彼の夏、彼女の夏(4)
同日2話更新しています。
番外編で入るはずだった話なんですが没にした鉄剣陣営の文昭くんの話。
ナミが誰だか覚えている人はいるんだろうか
それはサタンマルッコが凱旋門賞に挑戦するため渡航していた昨年の夏の話。
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夏競馬。関東、関西の競馬場が休場中に催される、所謂地方の競馬だ。
阪神競馬場休場以降を主に指し、7月から8月にかけて行われるため、季節を冠して夏競馬と呼称される様になった。
地方の競馬というのは場所の話で、福島、札幌、函館といった首都圏から外れた地域で開催されるが、歴とした中央競馬だ。
三歳春をなんらかの理由で棒に振った馬が秋を目指して名乗りを上げるのもこの時期で、それらを上がり馬などと呼ぶ場合もある。菊花賞が"強い馬が勝つ"と言われるのは、こうした春に間に合わなかった実力馬達が揃い、世代の馬達が揃い踏むからといった側面も強い。
逆説的に順調に行っていた馬は暑い時期を避暑地で休養にあてるため、だいたいが放牧に出される事となる。
実は暑さに弱いテツゾーことスティールソードは殊更素早く比較的過ごしやすい北の牧場へ送られた。
今年の細原厩舎の管理馬はその殆どが実家に帰っており、残り少ない居残り組みもレースが近づけば現地に輸送となり不在だ。
つまるところ、週末の騎乗まで細原文昭はすることがなくなっていた。
「ちょうどいい。お前もちょっと休みにしろ」
そんなある日の細原厩舎。父、大吾が唐突にそう告げた。
「は? いいのかよ」
「週末に騎乗あるんだろ? それまで厩舎の方は手伝わなくていいぞ」
「まあそう言うなら休むけど。いいんだな?」
「ああいいぞ。ただ体重だけは気をつけろよ」
「ンなこと言われなくたって知ってるよ」
さて降って湧いた休日。それもこの業界的に珍しい連休。
何をしようかと考えるが、そういう時には取り立てて何も浮かばないのが世の常。
「ん?」
バイブレーターの振動がテーブル上でけたたましく響く。
持て余した時間をベッドの上でゴロゴロしながら過ごしていた文昭は、寝転んでいたベッドから起き上がり、机の上で振動を続ける携帯電話に手を伸ばした。
開くとディスプレイには"ナミ"の文字。
ナミ? と呟き、若干の空白の後、記憶の糸が繋がる。顔の知らないキャバ嬢の名前であったはずだ。
「え、どうしよ、なんかかかってきたんだけど……」
父曰く、天皇賞の祝勝会の二次会で知り合ったナミというキャバ嬢。音沙汰がなかったので日々記憶から薄れつつあった名だった。
コールが始まってから30秒程経過している。
取ろうか取るまいか。迷ったら行けの精神が通話ボタンを押させた。
「もしもし」
『あ、もしもーし。久しぶりフミフミ。あたし。覚えてる?』
「キャバ嬢のナミだよな」
『そうそう。えーってか覚え方、雑っ!』
いかにも水商売をしていそうな相槌の打ち方に、おお、本当にキャバ嬢なのかと文昭は謎の感動を覚えた。そして声にも全く覚えが無い。これは携帯端末越しであるからかもしれないと整理をつけていると、声が続いた。
『あのさ、私明日から久しぶりに連休なんだ。だからさ、フミフミ時間ある?』
「あーちょっと待って」
何が"だから"なのかさっぱり分からないが、一先ずスケジュールを確認する。即答するとなんだか格好悪い気がしての行動。たった今暇を持て余していたのだから考えるまでも無く暇なのであるが。
「一日空いてるぜ」
『ほんと!? やったー。じゃあさ遊ぼうよ。どこにする?』
「行く事決定かよ」
『え、きてくれないの?』
「いや行くけど」
『フミフミツンデレさんかよー。まあ行き先なんか当日の勢いで決めればいいよね。待ち合わせ場所と時間だけ決めとこっか。フミフミのお家ってあれだよね、お馬さんのとこだよね。あ、そうそうあの時ビックリしたよー。タクシーで送るっていうから近場なのかなって思ったら、なんかとんでもないところまで連れて行かれちゃってさー。あの後大変だったんだよー? それでね――』
喋る女に口を挟める程女性経験の無い文昭はその後も辛抱強く会話を続け、なんとか『翌日の午前10時に東京駅の改札内で待ち合わせ』という所まで聞き出した。
こんなんで明日やっていけるのだろうか。そもそもいく必要があるだろうか。いや、暇して家で腐ってるよりはいいだろう。というか酒に酔っていた過日の自分はどのように先ほどのナミなる女と会話していたのか。
それも含めて会ってみればいいだろう。
