溶ける黄金(4)
まあ、さすがにここは。
そうした空気が競馬に携わるものの中にも流れていた。
二週前、サタンマルッコが最下位に終わった天皇賞秋。レース中の故障にも思われたそれは、終わってみれば馬体に異常はなく、折り合いを欠いた末での脱落だという。
無事に終わってほっと息を吐いた。
天皇賞秋の4コーナーを大逃げで走る馬には、競馬を見る者の多くに不吉な記憶があるのだから。
それにしても『まさか』の着外であり、可能性を指摘しつつも誰一人として本当には起こりえないと思い込んでいた出来事だった。
故に競馬ファンも、関係者も身構えていた。
『こういう時』に何かあるのが競馬というもの。
そしてそれを踏まえた上で『ここは』と思わずにいられない。
京都1600m、GⅠマイルチャンピオンシップ。
電光掲示板に表示される短距離戦にあるまじき1.2という数字。
馬番⑦の横に並ぶ名前はダイランドウ。そう、日本馬唯一ルドルフの呪いを打ち破ったGⅠ8勝のスーパーホース。その帰国後第一戦だった。
8月に海外で走った馬が9月下旬に国内で走る。かつては考えられなかったそうしたローテーションも、科学技術の進歩により着地検疫が格段に負担軽減された事と、管理調教技術の向上により適うようになった。
とはいえ実態としてそれを実行する者は少なかった。
一つに実力不足。二つにかかる労力に見合わぬ賞金から。
しかしどうだ。この、淀のパドックを静かに歩く漆黒のサラブレッドは。
海外の猛者を蹴散らした。言い訳の余地もなく圧倒的かつ完全に。
その上勝負付けの済んだ国内で負けるなんてことあるのだろうか?
1.2倍はむしろ『ついている』んじゃないか?
そう思わせる威容を湛えていた。
『グラッチェシモン。マイナス15キロです』
『数字ほど寂しい馬体には映りませんが、なんというか……小さくなりましたね』
『続いて⑦番ダイランドウ。マイナス4キロです』
『馬体減が気になりますが、この馬体重も国内で最後に走った有馬記念のものですからね。それほど影響のある数字ではないと思います。今日はパドックでも落ち着いていますし、この後本馬場入場でのテンションには注目しておきたいですね。
力を発揮できる状態にあると思います』
――……
《スタートしました。
真ん中ダイランドウ好スタート。1馬身2馬身ぐんぐん加速。
他一線のスタートとなりました。
⑫ミヤシタランゾ、②ゴウステルスあたりが二番手集団、その他中段で固まり坂の頂上へ向かいます。
やはりダイランドウ。軽快に飛ばして後続を引き離そうかという展開。
坂の下りにかかります。
中団の隊列に変化、外からガルフィング捲くっていこうという動き。
それに釣られてその後ろをロシアンブルーが追っていく。
先頭はやはりダイランドウ。
その差は5馬身はつけています。
さあ後続集団が一塊となってペースを上げにかかる!
坂が終わり間もなく直線、ただ一頭ダイランドウが先んじて直線に入る!
楽に逃がしてしまって後続の馬は届くのか!?
⑫ミヤシタランゾ、①ファナルティス集団から抜け出す!
しかしダイランドウ! 国分寺騎手が鞭を入れる! 一段ギアが上がった!
後続は差が詰められ……おっと一頭、凄い脚! 内の方、凄い脚だ!》
完全に勝ちパターンであるように思えた。
少なくとも乗っている国分寺は1ハロン先のゴール板を視界に収め、後背に追う物の気配がないことから、もう負けないだろうと体感的に考えていた。
ところが、である。
(あれ、ダイスケ、何を見ているんだ。前を見ろ、集中……ッ!?)
《内から一頭凄い脚! ゼッケン番号6番! おお、6番!
これはグラッチェシモンだ!? グラッチェシモンが飛んできた!
荒れ馬場の最内を強襲グラッチェシモン!
