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終わらない夢(6)

 今年の春先からシャンティイが自分の家になったような錯覚をしている。

 日中の殆どをここで過ごしているから強ち間違いではないのだが、専属でもない騎手が厩舎の仕事を手伝うことに顔をしかめる人間も一定数いるそうだ。

 気持ちは分かるが聞かない振りだ。オーナーが納得していて厩舎の人間が納得している。何も問題はないのだから。


 勝手知ったるガーナ厩舎。またの名をセルゲイ厩舎。

 職員と手を挙げ挨拶を交わしつつ厩舎の奥へ。角から二つ目、漆黒の毛並みに白い丸が顔を覗かせている。


「ひーん」

「やあセルクル。暫く振り」

「ひん! ぶるるる……」


 目敏く俺が土産を抱えていることを見破ってきた。

 それもそのはず、袋の中身はキョウト土産のナガノ産林檎だ。食い意地の張った彼への土産はいつでも食べ物で、中でも林檎が大好物だ。こうして匂いを嗅ぎ付けてよこせと首を伸ばしてくる。

 前もって許可は貰っている。競走馬に与える食事はそれなり以上に計画されている。丁度アスリートの食事がそうであるように。

 まあ、セルクルは普段から普通の馬より多く動き回るので、胃腸を悪くしない程度であればどれだけ食べようと大して困ったことにはならないのだが。

 道中で拝借してきた果物ナイフで八つ切りにしてやる。皮は与える人間によって言っていることがまちまちだが、俺はそのまま食べさせている。野生の馬が果物の皮だけ食べないなんてことないだろうから。


「今日はもう走ったのか?」


 馬に訊ねても仕方がない内容。もしゃもしゃ口を動かしながら首を傾げるセルクルに代わり、厩舎の人間が答えてくれた。


「クリストフ君が来るって聞いていたからまだだよ。乗るだろ?」

「もちろん。よしセルクル。食べ終わったら行くぞ」


 咀嚼して飲み込む。「ひん」と鳴いた。





 次のレースは恐らく英2000ギニーになる。それは4ヶ月は先の話で、冬のこの時期は根を詰めて走るような必要もない。

 セルクルはいつものように気ままなペースで走っていた。柔らかい身体使いとゴムボールみたいな反発は馬に乗っている気分とは程遠い。他の馬に乗った後だと如実に感じる。

 じゃあお前が乗っている生き物は何なんだと問われると馬だと答えるより他ないのだが、俺の中では競走馬とセルクルは別の枠組みで考えるべきなのではないかと思っていたりする。


「ふっふん。ふっふん」


 セルクルは気分良く鼻を鳴らしながら走っている。彼からすれば走りは遊びだ。レースのことは、どう思っているんだろうな。競走をしているという意識はあるみたいだが、俺のようにレースを遊びと捉えているかといえばそうではないような気がする。


「どうなんだ、セルクル」

「?」


 言葉は森の風に溶けて消えた。答えなんかない、だからこそ訊ねずにはいられないのかもしれない。




----




 時間が経つのは早いものだ。毎日をただ過ごしているうちに冬が終わり、春が来て、競馬のシーズンが開幕した。

 冬の間も騎乗の依頼であちこち飛び回った俺とは異なり、セルクルはシャンティイや牧場でのんびりと過ごしていた。俺も見習いたかったが目を吊り上げたマリアージュが怒鳴り込んで以来、大人しく彼女の持ってきた騎乗依頼をこなしている。

 マリアージュはパリの女のはずだが、何故あんなにも性格がきついのか……仕事のパートナーとしてはあのくらいで丁度いいのかもしれないが。



 意識を現実に戻す。遮蔽物のない青空と草原、遠くにぽつんと見えるスタンド。

 英国三冠レースの第一戦、ニューマーケット競馬場国際GⅠ2000ギニー。俺達は遥々海を渡ってこの場所へ戦いに来ていた。


 直線1600mで行われるこの戦い。外野から思われている以上に様々な駆け引きがある。

 第一に進路だろう。コース全体として大小三度の上り下りがあるが、自然の起伏を利用したコースであるため左右に「うねり」があり傾きが一様ではない。そのためゲートからただ真っ直ぐ走れば良いというモノでもない。