謎は深まるばかりだったが、迷ったら行けの精神で、文昭は明日の外出に備え、久しく袖を通していないよそ行きの服を箪笥から引っ張り出すのだった。
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美浦から東京は思われているより近い。電車で大体一時間強。これは東京内なら
中央線で東西を横断して到着する東京、八王子間とほぼ同じだ。
文昭は待ち合わせの場所に時間よりも早く到着した。競馬学校に入るより前、中学生の頃、友人が話していた「彼女が出来たら」という妄想シリーズの中で、待ち合わせの場所には時間より早めについておくのがよいとされていたのを覚えていたからだ。
文昭に女性と待ち合わせをするといった経験は無い。騎手になった人間の大半がそうであると文昭は願っているが、騎手の極朝方の生活時間と毎週末出張という多忙さは女性を遠ざける要素だと感じられるからだ。
(金だけは持ってるから、夜遊びして身持ちを崩す奴も多いんだがな)
自戒の意味を込めて心の内でそう呟く。
そして早めについたにも関わらず件のナミと思しき人物はいた。
水商売の人間なのだからきっと派手な髪色なのかと思いきや意外と黒髪。昇天しているような盛り髪が現れるかと構えていれば、片方に束ねて肩から垂らす無難な髪型。今の時分派手な盛り髪は珍しいと知るのはコレより後の事。
キャバ譲になるくらいだからきっと顔立ちに出るくらいキツイ性格に違いないと思い込んでみれば意外と垂れ目の大人しそうなおっとり系。騎手として大きめな体格の自分(165cm)と同じくらいの背丈。或いはヒールの高さの分自分よりは低いかもしれない。 襟元の広いTシャツから肌着の肩紐を覗かせ、下はショートデニムと脚部の露出が激しいものの、気温を鑑みた涼しげな服装。
なにより。
ぶらさげられたバッグを持つ両腕でよけいに強調された胸。
でかい。
どう考えてもでかい。FとかGとかいうレベルではないのではなかろうか。
キャバ譲といえばスレンダーなイメージしていた文昭はしばしフリーズし、その後想定とあまりにも異なる人相の人物であったため、待ち合わせ場所が正しいか三度ほど携帯端末で確認した。
本当に過日の己はどのような手法であの女性と交流を持ったのだろうか。酒の勢いとはかくも恐ろしい。
そんな動作でナミなる女も文昭に気付いたらしく、笑みを浮かべながらトコトコと歩み寄ってきた。
「こらーどこみてるんだ」
「お、おう。なんかすみません。乳見てたわ」
「もー。フミフミ、この前もそうだったけど直球すぎだよ」
「お、おう……いや全然覚えてないんだけどな……」
意外と、香水の匂いはしなかった。職業柄畜産の匂いに鼻が慣れているため、鼻が利いていないということもあるまい。
改めて直接呼びかけられるフミフミという呼称に強烈な違和感を覚えつつ、文昭は話を仕切りなおした。
「一応確認なんだけど、あんたがナミ?」
ナミと呼ばれた女は首肯しつつ、呆れた表情を浮かべた。
「そうだよ。本当に覚えてないの? 部屋まで肩貸して連れて行ってあげたのに」
「いや本当にすまん。マジで欠片も覚えてない」
「んもー。じゃあよく覚えてよね。あたしがナミだよ」
「はい。細原文昭です」
「あっは! フミフミそれ面白い! よし出発!」
どこにだよ、と声を出すより速く腕を取られ、引きずられるように歩き出す。どうやら向かっている先は改札らしい。
もう、全て任せてしまおう。なるようになれ。
出遅れた馬に跨っているような心境で文昭は匙を放り投げた。
連れられて降りた駅は地下鉄でいくつか先の場所だった。
「よし、適当にブラブラしよう」との言葉に消極的賛成を示し、小洒落た洋服ってこんな値段がするんだなーと半分関心しながら、お互い何を買うでもなく通りの店を冷やかす。
お互い妙な遠慮や沈黙も無く、不思議と会話は途切れなかった。或いは相手の会話術が上手なだけの可能性も高かったが、目にした物の感想や、それで刺激され記憶野から飛び出した物の話がつらつらと続いた。
一時間ほどそうしていただろうか。やはり移動を決定した時のような唐突さでナミは「よし、ちょっと喉乾いたから喫茶店行こう」と言い出すや否や靴先の方向を変え、ズンズン歩き出した。奔放な性格の放し飼いの犬みたいだと思った。
落ち着いた先の喫茶店。向かい合った二人席でカラカラと氷を掻き混ぜながら、会話の続きが始まる。
「フミフミ欲しいものとか何かある?」
「今更かよ……んーいや、これと言ってないな」
