サタンマルッコの優雅な休日
■AM03:00
――おはようございます。
「おお、おはようございます。今日は一日よろしくお願いしますわ」
我々取材班は牧場側のご好意により凱旋門賞馬サタンマルッコ号の密着取材に同馬の生まれ故郷、中川牧場にお邪魔させていただいていた。冬の冷たい空気の中、まだ深夜と呼べるような時間にオーナー兼牧場長の中川サダハル氏と挨拶を交わす。
――はい。よろしくお願いします。お邪魔にならないよう気をつけます。
「はっはっは、そんなに気にすることないですよ。うちはマルッコ一頭だけですしね。そんなにやることも無いんですよ」
そう言って飼葉束を餌箱に入れると、奥からサタンマルッコ号が顔を出した。カメラを構える我々の姿を見て首を傾げるも、気にしないことにしたのか飼葉に顔を突っ込んで食み始めた。
こう言っては何だが、普通だ。
「そりゃあ怪獣みたいな馬も居ますけどね。飯の時だけは静かなモンですよ。まあコイツはそういう面では大人しい方だと思いますよ」
やがて食事が終わると中川氏はおもむろに閂を外した。当然のようにサタンマルッコ号は馬房を抜け出し、のしのしと外へ向かって歩き出した。
――勝手に出て行ってしまいましたが、いいんですか?
「ん? ああ、普通はダメですよ。マルッコは頭いいんで好きにさせてますが。まあ羽賀全体で放し飼いにされてるような奴なんでね。役所も柔軟に対応してくれてね、今じゃ向こうが気を使ってくるくらいですよ。じゃあ私は馬房の掃除して寝直しますので」
なんとも生活感のある言葉を残して中川氏はサタンマルッコ号の馬房の掃除を始めた。我々は困惑しつつもサタンマルッコ号が消えた屋外へと向かった。
「ヒィィーン」
すると屋外から嘶き声。
「ああはいはい。悪い悪い。忘れてたわ」
馬房から出てきた中川氏が早足で我々の前を通り過ぎ屋外へと向かった。点々と設置されている照明を頼りに後を追うと、中川氏の背に追いついた。
――何をしていたんですか?
「放牧地の入り口を開けてたんですよ。いつもは開けてから行くんですがね、忘れていました。マルッコが教えてくれたんですよ」
――そんなことをサタンマルッコ号が?
「ええ。前まではこんな事しないで飛び越えていたんですがね。さすがにもうそんな事出来る立場じゃないだろってことで止めさせましたよ」
馬とはそれほど知能の高い生き物だっただろうか。何か我々と中川氏の間で致命的な齟齬があるように感じられて仕方が無い。会話する我々の前をサタンマルッコ号は悠然と横切り駆け出した。我々の困惑などお構い無しに普段通りに振舞っているのだろう。
「さて、じゃあ私は掃除に戻りますよ。戻ってきた時に片付いてないと怒るんですわ、あいつ。たぶん(サタンマルッコ号は)勝手に外に行くと思いますが、止めなくて大丈夫ですよ」
■AM07:30
ようやく太陽が顔をのぞかせ始める時間。
サタンマルッコ号はこれまでの時間、柵に囲われた放牧地で生草を食んでいた。馬の食事は長いと聞いていたが、ここまでゆったりと時間が流れるとは我々取材班は思っていなかった。
ここでついにサタンマルッコ号に動きがあった。おもむろに顔を上げたかと思うと、我々取材班が陣取る出入り口に近づいてきたのだ。
改めて間近で感じるサラブレッドの体格は、大きい。同馬の持つ戦績が偉大なものであるからか、覇気の様なものまで感じざるを得ない。
「ひん」
我々の顔を見て軽く喉を鳴らしたかと思えば、サタンマルッコ号はスタスタと柵外に出て、牧場の敷地外を目指しているようだった。我々も後に続く。サラブレッドの歩行に合わせるとなるとかなり早足で続くことになるのだなと学びを得た。
そのまま道路に出るのかと思われたが、出入り口付近で横に逸れ、施設を覆うように存在する林の中に足を踏み入れた。
下草を食べたり、花をつけた植物を食べたり。
気ままだ。サタンマルッコ号はあまりにも気ままに過ごしている。
この頃になると我々は自らの狭い知見で考えるのをやめ、ありのままをレンズに収めようと考え始めていた。
■AM10:00
すっかり太陽も高くなった時間。