米国ダービー馬が襲い掛かる! 差が詰まっている!》
まさかの展開に悲鳴の上がるスタンド。その時関係者席でも悲鳴のような喝采を上げる男が居た。オーナーブリーダーの借金男、ハイランド&ディークファームの
主シモンと従業員兼甥っ子のサイモンだ。
「わるいなオォォォ~ディエンスゥ!
グラッチェのデビュー戦はなぁ~~~!
1600mなんだよぉぉぉ~~~~!!」
「いやダートだろうがおいグラッチェはどうなっちまってんだ叔父貴ィィィ!!!!!!!
なぜ一着に迫ろうとしているぅッ!!!!!!」
「俺にもわからぁぁぁん!
わからんが、わからんがとにかくいけえええぇぇグラッチェェェェェエエ!!」
《なんと! 差が詰まる! 2馬身! 1馬身!
ダイランドウ鞭が入る! しかしこれは……内の脚色がいい!
並んだ!
並んだ!
王者が、な――抜かれた!
グラッチェシモン出る! ダイランドウ応戦! しかし苦しいか!
グラッチェシモンだ!
グラッチェシモン!
これはどうやら
グラアアアアアアアアアッチェ、シモオオオオオオオォォォォンッ!》
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馬券やレースで勝った負けたは人間の都合。
ダイスケことダイランドウはレース後の疲れも無く、今日も馬房越しに厩舎の仲間に構われていた。
彼的には最後の方で一頭追いついてきた、くらいなものである。
「おわっ、止めろダイスケ。わかったから、わかったから……」
賑やかな昼下がりの須田厩舎。
隣の馬房の喧騒を気にすることもなく、横田は己が相棒に話しかけていた。
「悪かったよマルッコ。確かに俺はお前の邪魔をした。だけど理由くらいわかってくれたっていいだろう」
天皇賞秋。
レース後マルッコの身体に異常はなかった。
しかし一つの異常事態が発生していた。
マルッコが、横田を背に乗せなくなってしまったのだ。
それからというもの、横田は暇を見ては馬房を訪れご機嫌を伺っているのだが梨の礫。
ふんっと息を吐いて馬某の奥に姿を消す栗色の塊。
「あのままのペースで走れば無事じゃ済まないのは分かっていただろう。その上直線向いてステップ? 絶対にタダじゃ済まなかった。だいたいなぁいきなりステップなんか出されて乗ってる身にもなってみろ。落ちなかっただけよかっただろ」
栗色の塊が横田の言葉にピクリと止まる。言葉の内容を理解している訳ではなかろうが、ちょっとはすまないと思っているのかもしれない。
「マルッコ。お前はそこまでしなくても勝つ事は出来るはずだ。
もちろん勝てないときだってあるかもしれない。
だけど、勝負って言うのはそんなものだろう。
勝ったり、負けたり、それがあるべき姿なんだ。お前が何に責任を感じてそこまで勝とうとするのか、俺には分からないよ。
何がお前をそんなに駆り立てるんだ」
横田自身、馬に向かって「分かってくれ」だなんて、おかしな事を言っている自覚はあった。しかし、マルッコなら。このどこか捻くれたおかしな馬なら、自分の言葉を分かってくれるのではないか。そんな期待が横田に言葉を紡がせた。
答えはない。
当然だ。サラブレッドなのだから。
ススキのような尾が投げやりに振られる。
帰れと言われているようだった。
また来るよ。捨て台詞のように言い残してその場を去った。
宿はどうするか。考えていなかったな。
夕暮れ時のトレセンを歩きながら、横田は思索に耽っていた。
考えるのは、己が定めた最後の相棒、サタンマルッコのことである。
(マルッコ。お前の身体はもう、お前だけの物じゃない。
お前は勝ち残ったサラブレッドの責任として後世に血を残さなくてはいけない。
ダービーロードは誰が意図せずとも血に塗れているんだ。
負かされた馬達の屍によって、彼らに願いを託す人々の無念によって。
お前がやらなきゃ彼らが報われない。これは鎮魂でもある。
それが責任だ。
だから止めるんだ。
目の前の勝利を拾ったところで今更何の価値がある。
身を削り、命を削り、お前はそうやって競馬で勝ってきた。
それはお前がお前の存在価値を示すためだと俺は思っていた。
そうだ。お前は知っている。
価値を示せなかった場合、待つのは死であると。
だから、必死だった。そうじゃないのか。
もういいんだ。お前はもう十分に示した。
ダービーで、有馬で、大阪杯で、ロンシャンで。
倒してきただろう。同世代のライバル。年上の強豪。世界の王。
一体誰がお前を疑う。
負けていいんだ。
サタンマルッコの存在証明は終わったんだ。
1秒とか2秒とか、クビ差、ハナ差、そういう戦いはもう無意味なんだ。
なのに。
どうしてお前は走るんだ?
