十四 王妃顔見せ後編
夜会は一時の平穏から一転、これからどうなるか、固唾を呑んでいた。それは魔族全体を束ねる王が、あまりにも突飛すぎた行動を繰り返しているから。
有栖はというと、なにがなんだかわからなくなっている。白銀の王が自分の濡れた顔をなめてきたと思いきや、転んだことを追及してきた人物が黙ってしまった。なぜそんな行動をしたのかわからない。まだ足首に感覚がある。なにがあったのか。
有栖が平然に戻り、いつものようにきょとんとした顔でいると、聞きなじみある声が耳へ飛び込んできた。
「陛下これをお使いください」
ごつごつとした硬質で、凄みのある声質。ヘラジカに似た武人。ウィンディゴであった。今回の夜会の主な招待客は普段は王城にいない者たち。なので平時は王城に出仕している者は除外されている。そう白銀の王が言っていた。だから入室したときの騒ぎになった。
ではなぜこの軍部を司る、偉丈夫はいるのか。それは有栖にはあずかり知らなかったが、いまにおいてはありがたかった。
「すまないな」
彼としても、ありがたいのは事実だったらしく、あまりしない感謝の言葉をすぐに出していた。手ぬぐいをうけとり、白銀の王は真っ先に有栖の手足を拭き始めていた。何故と言おうと、口が開くのを瞬時に見て、顔が覆われる。
自分も拭き終わり、改めて有栖を見直すと彼はあることに表情を顰めさせる。
「赤くなっているではないか」
もう一度頬をなめる。今度は怪我を確認したから。有栖の頬が仄かに紅潮していたのだ。それは転んだときに軽く打ったから。それをすぐに彼は判断した。だから顰めたのだ。蝶よ花よと扱ってきていた白銀の王にとって、厭な事象だった。そして拭いている時、気が付いたことがもう一つ。膝に乗った有栖の足首を注視した。垣間見たそこには、朱に色づいた手の後が残っていた。
ぎりぎりと僅かに歯を軋ませる音が鳴っている。それは部屋へ入った折にも、あった音。この白銀の王は怒っている。だが先刻とは違う、静かなる怒り。
「陛下?どうかされました」
断定する口調で論じていた山羊のような男は、恐る恐る訊く。そんな若干の怯えを持った臣下を、ハウ銀の王は正面から、睨むように見据えていた。
「先ほどの戯言は、聞かなかったことにする。その上で問う、この謀りの首謀者はグルカス王アルゴー、貴様か?貴様が我が妃となる、有栖に怪我をさせたのか?」
言外に貴様だな、と匂わせた発言。断罪ともいえる、その一言で場の空気がまた、一変した。凍り付いたかのように硬直する人々。負の感情を向けられる、稀有な例。白銀の王は上に立つ者として、個人に嫌悪などの感情は抱いたことは、ほぼなかったらしい。この発言は意外でしかないのだ。
それは向けられた本人にも想定外であったらしく、戦々恐々としている。
「へ、陛下?」
窺うように、なんとかとか絞り出す。そんな男を、断罪するかごとく、睨み続けていた。早く、早くと促された姿はどこか不憫に、有栖には見えてきていた。
(ごめんなさい)
白銀の彼の威圧を、物ともしない有栖でも、いささか感じさせた肌がざらつく感覚。目の前の相手は明らかに恐怖している。なにか、助け船を出す方法はないか。有栖は様々な思考を同時に走らせ、なんとか口を開き始める。
「わ、私は平気だよ?怪我っていっても、すこし打っただけだし、許せないのかな?」
曇りない一言を発した有栖に、白銀の彼は少し緩めた視線で見る。その目はいいのか、と問うてきていた。それでも揺らぐことなどない。揺らいでしまえば、彼女にはその地位を戴こうとした己を許せなくなるのだ。それは罪なことだと、誰かに言われることなく自覚した事。たとえ人違いでも、そばに置こうとしてくれている白銀の王へ、有栖ができた贖罪。
白銀の王はそれを見て、むっすとした面持ちでまた眼前を見据えた。
「我が妃が許しを与えてほしいと、願いでてきたので今回だけは、許そう」
「そ、それは」
「しかし、だ。私が許したわけではない。貴様は侮辱した人間に助命されたのだ、忘れるな。今後こんなよこしまな行いをしてみろ、私は厭わんぞ」
重低音のごとく、言われた者の脳を支配する、重苦しい言葉。金毛交りの男は即座に跪き、受け入れていた。有栖はそれ以降、ただ眺めることしかできなかった。そんなこんなで少し騒動もあったが、王妃顔見せは閉会した。
■
夜会は宰相の思い描いた筋書きには程遠く、不本意な結果であった。とわいえ、人間の娘に現状を叩きつけた、と得意げににやけてた彼を翌日城の兵士に目撃されていた。
(しかし王はいったいどこで出会ったのか。密偵ではないだろうが、どのような身分の者だったのだ?)
あの人間の出自について暫し考える。瞬時に詮なきことだ、と切り替えた。まだまだ彼には手札がある。あといくつかけしかければいいことだ。そう心中で思いながら執務をこなしていく。この男こそ、この国最高位の執政官なのだ。何十代と続く王家だが、政務に励む王は全体の三割にも満たない。当代の王である白銀の神秘的な主君が、勤勉であるので助かっていたが、彼にはあまりいいことではなかった。だが、そうでないと、とても手に負えない量の仕事がある。
現王はいくつもの改革案を出し、実行してきている。その改革によって生じている政務とそれに対する抗議書、また法案や各地からの報告などするべきことは山積みだ。その量は思わず溜め息をだしてしまう量。それでも、王にもこの量を提出しているのだ。自分がまず目を通し、法案ならばその可否を。報告なら対処についての提案を挟んで。抗議書には何故そうしているのかと、注釈を差し込む。
(王の仕事をせめても)
こんなことは我が王にはいらぬことかもしれない。宰相は時折思うことがある。白銀の王は、力もさることながら、文治の才覚にも恵まれていた。所詮片方の才しか持たぬ彼してみれば、知友兼武を誇った名君に見える。ともすれば自身は片方しか持たぬ非才と、卑下していたベフテディにはできることは一つしかなかった。せめても王の政務を減らす努力を。それしか己にはできぬ、と彼は自虐的に己を評価している。
日々の執務の量は王もさほど変わらない。宰相がしている作業は、わずかばかりしか減らさないだろう。それだけでも、彼が執務に勤しむ理由ができていた。主君がため。後世に英雄譚として、稀代の名君と語り継がれる王道を歩んでもらうため。
彼はその思いだけで執務のかたわら、妃にしたいと言っている人間に叩きつける文書を綴っていた。