その間もサタンマルッコ号のフィールドワークは続いていた。気の向くまま林の中を歩き回りつつ食事もしつつ。たまに放牧地に戻ったかと思えば30分ほど横になってうとうとしたり。そんな姿を観察しつつ我々も食事を取っていたりしたのだが、眠りから覚めるとサタンマルッコ号はいよいよ牧場の外へと進出を開始した。
心配する我々をよそにサタンマルッコ号の歩みに迷いは無い。
「おうマルッコ。今日も元気だな」
「ひーん」
「なんだあんたら。へー取材? 変わったことするんだねぇ」
お行儀良く歩道を歩く同馬を見かける地元の人々と挨拶を交わしつつ道なりに進めば、目的地と思しき場所に到着した。
話には聞いたことがある。サタンマルッコ号がトレーニングに利用していたという檀柄海岸だ。小浜と呼ぶのが相応しい入り江のような砂浜だが、端から端まで800メートル程あり、歩くとなるとそれなりの広さがある場所だ。
到着するとサタンマルッコ号は誰に言われるでもなく駆け出し、それはやがて全力走行へと変わっていった。現役の競走馬(それも極上の冠であるダービーや凱旋門賞を勝った馬)をこのように間近で撮影出来たのはかなり貴重な体験であるように思う。
眉唾だと思っていた「勝手に走る」という話も、早朝からサタンマルッコ号の一連の行動を目の当たりにしてきた我々は一週回って当然のように受け止めていたが、実際に目の前で見せられるとそれなりに衝撃的ではあった。
同馬はその後走るのに満足して、暫く泳いだ後帰路についた。
■PM02:00
「どうでしたかうちのマルッコは」
牧場に戻った我々を出迎えた中川氏は、放牧地で巻藁を食むサタンマルッコを遠目に眺めながら訊ねてきた。
――変わった馬でした。
「はっはっは! そうでしょう。他にいませんよこんな馬」
――本当に海岸で勝手に走るんですね。あと泳ぎました。
「ええ。昔からそうでしたよ。馬もねぇ、泳ぎが得意とは聞きますけれども、マルッコぐらい泳ぎが達者な馬は珍しいですよ。世界水泳出られるんじゃないですかね」
などと冗談交じりに会話していると、中川氏がおもむろに切り出した。
「乗ってみますか?」
――いいんですか?
「いいですよ。折角なのでカメラ持ったままやってみますか? 鞍もってくるんでちょっと待っててくださいね」
その提案に我々は一も無く二も無く頷いた。
一つ断っておくと、片手の塞がった状態で乗馬を試みるのは非常に危険である。中川氏の監修とサタンマルッコ号が非常に協力的であったからこそ実現した提案である。
やがて馬具を手に戻ってきた中川氏は馴れた手つきで馬具を装着し訊ねた。
「それじゃあどっちが先に乗りますか?」
――それじゃあ私(筆者)から。
「はい。それじゃここに足をかけて……そうそう。私が押しますからね。1、2、3!」
私が跨るのに合わせてサタンマルッコ号はバランスを取ってくれたらしく、特に揺れることも無くその背に収まることが出来た。
視線が高い。今日一日サタンマルッコ号を追いかけて過ごした中川牧場が一望できた。ましてや乗っているのは凱旋門賞馬。世界中のどんな高級車も目じゃないほどの価値を持つ存在に跨ったことはこの日取材に赴いた私とカメラマンにとって一生の自慢となりそうだ。
続いてカメラがサタンマルッコ号の背に跨る。
「マルッコ。ちょっと屈んでくれ」
「ぶる」
中川氏がそう頼むと、サタンマルッコ号が身を屈めた。(後で乗馬に詳しい人物にこのことを訊ねたのだが、この出来事そのものも相当凄いことなのだそうだ)
こうして撮影されたのが皆様のお手元に届いている映像である。
サタンマルッコ号への密着取材はこうして幕を下ろした。
同馬の印象はより複雑になり分からなくなったが、一つだけ確かなことがあった。
この日、我々取材班はサタンマルッコ号のファンになったということだ。
本日12/25日に書籍発売となりました!
早いところだと週中くらいから店頭にならんでいましたが、是非お買い求めください!
誰か買うでしょの精神で居ると絶対誰も買わないので皆さん買って僕に馬券代恵んで下さい^p^朝日杯とJFぼろぼろでした




