ニジイロ(2)
正直未だ夢の中にいるようだ。
夢現、現実感がない。
朝靄の栗東トレーニングセンターを歩きながら、細原文昭は目が覚めないかと顔を擦った。現実感がないだけで眠いわけではない。効果はなかった。
ジャパンカップから二日経った。競馬界隈の意識は既に終わったジャパンカップではなく、次に向けられていた。
向かう先はそれぞれだろう。二歳路線であるかもしれないし、ダート路線であるかもしれないし、或いは有馬記念であるかもしれない。
余韻、なのだろうか。文昭の脳裏には府中の直線で競り合ったパカパカモフモフの姿が焼きついて離れないでいた。
(最後は首の上げ下げだった。テツゾーが下げたところがゴールで、俺達が勝った。結果としちゃそれだけのことなんだがなぁ)
名前のゆるさに反して、間違いなく相手は強かった。
3歳牝馬故の軽斤量も無関係ではなかろうが、そもそもの走力がなければ己が相棒とは競り合いにもならないはずだ。
それでも勝った。他並み居る強敵を退け、間違いなく勝った。
GⅠ賞金、国内最高額を手に入れた。騎手としての栄誉、競走馬としての栄誉、そうした陶酔感が一夜明け二夜明けた今も、結果の認識を阻害しているのかもしれない。
認めようが認めまいが結果は出ている事だと、今日の仕事に頭を切り替える。
二歳GⅠで騎乗予定の馬の調教に、休み明けから栗東まで来ているのだ。移動の時間だけで数時間かかる物を無駄にしてはいけない。
「群馬トレーナー、おはようございます」
おぉ、おはよう。からなる世間話と業務連絡が済めばいよいよ騎乗予定の馬とトラックへ向かう。
坂路を一本気分良く走らせてくれとの依頼だった。変に抑えなくていいのならばテン乗りの馬でも大過なくこなせる。これは馬のトレーニングというよりは自分に馬の乗り味を確かめさせる時間なのだろうと文昭は認識した。
ありがたい話だった。厩舎所属の自分に期待馬の騎乗依頼をしてくれるのだから。そうした騎手はどうしても所属厩舎優先となりがちで、タイトルでぶつかった際に起こる乗り代わりで嫌われがちだ。それでも依頼が来たという事は、昨日のJCのおかげか、はたまた日頃の努力の賜物か。
いずれにせよ評価され、目をかけられているのだ。仕事で応えるのがプロフェッショナルだろう。
「ぶるるる……」
「どうどう。走るだけだよ」
引き運動から駈足、準備運動を済ませ走らせて見れば、迫力に若駒らしい頼りなさがあるものの、中々悪くない背中の感触だった。
馬場に出る際少し愚図ったが、以降は素直な手応えだった。
坂の途中に差し掛かり、このまま順調ならタイトルに手が届くのかもしれないな、そんな感想を抱いた、その時だった。
「――!」
「おっとっと」
馬が何かに驚いてラチ側によれた。幸い大きな動きではなかったので体勢を立て直すのにそれ程の苦労はなかった。
(意外と臆病な馬なのか。何に驚いたんだ?)
前後で坂路に入った馬はいなかったはずだ。前方にそれらしき影もない。
なら後ろか。そう思い意識を外に向けた時だった。眩い何かが馬場の真ん中を通り過ぎた。
「なん…………だ?」
馬場の真ん中を走るならそれはもう馬でしかないのだが、文昭には数瞬別の何かに見えた。
見覚えのある、ありすぎる後姿だった。府中で、阪神で、中山で、幾度となく競い合った目下最大のライバル、サタンマルッコその馬だった。
その背にはどういう訳だか勝負服を着た先輩ジョッキー横田の姿。最近美浦で見かけないと思ったら、こんなところで。
文昭が納得する間にその背は遠ざかる。
猛時計だ。軽く流しているとはいえ13秒強で走っているこちらと相対距離がグングン離れているのだから。
(すげーなサタン。この時期にこんなめちゃくちゃ時計出すのか)
彼の馬は有馬記念を最後に引退を表明している。ラストランとなる有馬記念に向けて乗り込んでいるというのも分からないでもないが、それにしては尋常ではない迫力があった。
坂の頂上を折れ眩い輝きは陰った。静かな朝靄の坂路が戻る。
股下の騎馬はどこかほっとしたように息をついたようだった。
坂を上りきって馬道への出口へ向かうと、調教の様子を見ていたのだろう、管理トレーナーが出迎えた。
「お疲れさん。どうだった、ウチの」
「お疲れ様です。そうですね、いい馬ですね、素直で」
「だろう? 今時珍しいくらいの優等生なんだよ。で、ぶっちゃけどうよ、
スティールと比べて」
「はは、止めてくださいよ。流石に二歳馬と比べたらうちのテツゾーが良いですよ。けど本当に、順調に行けばタイトルに手が届く実力は感じましたよ。これだけ操縦性が高い馬も珍しいです」
「そうだろうそうだろう」
たぶん受け答えを試されてたんだろうな、と文昭は思いつつ、へらりと愛想笑いを浮かべた。
そして馬場での出来事を思い出す。
「途中、あれサタンですかね? サタンに驚いてちょっとよれましたが、それ以外は気持ちよく走っていましたよ」
「あーマルッコなぁ。しまったな、そうだったよ。この時間はマルッコが走っているんだった」
「サタンが走ってると何か都合が悪いんですか?」
「うーん、まあ悪いっちゃ悪いんだよね。ほら、あの馬今結構殺気立ってるから、他の馬が怯えるんだよね。馬も何か感じ取ってるのか、あの馬がいる時間帯に坂路行こうとすると嫌がるんだ」
そう言われてみれば、文昭の脳裏に馬場に入る時少しごねたような仕草をしていた記憶が蘇った。
「あの馬目立ちますもんね」
「ボス気質があるからなぁあの馬。細原クンは美浦だから知らないかもしれないけど、普段はどの馬とも揉め事起こさないし、馬によっちゃ大人しくなるくらいなんだが、まあ、今は仕方ないのかな」
トレーナーが目を細めて坂路の頂上を見やる。つられて文昭も目をやれば、朝靄を纏ったかのように汗を蒸気させ、サタンマルッコが上流から坂を降りてきていた。
荒い呼気が耳に届く。示し合わせたように無言でそれを見送ってから、トレーナーが再び口を開いた。
「ずっとあの調子だからね」
「ずっとって言うと?」
「天皇賞の後からだよ。横田くんが勝負服で稽古つけるようになってから、毎日坂路三本はやってるよ。ありゃあ無事に回ってくればいいって調教じゃないね」
「三本って……まじか。横田さんよく乗るな……」
「そいじゃ、今日はありがとうね。週末頼むよ」
「あ、はい。よろしくお願いします」
下馬してリードを預ければ、群馬トレーナーはヒラヒラと手を振って厩舎へ下っていった。
「有馬記念、気をつけな。ありゃ普通じゃないぞ」
去り際残された一言に、文昭の朝靄は吹き飛ばされた。
戦いだ。
戦いが来るのだ。
アイツはやる気だ。
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師走は年の瀬。
冷え込む大気もいざ知らず、中山は赤く燃えていた。
決戦は有馬記念。
いつからか決まっていた。
それが彼らの流儀だ。
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