婚約破棄、のち、幸せ
「アメリア、お前との婚約を破棄する。」
真夏の暑い日、学園の庭でそれを告げられたときの衝撃、そして心臓が潰れそうな思いは、今でも忘れられません。
意地っ張りだった私は、何のショックも受けていないような顔で、平然とそれを承諾しました。
けれど、寮の自室に戻った後、涙が勝手に溢れてきました。あまりにショックで、まだ気持ちがついていかず「悲しい」という気持ちすら湧いてこないというのに、見開いている目から、涙が勝手に流れ落ちるのです。
こういうことが本当にあるんだな、と私は他人事のように思いました。
原因を辿るのであれば、恐らく、学園入学時にまで遡ります。
私は15歳で学園に入るまで、ずっと自宅の家庭教師のもとで勉強をしており、限られた友人としか交流していなかったため、世間に疎く、精神的にも幼く、また、人との距離感を測ることも不得手でした。
そのため、入学直後の私は、初めてたくさんの人に出会えたことに興奮しながらも、どのように話しかけたら良いのか分かりませんでした。気が付いたときには、既に友人同士のグループが出来ていて、入れてもらう方法も分かりません。
つり目でキツそうに見える外見のせいか、事務的なこと以外、話しかけてくれる人もいません。
たまに話しかけてくれた人に対しても、気の利いた、打ち解けた会話をすることができず、せっかく友達を作れる機会だったのにと、後悔ばかりをする日々でした。
何でも言い合える関係の友人同士が羨ましく、私も思ったことを裏表なくそのまま口にするようにすれば親しくなれるかもと思い、実践したこともありますが、顰蹙を買っただけで終わりました。
本当に年齢に見合わず、幼く、恥ずかしい行動でした。後から何度、「あの時に戻れたら」「やり直したい」と思ったことでしょう。
そんな状態でしたから、学園で初めて顔を合わせた、親同士の決めた婚約者――ロビンとの関係だけは、何としてもうまくやらなければ、と気負っていました。
ロビンはいつも堂々と、自信に満ち溢れた人でした。
将来結婚する相手なのだから、何でも言い合える関係になりたいと思い、私にしては珍しく勇気を振り絞って話しかけたりもしました。ロビンが間違ったことを言っていると思ったときには、それを正すようなことも口にしました。
あまり親しい友達がいない中で、ロビンとの軽い口論は、私にとって新鮮かつ楽しいもので、学園生活における心の支えになりました。
ロビンが言い返してくるのが、「仲の良い証拠」ではなく、本当に嫌がられているのだと気付いたのは、いつのことだったでしょうか。
あるとき、ロビンがいつも一緒にいる男友達と、「女性が誕生日とかイベントに拘る気持ちが分からない」「当日でなければならないなどと、愚かなことだ」と話をしていたところに、ちょうど居合わせたことがありました。
私は、誕生日や記念日は特別な日だと思っており、できる限りその日のうちに「おめでとう」と言いたい人間です。
親しい人が、誕生日をポツンと過ごしている様子を想像するだけで悲しくなりましたし、日付が変わった瞬間に従兄弟たちと「おめでとう」と言い合うのも習慣になっていました。
もちろん、誕生日当日に会えなかった人には、後日プレゼントを渡すということもありましたが、友人に当日、いきなりプレゼントを渡したときの「覚えていてくれたの?」という笑顔には代え難い、と思っていました。
そのため、何の気なしに、口を挟んだのです。
「誕生日とかって、やっぱり、当日に特別な意味があると思うわ。」
それを聞いたときの、ロビンの、軽蔑したような目は、忘れられません。
「お前は最低な人間だな。後日であっても、プレゼントを渡そうと思ってくれた、その気持ちが有難いと思わないのか。」
吐き捨てるようにそう言った後、私が言葉を返す間もなく、彼は友人らと共に去って行ってしまいました。
私は、誕生日とかイベントに拘るという話を聞いて、とっさに、プレゼントを「渡す」側の立場で考えたのですが、彼は、私が「受け取る」側の立場で答えたと考えたのでしょう。
私だって、貰う側であれば、それが後日であったとしても、もちろん嬉しいですし、有難いと思います。ですが、そのような誤解を解く暇もありませんでした。
そのような小さな誤解の積み重ねが、互いの溝を深めていきました。私は、それでも機会がある度にコミュニケーションをはかろうと努力しましたが、ロビンは私の言動を、全て悪い方向に解釈しているようでした。
ですが、愚かな私は、それでもまだ、甘い期待をしていました。
彼なら、いずれ、本当の私を分かってくれるのではないかと。なんといっても婚約者なのだから、いつか、物語に出てくる主人公たちのようにわだかまりを解消して、これまでの分も仲良くなれるのではないかと。
愚かに期待をした分、彼から婚約破棄を告げられたときの衝撃は、本当に大きなものでした。全く無防備だった心を、いきなり刺されたような痛みです。
彼は私のことを、どうしようもなく浅はかで、低俗で、性格の悪い人間だと思っている。そして、その認識は決定的なものである――、その事実に、ようやく、私は気付いたのです。
その後、何年間も、その瞬間の夢を見てはうなされましたが、表面上は平気な顔をしていましたから、私が内心こんなにショックを受けていたと知ったら、彼の方が驚くことでしょう。
無事に婚約破棄の手続が済んだ後、彼が、友人たちの間で私を笑いものにしていると知ったときは、学園をやめたいという気持ちにまでなりました。
ですが、そのような状態でも、少しずつ、少しずつ、時は流れていきました。
それから数年もすると、私は、遅まきながらも、周りの空気に上手く合わせることができるようになりました。
