ。そうでないと、自分の状態の確認ができない。有栖が焦り、手を背中の後ろに置いて立とうとしていると、心配そうな声色が飛んでくる。
「無理に起きようとしなくともいい」
あの時と同じ。同じように白銀の彼が窓際へと立ち、待っていた。白銀色の毛並み。狼の如し顔つき。それを窓から差し込んできた月明りが照らしていた。違ったのは慌てて駆け寄ってきたこと。
その言葉と行動でまた寝具へ体を預けた。力が入らないのは、痛いほどわかっていた。まるで久しぶりに体を動かす病みあがりの病人。
「私どれくらい寝てたの?」
「ざっと半日ほどだ」
半日。半日でこうなるはずがない。彼が嘘を言う理由もない。だから本当だろう。だが、有栖はここでわかった。そこでこうとするのをやめた。いつになく無力そうに天井を見上げる。
見上げていた視界に、白銀色が飛び込んできた。覗き込むあどけのない、さっきの記録にもあったもの。そこで彼女はは悟る。あれは彼のモノ。彼の記録だ。
「大丈夫か?」
近くへと腰を下ろし、心配する。有栖はなんとか作り笑いをして、強がった。
「私をお前は受け入れてくれた。だから私も受け入れたい」
手をとり、そう言った彼はやさしげだ。やさしげで、それが有栖にまた、作り笑いをさせる。その笑顔に張り付いたものは、なんだったのだろうか。虚ろで、なにもなく、あくまで生きてくための、手段にすぎないもの。
白銀の彼にはどう見えていたのだろう。彼はただ、有栖を見つめ続けているだけ。
「大丈夫だよ。私は大丈夫」
そう言い、再三作り笑いを続けた彼女に、せめてもと手を重ねた。白銀の彼はその小さな手の体温を感じて黙りこくる。口をひらき、なにか言いそうになっていたというのに。
(彼を呼ぶ名前が欲しい。私がいつまでも憶えていられる名前が)
力なく見あげた有栖はそんなことをおもいながら、また目を閉じた。
■
そこから有栖は部屋を出ずに、五日ほど過ごした。なんとか止めて部屋への出入りもないよう、魔術をかけて。その術はおいそれとできるものでなく、その道にある程度熟達していなければできなかった。それを見て王城の者たちは改めて自らの王の偉大さを認識し、王自身が人間の娘が闊歩するのを許したのかと噂にしていく。
白銀の王はというと、王城を離れる政務を外し、ひたすら書類仕事に明け暮れていた。王の執務室は執務机に椅子、扉と高窓以外の壁一面を埋めている本棚で構成されている。そんな中で来客が来ていた。
「姉上は大丈夫なのですか?どうなんですか兄上?」
シェリルは有栖の異変をどこで知ったのか、翌日から兄である王の執務室に毎日、押しかけて来ていた。ただ彼は入室させるだけで一言たりとも話していない。ただ手を止めずに机に向かうだけ。この部屋では王以外が座る椅子はない。なので来客は基本立っている。この王妹もそうだ。
「姉上が見れば、呆れますよ」
見れば呆れる。その言葉でピクリとして、手を止めた。書類にむかっていた目が、シェリルへ流れる。見られたなにもかを射殺すかのごとし瞳。たとえ普段間近にいる腹心の二人でも冷や汗をかいてしまうだろう。
だがそこは王女であり、妹。こんなのはよくあることと割り切っている。それでも不服なのか鼻を鳴らし、兄を背にして出ていことする。
「兄上の部屋は結界が張られていて入れませんし、それでは話すらできませんね」
シェリルは部屋から出ようする。ここ数日と、同じ。実際興味ないと書類をさばく手は動いたまま。
「有栖には秘密があるのだ」
本棚で響きやすくなった空間に、声が反響する。王女は聞いて振り向いた。見直した兄の姿はひどく気弱で、変わらないのは目力のみ。今度こそ完全に手が止まっていた。そして、記憶の中の有栖をただ述懐していく。
「再会したとき、わずかにあった。あれは何かに怯えていた」
それがなにかは、白銀の王にもわからない。有栖はただ受け身的に、これまでを受け入れてきた。白銀の王の愛を。王妹の信愛も。親切心に嫉妬、侮蔑。そのなにもかも、受け入れていた。怪物になった姿ですら。
反面彼女はどうだろう。愛はあるだろう。それがどういった愛か、自覚なく。だから城中を歩き回ったのだろう。だがそれ以外は?あくまでも彼女は受け身しかない。結果の見返りを、捧げようとしているだけだ。
兄の気弱な吐露を聞いてしまった。兄のそんな姿など、幼いころのいつからか、見ていない。彼女は王自身に一番歳が近い兄妹だ。だから兄妹の中で、一番兄に近い存在と自負していた。
「兄上・・・?」
戸惑いながら兄の様子を窺う。兄がこんな姿になるとはと。あの人間の娘がここまで兄を思い悩ませる存在だったとは。再会という単語にも彼女は気をとられた。
「私はまだ教えてもらえていない。だが今回のことはそれが原因なのだ」
泣き出してしまいそうな、声色。それには似合わぬきりりとした視線。
「私は忘れかけていた。これまで幸せで満足していた。だが有栖は私にまだなにも、話していない。彼女にとって私という存在はなんだったのだ?」
まるで幼子。人にあまり内面を見せず、寄せ付けないため、余計弱くなっているのだ。愛して己をわかってくれた大切な人物の弱々しい姿を間近で見て、そうなったのだ。
彼は言う。それは宰相と話して起きた。ならばとりあえず誰とも会わせないで横にさせる。体も五日前から力がはいらないという。まるで籠で弱った鳥を飼うようである。
「兄上、まずは姉上と話せばよいのです」
それは無駄だ。そう彼は否定する。あれから何度か、体の不調について訊ねても同じだった。だが、シェリルはそれでもと続けた。
「場所を変えればいいんですよ。一度王城の外の空気を吸いに行けばいいんです、昔みたいに」
そこで彼はやっと不安げで弱った姿から、立ち直る。恐らく妹だからこそ、彼と有栖の恋路をただ応援したいと切に願っている彼女である故に言えたのだろう。王にとって最も信頼できる兄妹なのだ。
まったく、困った兄と姉です。そう言って、シェリルは部屋を後にした。