 基本的にスタンド側(進行方向左手側)二分所を進み、ゴール前でラチ沿いか中央に出すのがベストとされている。

 第二に風防。どの馬の後ろにつくのか、或いは自分が前を走るのか、それらで得られる有利不利の取捨選択。

 第三にペース。2000ギニーのコースはゴール前300m程からゴールまで厳しい坂が始まる。その前で上手く息を入れられないと坂の途中で失速することになる。


 さて、それを踏まえてどう走ろうかという遊びなのだが。

 股下の相棒を見やる。いつも通り、どこ吹く風といった感じで競馬場の景色を……というよりはゴール板の方向を眺めている。ま、力みもなくいつも通りだ。


 実のところ外野は英2000ギニーでセルクルの真価が問われる、と思っているらしい。メディアによれば対抗のムーランホークという馬もかなりのもので、前哨戦を圧勝して評価を上げているらしい。名前に引っ掛かりがあり調べてみると、セルクルが新馬戦で最後にちぎった馬だったらしい。強いといってもその程度の馬だ。何も不安に思うことはない。

 他はよく知らないが有象無象だ。どこそこを勝って来たとか、そういう情報に意味は無い。ようはセルクルより速いかどうか、強いかどうかだ。


 閃くものがあった。

 どっちが強いなんて考え方が思い浮かばないような勝ち方をしてやろう。内心舌なめずりをしながらゲートへ向かう。セルクルが怪訝な表情でこちらを伺っている。首筋を撫でて軽く叩く。今日の遊び方は決まりだ、奴等の顎を驚きで外してやるんだ。




 セルクルは大外枠での出走。恣意的なものではないのだろうが、セルクルと走っていると妙なところでツキがないように感じる。今回はむしろ好都合だが。


 日本の競馬で再三行われたファンファーレを聞いた後だと、こっちの発走は少し味気なく感じる。管楽器による演奏など大きな音は競走馬にとって問題があるが、騎手や関係者の気持ちを整える時間と考えるとあれはあれで有意義なのではないかと考えられなくもない。


 ゲートに収まる。いつぞやのように散漫ではない。閉じたゲートを睨みつけじっと発走を待っている。


 いいぞ。集中している。これなら――


 ゲートが開く。真っ先に飛び出してそのまま先頭に踊り出た。

 波打つ真っ直ぐな道を誰に憚られることなく走るのは気持ちがいい。

 1F、2F、段々とゴールが近づいてくる。後続を振り払い単独先頭。馬群だとかキレだとか、そういう要素で物を見るから本質を見誤る。セルクルは追い込み馬だと思われているようだが別にそんなことはない。たまたまそういう勝ち方をしていただけで、やろうと思えばどんなペースでだって走れる。

 今日は逃げだ。単独先頭で独走し、そのまま他を寄せ付けずゴール。これなら文句のつけようがあるまい。或いは逆張りの有識者が距離の不安を囁くのだろうが、そういうのはまたの機会に黙らせてやるとしよう。


 セルクルも先頭を走るのが気持ちいいらしい。実に快適そうに飛ばしている。

 レースの折り返し4Fを通過。体感では45~6秒。普通の馬なら後半潰れるペースだが


(君なら問題ないだろう? セルクル)


 答えるかのような力強い前肢の掻き込み。バネで飛んでいるような後脚の躍動。

 このまま最後の坂の手前までいこう。そこで一度息を入れてラストスパートだ。


 楽勝だ。後ろには何もいない。


 そう、思っていた。


 居る。蹄の音がする。一頭が近くあとは遠い。残り3F、後方を確認する。

 いた。黒い馬だ。あれは確かムーランホークだったと記憶している。

 道中10馬身は開いたと思われる差は3馬身程に迫られ、今も尚縮められていた。差が縮まるのは想定内だが、少なくとも4F時点ではちぎっていた。その詰める速度に内心舌を巻くと同時に嫌な感覚が首筋を焦がす。追いついたということは、道中においてどこかでセルクルと同じだけの脚を使った、使えたということだ。しかもあの様子を見るに、どうにも途中で終わる脚の使い方をしているように思えない。


