終わらない夢(4)
競走の歴史は妨害失格の歴史といってもいい。
進路を塞ぐ、身体をぶつける、徒党を組む、珍しいところでは鞭を奪うなんて事もある。
そうした積み重ねの末、モラルとマナー、何よりルールが整備されて今日の競馬競走がある。
今、跨っている相棒はセルクルではない、余所の厩舎のその他大勢。
乗った感触ではどうという事のない馬だが、手綱に対して素直な点は評価してやりたい。
ロンシャンの芝は今日も青い。前後左右で馬がひしめき、芝色が望めるのはターフではなく埒外の物だが。
スタートが上手じゃないこの馬は、そりゃあもう見事に馬群に囲まれた。内枠発走だった相乗効果もあるだろう。
最近なにかと縁の有るロンシャン芝1400m戦。フォルスストレートももう終わり。直線を向いてもまだ馬群は一団となったままだ。ちんたら走っていると感じてしまうのはセルクルの持つスピードに慣れすぎてしまったからかもしれない。
それにしても馬群が崩れない。一団となったまま、塊となって直線を進む。回遊魚にでもなったような気分だ。
「――」
辛抱強く待ち続けて、残り2ハロン。その瞬間が訪れた。
前を行く二頭、内ラチ沿いの馬が外によれ、玉突きのように外側へずれていく。内には馬一頭がギリギリ入れる程度の隙間。
迷いは無い。手綱をしごいて行けと命じる。
だが馬が躊躇った。
行けといったぞ? そら鞭だ!
ようやく動いた。前の騎手が何か喚いているが聞こえない。お前だって内を締めすぎだぞ、下手すりゃ進路妨害だろうに。
先頭集団に身体を割り込ませる。
さあ競り合いだ。
そういう遊びに俺はめっぽう強い。素直なこの相棒のことだ、押せば押すだけ身体を弾ませる。
ゴール板が見える。
あと三完歩、頭差負けている。
二完歩、首の差に縮まる。
前肢から不気味な感触。構うものか。
一完歩、あとは上げ下げ――
差しきった!
確かな手応え。
セルクルと走っているような高揚感はないが、これはこれで楽しい遊びだ。
この後のセルクルとのレースに弾みがついた。
などと能天気に考えていた数時間前の俺を殴りつけたい。
ロンシャン直線芝1200mG1モルニ賞。
殆ど平坦な直線芝コースで行われる二歳G1。よその直線コースは別として、ロンシャンのこのコースは比較的有利不利の無い直線コースといわれている。
直線なんだから有利不利なんかないだろうと考える人は多いが、現実としてそれは間違いだ。出走馬は有利なライン取りをしようとしてゲートから真っ直ぐには走らない。
芝のコンディションはターフ上全てが一様ではない。多くの馬が走るラチ沿いの地面は荒れて走り難く、あまり馬の通らない大外側は平らで走りやすい。
実際はそこまで単純ではないが、ここ数年のロンシャン直線コースに限って言えばスタンド側、つまり進行方向左手側に馬を寄せて走るのが常道とされている。
セルクルはその一番外側での発走。出走頭数も10頭と少なく、順当に実力を発揮すればまず負けないと俺やセルゲイさん、ガーナさんは考えていたのだが……
塞がれた。物の見事に塞がれた。直線コースでラチを含めた前横三方向を囲まれるなんて相当稀有な体験なのではないか。
どうやら俺が直前のレースで行った強引な割り込みが良く思われていなかったらしく、示し合わせたわけでもなかろうに息ピッタリのコンビネーションで包囲網が敷かれてしまった。新馬戦で見せた末脚も無関係ではないだろう。
レースは2ハロン進んだところ。
セルクルが前回の失敗からかやけに慎重なスタートを切った所為で出負けして、要らぬ不利を背負う形で進んでいる。
股下の相棒の様子を覗って見れば、「ぐぬぬ」と悔しそうな表情。
全体のペースはやや遅く感じる。前を行く馬は優位な位置取りから後半のキレ味勝負を考えているのだろう。他馬もそれに異存は無いらしく、淡々とペースを刻んでいる。
甘い想定をしていたことは認めよう。
セルクルの実力、そして有利な枠順。ただ真っ直ぐ走るだけでのレースで負けるはずがないと。起こり得る全てを想像しきれていなかった。俺の落ち度だ。
しかし、だ。
周囲を囲む騎手のどこか下卑た雰囲気。してやったり、そんなところか。
甘っちょろい連中だ。どうやらこの程度で勝ったつもりでいるらしい。
残り3ハロン。
手綱を強く引いてペースを落とす。
「いいのか?」と戸惑う相棒に再度要求する。
ずるずると、馬群から脱落するように位置を下げ、そこから手綱を操り外へ出す。馬群の外目ではなく、もっと外。横に5馬身くらい離れた位置まで外れる。
外を走っていた騎手のそこまでやるのかとぎょっとした顔。
溜まらず口元が緩む。これはそういう遊びだ
ここまで出したら他馬はもう手の出しようがない。よしんばこっちに振っても斜行で失格だ。
前と横を塞いだ程度では対応として中途半端。全く甘々で馬鹿な連中だ。馬込みでぶつけてくるくらいの気概もないくせに姑息な真似をして。
残り2ハロン、400m。前までは15馬身程。普通は届かない。
(でも、十分だろ? なぁ、セルクルッ!)
ゴーサイン。
待ちかねた、とでも言うように途端に全身を襲う加速重力。
緩んだペースで前を走っていたはずの馬達があっという間に近づいてくる。
奴等の敗因はただ一つ。常識でセルクルを測った、それに尽きる。
末脚の時計に2秒差があれば、他馬は止まって見えるのだ。
そんな面白いことをセルクルは俺に教えてくれた。
5馬身ちぎって、そこがゴール。
ほら。今日も俺達が一番だ。
レースも終わり祝勝会も一段落したところで電話が鳴った。
ディスプレイには友人の名。珍しいなこんなタイミングで。
「やあケルニー。どうしたんだ?」
『よおクリス。今日のレース見てたぞ、おめでとう』
「うん、ありがとう。まあ俺とセルクルなら当然だけどね」
『ハハッ、あの馬本当に凄いよな。馬の中をバイクで走ってるみたいだったぞ』
うまい事を言う。確かにセルクルの走りはどこか、大人と子供というより馬とそれ以外を引き合いに出すような別物感がある。
『おかげで儲けさせてもらったぜ。ああそういえばクリス。お前が今日乗った馬、骨折で暫くダメみたいだぞ。さっきウェブサイトで見た』
「うん? どの馬の事?」
『お前が4Rで乗ってた馬』
4R? セルクルの前に乗った馬というと……
「ああ! そういえば最後の直線で折れてたね。それが?」
蘇る肢の異常を伝える手応え。
騎手をやっている人間はあの感触を忌避する。勿論俺も例に漏れない。
だから忘れていたというのに、嫌なことを思い出してしまった。
『それがって、何かないのか?』
「嫌なこと思い出させないでくれよ。まあ、可哀そうだとは思うけど俺も彼もそれが仕事だよ。骨が折れてしまったのなら、それは彼がその程度ってだけだよ」
『はーん。シビアな世界なんだなー』
「ケルニー。電話してきたってことはパリにいるんだろ? 一緒に飲もう。嫌なこと思い出させたから君のおごりで」
『おいおい。レースに勝ったんだから、ここはお前が俺に奢る所だろ』
「まあどっちだっていいさ。どこで落ち合う?――……」
ダノンプレミアムが年内休養を発表(´;ω;`)