マルッコ。背中に乗ってる俺には見えないよ。
必死になってお前が目指す、何かの正体が。
身を削って、命を削って、全てを費やしたその勝利。
その時お前の身に何が残っているんだ?
何もかもを使い切った姿は、亡骸と呼ぶのではないのか?
マルッコ。もう止めるんだ。マルッコ……)
いつの間にか眠っていたらしい。目が覚めると知らない場所だった。
どこかの店のカウンター。グラスが散乱しているところを見るに、随分と飲み散らかしていた。思いの外嫌われたのが堪えているらしいと苦笑する。
深酒はしない性質だったはずだが。
ぼんやりと定まらぬ頭で宙を見つめる。
「終わりにするべきか……」
俺も、お前も。
自然とそんな言葉が口を出た。
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「本来騎手の立場からする発言ではありません。
ですが、マルッコは引退させるべきです」
須田厩舎の管理室に、むぅ、と小箕灘の唸りが響いた。
背中に跨った者だけが知りえる感覚。そして客観的に見た情報。それらを織り交ぜ、横田はマルッコを引退させるべきだと進言した。
本来騎手の立場から許されるような発言ではない。
それほど表情に苦渋の色が無い。やはりある程度以上考えていたのか。横田は小箕灘の顔色をそう読み取った。
クニオはハラハラした様子で見守っているが口を挟まない。言葉にしてしまったら、それが現実になってしまうかもしれないと、恐怖していた。
「横田さん。同じ懸念は春頃からしていました。去年の有馬もそうですが、やはりマルッコの走りは消耗が激しすぎる。いつか最悪の事態が起きるんじゃないか。そんな風に思いながら、どうしても終わりを口に出来なかった。
見たかったんですよ。マルッコがどこまで行くのか。なにをするのか……ふふ、調教師ってのは本当に度し難い職業ですわ」
「……それでは」
「もう十分勝ったでしょう。オーナーに、話をしてみましょう」
二人だけの車中、会話はなかった。沈黙が二人の苦悩を雄弁に語っていた。
九州につき、佐賀につき、羽賀につき、中川牧場につく頃には夜だった。
林に囲まれた土の道路を行けば、遠くに人家の明かりが見えてくる。入り口で出迎えた夫妻の姿もどこか沈痛な面持ちであった。
何度か訪れて、その度に陽気な宴会が開かれていた気がする。
応接間に通された時、横田はそんなことを思い出した。
「それで、マルッコを引退させるっていうお話でしたな」
切り出した貞晴に小箕灘が答える。
「以前から相談していましたように、今年に入ってから……特にドバイの後くらいから、また騎手の指示に従えなくなってきました。
それだけならばいいのですが、より一層、オーバーペースで走るようになってしまい……このままでは身体の負担が大きすぎます。早晩故障するでしょう。
そうなる前に、ご英断を賜りたく」
「むぅ……そうなんですか、横田さん」
「マルッコは……どういう訳だか、夏を過ぎてから一層勝ちたがっているように見えます。天皇賞でもそうでした。前まではあそこまで自分を追い込むような走りをしていませんでした。
次に走ればきっと同じ事をするでしょう。
そして次走るとすれば、それは天皇賞より距離の長いジャパンカップや有馬記念。
取り返しのつかないことになるのは目に見えています。
どうかこのまま引退させてやってはくれないでしょうか」
貞晴の唸り声だけが響き、時計の針が進む。
「あの子、小さい頃からよく夕日を見ていたんですよ」
矢庭に、ケイコが口を開いた。