 こちらは坂の手前に備え息を入れて居る最中。あっちは4Fからロングスパート、

そんなことが出来るのかは分からないが、とにかくこのままペースを緩めるつもりはないらしい。中々タフな真似をしてくれる。

 後ろを気にしている俺に釣られてセルクルも背後の競争相手を認識したらしい。背中に少し力が入った。


「――ッ!?」


 勝負は坂に入ってからだと考えていた。

 ムーランホークはあっさりと俺達を交わして先頭に立つと坂へ挑み始めた。

 こっちは計画通り残り2Fの標識でスパートを開始。待ちかねたと言わんばかりにセルクルの馬体が弾ける。


 坂だろうが関係ない。抜群の瞬発力はハイペースの中においても健在で、一瞬開きかけた2馬身差は瞬く間に埋まり――


 ギョロリ、と血走った眼が俺を捉えた気がした。


 差せない。半馬身、そこから差が縮まらない!

 馬鹿な、セルクルは最高速度だぞ! そりゃここまで速いペースで走ったから溜めた時より脚は鈍いが、そんなもの相手も同じ条件のはずだ!


「くっ……!」


 残り1F。焦りが出る。

 相手は一向に垂れる気配が無い。なんという強靭な体力だ。坂も含めた4Fを追い通しで居られるなんて尋常ではない。

 どうする、セルクルにこれ以上は無い。いや、そもそもレース中の最高速度においてこの馬に比肩する存在が現れることは想定していなかった、後ろから差せない馬が居ると考えていなかった。

 すまないセルクル、俺の、俺のミスで……?

 なんだセルクル。何を見ている。


 彼の瞳が競り合う馬の騎手に向けられている。いや、違う。その腕、握られているものを見ている。


 鞭だ。振るわれている鞭を見ている。


 打て、というのか。

 お前、あんなに鞭が嫌いだったじゃないか。

 打ったところで何が変わるっていうんだ。

 お前はあんなことしなくたって走り方を知っているだろう。

 だから鞭を打たれるのが嫌いだった、そうじゃないのか。


 それでもなのか?

 お前の背中から感じる激しい怒り、それが答えなのか?


 分からない。

 俺には遊びだ。今日は上手くやれなかった、それじゃだめなのか?

 そんなにまでも負けたくないのか。そんなにまでも、お前は勝ちたいのか?


「ぐるるッ!」


 喉奥の唸り。或いは風の音を聞き間違えたのかもしれない、そんな音。

 打て、と言われた気がした。


 鞭を抜いた。セルクルとは、出会いの時以来使うことのなかったそれ。

 動作は身についている。当然だ。俺は騎手なのだから。

 必要ならば鞭を打つ。お前が要ると言うのなら、それはきっと必要なのかもしれない。けど、俺はお前の友人でもありたいんだ。

 振り上げた鞭を尻に叩き付ける。

 激しい風の唸りスタンドの声援、そんな中でも乾いた音ははっきりと聞こえた。


「頑張れ、セルクルッ!」


 だから、これは応援だ。

 頑張れ。

 あんな一度負かした相手になんて負けてやるな。

 頑張れ。あとたったの半馬身だ。


 不思議だ。

 どこにそんな力が残っていたのか、鞭を入れた瞬間セルクルの身体は再び加速した。異次元の領域、未開の速度。


 残り50m、40、30、20――


 交わして身体半分、突き出たところがゴールだった。

 空と大地、誇らしげにたてがみを揺らした相棒。

 右手を高々と上げた。

 使う事を許された鞭が新たな絆の形であるように思えて、誇らしかった。



転職活動の諸々で慌しく過ごしておりました。

本編の西から来る最終話(JC編)にアーモンドアイについての追記をしたんですが、いやはや21秒すっとばして20秒台とは。

はっきりいってレースで競走馬が2分21秒台で走る事は不可能だと思ってました。

特にスローペース偏重だった近年の競馬を見ていると。

3コーナーから4コーナーで爆走して前が止まらないで、まんま作中と同じ展開になっててかなり笑いました

でも誰があんなタイムで走破するとおもったでしょう

小説でさえ20秒台とか書いたらありえないって鼻で笑われちゃいますよ

事実は小説よりも奇なりですねー

そんな晩秋でした。


ツイッターのほうでも自慢()したんですがJC馬券とりました!

わーいわーいほめてほめて

殆ど一点勝負で買ってたんでとっても嬉しい! 菊花賞の負けは取り返した!

尚、ダービーの負けは……(´・ω・`)働いて返すお

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