発言には、細心の注意を払うようになり、後で自分の言動を後悔する、ということも少なくなっていきました。
決して悪目立ちすることのないよう、身なりや流行にも気を遣いました。
心から信頼できる友人を得て、周囲にいる人や食事の誘いなども増えていきました。
少し距離ができて冷静に見てみると、ロビンは、もともと私のような女性はタイプではなく、もっと洗練された女性や、慎ましく淑やかな女性らしい女性を高く評価していることが分かりました。
以前の私を振り返れば、彼が私との婚約を破棄する気持ちに至ったのも、当然のことだったと思います。
当時は、一度婚約を破棄された女性は、新しい相手を見つけることが困難な時代でしたから、私は勉学に打ち込み、好成績を残して進学しました。
そして、希望していた研究機関に職を得て、良き友人や仲間に囲まれ、さらに職場で出会った男性と結婚できたのは、幸運だったと思います。
愛しい子ども達にも恵まれ、私は本当に幸せでした。
かつて婚約破棄をされたことなど、この50年の間、一度も思い出すことがなかったというのに、今このときになってふと思い出したのは、いよいよ、最期のときが近づいているのでしょうか。
まだ、お礼を言いたい人が、たくさんいるというのに。
私は、本当に、本当に幸せでした。
夫と子ども達を残していくことは辛いですが、どうか、悲しまないで欲しいです。貴方たちが泣く姿を想像しただけで、私は、胸が潰れそうな気持ちになります。
たくさんの幸せをありがとう。
いつまでもいつまでも、愛しています。
天国の両親と一緒に、見守っています。祈っています。
これから、貴方たちに、苦しいことがないように。元気で長生きできるように。毎日、美味しいものを食べられるように。あたたか、な布団で休めるように。友人に恵まれるように。あと、あと……。
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男は、隣室から、大きな笑い声が聞こえるのに、眉をひそめた。
男の住む高齢者住宅は、高所得者用のハイクラスのものであり、その設備や食事には十分満足しているものの、周りの居住者とは、まだ打ち解けることができていない。
特に、隣室に住む同年代の男は、面白みのない人間であった。話題を振っても、ありきたりの回答しかしないし、仕事で出世しそうなタイプにも見えない。
そのような男が、どうして、自分が住むこの居室よりも広い、ランクの高い部屋に居住できるのか。
よほどの資産を相続したのかと想像し、食事のため顔を合わせた際にやんわりと聞いてみたこともあったが、その回答は「うちは妻も働いていましたので。」と短いものであった。
一般的に、女性の稼ぎなどたかが知れているだろうし、共働きだったとすれば、家のことはおざなりだっただろう。子ども達も、真っ当に育ってはいないだろう。不幸な男だ――と下に見る気持ちが続いたのは、数日だけであった。
隣室には、頻繁に、面会客がやってくるのだ。
自分のもとに、家族が面会に来たのはいつだったか、覚えてもいない。それに対し、隣室の男のところへは、1か月とおくことなく面会客が訪れる。
それは規約に反することではなく、悪いことというわけではない。
しかし、何となく不快に感じて、男が、隣室の声をかき消すようにテレビの音を大きくしたとき――、隣室から小さく、「ハッピーバースデイ」の合唱が聞こえてきた。
幼い子どもの声は、特に高く響いている。
それを聞いて、男は、自分自身も先週誕生日であったことを思い出した。
夕食の際、男は、また隣室の男と鉢合わせた。
「今日は賑やかでしたね。」
少し嫌味を交えたつもりで言ったところ、男にもそれが分かったようで。
「うるさくして、すみませんでした。」
と恐縮したように、軽く頭を下げられた。
「色々と、渡されたものがあるのですが、一人では食べきれなくて。良かったら、手伝ってくれませんか。」
スマートな誘い方に、男は、それくらいの迷惑料は受け取ってもいいだろうと、隣室の男の部屋に入った。
広い間取りだということは知っていたが、実際に入ってみると、男の部屋の二倍ほどは広く感じる。その壁一面に、メッセージカードや写真、子どもの工作のようなものが飾ってあった。
男が驚いたのが伝わったのだろう、隣室の男は少し恥じ入るように述べた。
「娘や孫たちが、貼っていくんですよ。何かの度に、色々持ってくるんで、もう壁に空きがなくて困っています。」
そして少し声を落とし、切なそうに言葉を続けた。
「亡くなった妻が、記念日や祝い事を大切にする奴だったんです。子ども達もそれを真似するようになって……。
私自身は、何もする方ではなかったんですけどね。妻は、別にお返しがほしいわけではなく、祝いたいから祝うんだと、そういうやつでした。
とても情の深い、でも子どものように純粋な、自慢の妻だったんです。」
楽しくもない自慢話を聞かされ、男は辟易した。
早く退室したいと思いながら、ふと、隣室の男が愛おしそうに見つめる先に目をやると、そこには、古い結婚写真が引き伸ばして飾ってあった。
男は写真に写る女性の姿を見て、何かを思い出したかのように、刻印を確認した。
――アメリア・ローズ
かつての婚約者の名前であった。
ロビンは、自分の考えが絶対的に正しい、という強い自信及び正義感で行動をする人でした。
最後に、偶然にも、元婚約者であるアメリアの気質及び成長を知り、心の中で、元婚約者に対する評価を改めます。
彼はこの頃から、それまで自身の頑なさゆえに上手くいかなくなっていた人間関係を見直し、少しずつ改善していくようになりました。
それによって、彼自身の老後も、あたたかなものに変わっていくものと思われます。