話の筋に関係なさそうな内容に困惑しつつ、小箕灘も相槌を打った。
「夕日? そういえば、たまにそんな姿を見かけますね」
トレセンに居る間、夕方の時間はほぼ厩舎に居る時間だ。しかしマルッコは時々そんな時間に外へ出たがり、軽く散歩をするのだ。
その中で不自然に足を止める時間があったのが、小箕灘の記憶から呼び起こされた。そうか。あれは夕日を見ていたのか。
「小さい頃は小汚い毛色だったけれどね、ある程度大きくなってからは、それはそれは夕映えで毛並みが輝いて見えましてね。絵になる仔でしたよ、マルちゃんは。
それに邪魔すると怒ったでしょう、あのこ」
「は、はぁ。まあ確かに。噛み付かれたこともありますな」
「だから、あまりにもいつも見ているものだから、ある時私、聞いてみたんです。
どうしていつも夕日を眺めているのって。そしたら何て答えたと思います?」
「えっ、答えがあったんですか?」
「ええ。ひ~ん。ですって」
横田と小箕灘はずるりと椅子の上でバランスを崩した。
ケイコは飄々と続ける。
「たぶん、そうしたかったから、そうしていたんでしょう。
だから今度もそう。
あの子がそうしたいと思っているなら、そうさせて上げてくれませんか?」
「しかし夫人。
今度は本当に最悪の事態になる恐れもあります。
予後不良だけならばまだ良いでしょう。限界を超えた結果周囲を巻き込んでの事故が起こったらどうします。その時鞍上の横田さんは無事ではないでしょう。
それでもやらせますか?」
にっこりと、いっそ清々しくケイコは笑みを浮かべ答えた。
はい。
「走らせましょう。
けれどきっと大丈夫です。あの子は一人立ちした男ですもの。
自分のケツくらい自分で拭けますわ。ね、あなた」
「お、オォ? お……おう」
「横田さん。一番近い場所から、あの子の決意を見届けていただけませんか?」
――これが最後です。
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終わりの言葉をその責を持つ人間から口に出されると、身体が軋むような、心に圧し掛かるような、見えない重圧がかかったように感じる。
ケイコが終わりの言葉を放った瞬間、横田は確かに言霊の呪のようなもので縛り付けられた気がしたのだ。
あぁ、終わりか。
自ら切り出したにも関わらず去来する哀愁。
いつか来る終わりが現実的な形を帯びて迫ってくるだけのこと。
見てきたはずだ。わかっていたはずだ。
だからこそだ。
(……馬鹿みたいだよなぁ)
道行く人馬の奇異の目に晒されながら、時々は仲のいい人間にからかわれながら、それでも坂路入り口の脇、乗るべき馬も側に無く、横田はただ待っていた。
胸地に水色一本。袖章なしの緑服。それは中川牧場の勝負服だ。
調教から勝負服を着るような騎手はいない。だから奇異の目で見られていた。
これは覚悟の現れである。
やがてその馬は来た。
朝日に照らされキラキラと輝く金色のたてがみ、その身体。
額に浮かぶ白い丸。
踏みしめる大地、
立ち上る呼気すら美しく見せる当代最高の競走馬、サタンマルッコ。
その目が横田に気付いた。
「…………」
跨るクニオが困惑する中、人馬の視線がぶつかり合う。
「今度は邪魔しない」
一歩一歩、歩み寄る。
「お前の背中に人が乗る。それなら俺だ」
クニオが下馬して手綱を差し出す。
それを受け取り体側に立つ。
今だけは鋭い愛らしい眼差しが「言ってみろ」と語っている。
「勝つぞ」
秋空に嘶きが轟いた。
それでいい。
もう、始まっている。
次はまた土日とかになりそうです




