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始まりのリップ

 春風が頬を撫でる。


 どうやら、二度寝をしてしまったらしい。


「誕生日ぐらい、別に良いわよね……」


 そう呟いた小春は、昨日買ったばかりの枕に顔をうずめた。


 息を吸い込むと、爽やかなラベンダーの香りがする。


「はぁ~良い匂い……」


 さて、今日は何をしようか。


 今日で五十路の誕生日を迎えた小春は、一週間前に実質最後となる仕事勤めを終えていた。


 この年になるまで、時間を忘れ仕事に、勉強にと打ち込んで来た。それが祟ってか、いざ時間が出来たら、それはそれで使い道がすぐには浮かばなかった。


「買い物は十分楽しんだし、旅行は行かなくても……ねえ」


 もう少し、遊んでおけば良かったかも知れない。


 結局、残るは美味しい物を食べる位しか思いつかなかった。


「仕事……はもう行かなくて良いのよね」


 時計を見ると、始業時間まで一時間ほどある。起きなくても目が覚めてしまうのは、もう沁みついて離れない一種の病気だと思った方が、良いかも知れない。


 ここ一週間、毎朝こんな調子だ。


「さて、折角起きちゃったことだし、やる事やっちゃいましょうか!」


 悩んでいても仕方が無いだろう。


 早期退職――これを目指して頑張って来たのだ。早期と言うには、少しばかり頑張り過ぎたかも知れないが、結果独り身で使うには十分な資金が貯められた。 


 重要なのは、残りの人生を有意義に過ごす事!


「そう、人生100年の時代ですもんね!」


 気合いを入れ直した小春は、早速布団を畳むと洗濯の準備を始めた。


 ――15分後、洗濯機の唸り声をBGMに朝食をとる姿があった。


 朝起きてから15分、既に軽い掃除と洗濯、それに風呂掃除までを終えてしまった。


 朝食はバナナとヨーグルトだが、別に急いでいる訳では無いのだ。もう少しゆっくり食べられる物でも良いかも知れない。


「そうね、自家製パンで優雅に朝食――なんてのも良いかも知れないわね」


 ふんわりとした出来立てのパンを想像して、知らず知らずの内に頬が緩んでいた。


「あら、開場する時間ね……」


 時計の針が、9時を指そうとしているのを見て呟くと、手元にあった端末を操作した。


 そこに並ぶのは、素人が見ても目を泳がせるだけになりそうな、そんな文字の羅列だったが……それらを一瞬の内に網羅した小春は呟いた。


「へぇ、兄さん良い仕事してるじゃない……」


 これは、小春の口癖に過ぎなかったが、きっとこの言葉を同僚だった(・・・)面々が聞いたら胸を撫で下ろしていた事だろう。


 小春の言葉には、その日荒れるかどうかを示す、一種の"仕事場の天気予報"の様な意味合いがあった。


 勿論、実際に誰かを指して言った訳では無かったが、市場全体の動きが、半ば自分の予測した通りなのを見て笑みを浮かべていた。


「これは、丸儲けね!」


 誰も居ない部屋のリビングでガッツポーズをかました小春だったが、その数秒後恥ずかしくなってすごすごと腕を下した。


「……まったく、一人で何やってるのかしらね」


 降ろした手でそのまま、端末の電源を落とすと言い聞かせるように言った。


「私はもう自由なの、何をしても良いのよ! ほら、大変だったじゃない。勉強も受験も、その後就職してからも! その頑張りは何の為にあったの? そうよ、趣味を楽しむ為じゃない!」


 勢いよく言い切ると、その調子のまま残りのバナナを口に運んでしまった。


 ◇◆


 朝食を終えた後、食器を洗って片付けた。


 そう、朝食を終えてからそれしかしていない。


 ……沢山、楽しい事をするつもりだったのに。


 自分の想像の貧弱な事に苦笑すると、勢いをつけて立ち上がった。


「そうよ、女性――いえ、"女"と言ったら、先ず化粧からよね!」


 これ迄、化粧などに気を使った事は無かった。


 勿論、最低限の化粧はマスターしていたが、それは仕事上最低限必要なラインでの事だ。気を使った事など無い。最初こそ色々言われたが、結果を出しさえすれば、誰にも文句話言われなくなった。


「ええっと、確かこの辺りに……」


 つい二日前、久し振りに化粧品店に行った時、お勧めされた物を一式買って来たのだ。これ迄、ネットの口コミで通販していた身としては、新鮮な経験だった。


 紙袋に入った、まだ開封さえされていない化粧品を取り出すと、改めて確認した。


「ええっと、これが最初に塗るやつで、次がこっちの細いので……」


 数があって面倒だったが、まだ薄いビニールに包まれている化粧箱は、何となく懐かしい記憶を思い出させた。あれは、初めて母の化粧品を見つけた時――


「っと、それ処じゃないわね。ええと、最初に顔を洗わないといけないんだったかしら?」


 店員さんに聞いた手順を思い出して、ぼうっとしていては、いつまで経っても進まないと立ち上がった。手に持ったのは、二つともお勧めされた洗顔液だ。


「ええと、最初はこの白いボトルからだったかしら……」


 首を傾げながらも、多分そうだったと手に持ったボトルをひねる。すると、丁度指先程の量白い液体が出て来たので、それを手の平に伸ばし始めた。


「こうして伸ばして……あら? 先に、顔を濡らすんだったかしら?」


 手の平に程よく伸びた洗顔液を見て、首を傾げながらも取り敢えず、塗ってしまえば問題無いと判断した。乾いた顔に、洗顔液が広がるのを感じる。


 最初は伸びが良いように感じたが、どうやらこれでは駄目だったらしい。


 途中でパサつき始めたのを感じた小春は、慌てて水で顔を洗うと、途中まで伸ばしていた洗顔液も洗い流してしまった。店員さんは、顔のマッサージをするとか何とか言っていた気がするが、まあ良いだろう。


「ええと、次はこっちのボトルね……」


 透明のボトルを手に取った小春は、少し面倒だなと思いながらも言われた通りしてみる事にした。


 ◇◆


「さて、これでようやくお化粧……女って、大変なのね」


 いつもはとっくに終わっている筈の事に、ここ迄時間を掛けているのだ。これで、いつもとちっとも変っていなかったら、それはそれで嘘だろう。


「ええと、先ずは下地ね……薄い色を軽くなじませて、ぽんぽん――よね……」


 思い出しながら呟くと、用意した鏡に顔を映した。


 そこに映った顔に、思わず苦笑する。自分の顔などしばらく見ていなかったが、どうやらいつの間にかすっかり"おばちゃん"になってしまったみたいだ。


 ここ一週間、健康的に過ごしたはずだったが……その程度で消えてしまうほど、目の下のクマとの付き合いは浅くは無いらしい。


 ショックを受けながらも、明るい色を乗せて行く。


「あら、良い感じじゃない……」


 しばらくポンポンとしていると、見違えるようになった。若干色を付けすぎかもしれないが、これでクマは隠す事が出来ただろう。


「次は、アイシャドウね」


 こう言っては何だが、まつげは長いのだ。

 店員さんにも、つけまつげの類いは必要ないですねと言われたほどだ。


 涙袋の淵をなぞって行く。


「ふふっ、少し太過ぎかしらね」


 久し振りでついつい力んでしまったが、見れない事も無いだろう。


「次は最後に指す"紅"ね……」


 そこに有ったのは、少し色の明るいリップだった。少しばかり明るすぎる気もしたが、結局は店員さんの進めるままに買ってしまった。


 キャップを外しリップを回す。


「……綺麗な色」


 店員さんの言う通りにして正解だったかも知れない。


 唇にゆっくりと合わせながら呟くと、下唇を引き終えた。


「次は上ね……あれ?」


 唇にリップをつけようとした所で、何となく、むかし同じ事をした気がした。


 てっきり、単なるデジャヴかと思ったが……


 上唇を引いている途中で思い出した。


「あっ、これ子供の頃っ!」


 急に動いたからだろう、手元が狂った。


 綺麗に引けるはずのリップラインは、大きく外れて……


「そう、これも同じ。あれは確か、私の誕生日の……」


 鏡に映る自分の顔と、遠い昔に見た顔とを重ね合わせた。


 その瞬間、鏡に吸い込まれるような感覚がして――


「こら、ダメって言ったじゃない!」


 背後から聞こえてくる声、そう、この声も言葉も記憶にある……


「だ、だって……今日はこはるの誕生日だから……」


 小春の呟きに、その声はため息を吐きながらも答える。


「まったく、やるんじゃないかと思ったわよ……。はぁ、しちゃったもんは仕方ないわね、ほら、もう一回だけ使って良いわ!」


 恐るおそる見上げると、そこには見間違う事などあり得ない――記憶のままの母の姿があった。


喫茶店で出会ったおばさまから刺激を受け、書き始めた作品になります。連載しようかと思っていましたが、今は他に抱えている連載があるので、今回は短編としてまとめさせて頂きます。

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