「あ、もしやお金ない? というかジョッキーってお金稼げるの?」
「サラリーマンよりは稼ぐんじゃないか。あんまそういうの気にしたことねーな」
「へー。あたし競馬とかギャンブルってよく知らないから、何か勝手にジョッキー
ってあんまりお金稼げないのかと思ってた。みんな痩せてるし」
「調教師見てみろよ、みんなデブだぞ。いや皆は言いすぎか……まあとにかく痩せてんのは職業柄だよ。俺の身長だと50キロ越えたらデブだ」
「えっぐ、モデルみたい。でもなんでー?」
「馬からしたら背中に乗せる人間は軽いほうがいいだろ」
「そうなの?」
「ああ。重たい奴が乗ると露骨に機嫌悪くなる馬とかいるしな。うちのテツゾーがそうだ。親父が乗ると鼻鳴らす」
「あっは、それ可愛い。フミフミのとこのお馬さんテツゾーって言うんだ」
「渾名だけどな。この間あんたんとこの店行った時もテツゾーのGⅠ祝勝会だったんだぜ。記憶に無いけど」
「あ、そういえばそんな事言ってた。そのジーワン? ってすごいの?」
「すげーぞ。俺も自慢したくて仕方が無い」
「ふっふっふ、その辺今日はたっぷり聞いてしんぜよう」
「よし聞け。まず競馬の獲得賞金がだな――……」
やはり職業柄か生来のものなのか、ナミは聞き上手だった。俺だけペラペラ喋っているうちに、ふと思い浮かんだ言葉が口をついた。
「そういやナミはなんでキャバ嬢やってんだ?」
「えーフツーそーゆーこときくー?」
「そっちだって散々なんでジョッキーになったんだとか訊いて来たじゃねーか」
「たしかにたしかに。まあ、別にそんな深い理由もないんだけどね」
話す言葉を考えたのか、若干の間が空いて、
「あたし実家が新潟なんだけど、あ、新潟でも田舎の方ね。実家の方ってさ、本当に人がいなくてさ。地元で就職して働いてたんだけど、なんか顔ぶれ変わらなくて飽きちゃって。人が一杯いるところに行ってみたかったんだ。だからこっちにきて、どうせだったら知らない人と色んなお話したかったから、じゃあキャバ嬢かなって」
「お前すげーな。勇敢すぎる」
「よほほ、ほめるなほめるな」
「どっちかというと呆れている」
「まー別になんでもよかったんだけどね! そろそろ飽きてきたから別の仕事しようかなと思ってるし」
「テキトーだな。仕事ってそんなんでいいのか?」
「いーのいーの。最悪実家帰ればなんとかなるし、こー見えてあたし結構貯金あるし」
「へー。キャバ嬢って金遣い荒いイメージだったわ」
「偏見だぞーあってるけど」
「じゃあ何か欲しい物でもあるのか?」
「欲しい物? いやー別にないかな? なんとなく使わなかったから貯まってった感じ。そーゆーフミフミだって稼いでるならなんか買いたいものとか欲しい物ないの?」
「欲しい物、欲しい物……ねえ」
欲しいものってなんだろうか。
元々物欲は薄い。今までで一番高い買い物は、たぶん原付自転車だ。
ナミに訊いておきながら、自分はどうして騎手をしているのだろうか。
騎手はサラリーマンなどとは比較にならない程年収が高い。年間勝ち鞍が殆ど無いような騎手でさえもだ。
しかしそれを目的として騎手になったかといわれればそうではない。
はじめは家がそうだったから。
そのうち乗りたいと思ったから。
じゃあ騎手になったその先は?
「勝ちたいんだろうな」
質問に対する答えとしてはズレた回答だと思う。
不思議とナミは茶化さず聞いていた。
「何が欲しいかって聞かれたら、俺は勝利が欲しいね。アイツに勝ちたい」
誰かに、何かに、掛け値無しの本気の勝負で。
競馬場を舞台とした命の削りあいの果て、勝利を掴みたい。
それがたまたま職業として存在して、仕事にすることが出来た。
こうして考えると俺って結構ツイてるな。
「アイツって強いの?」
「ああ、強いね。でもそれがいい」
「ふーん? よくわかんないや」
「人それぞれでいいんじゃねーの」
「そうかもね。じゃっ、次いこっかっ!」
来た時同様、唐突に立ち上がると伝票片手に腕を取って立たされる。
その拍子にふかふかの柔らかな塊が腕に押し付けられた。
こんなこと今日ずっとしてこなかったのにいきなりなんだ。
まあいっか。
人それぞれだ。そうしたかったから、そうしたんだろう。
顔に集まる熱を誤魔化すため、そんなもっともらしい事を考えて気をそらした。
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それから一年が経った。
今年も変わらず俺は騎手だし、テツゾーと一緒に戦っている。
宝塚はアイツにゃ勝ったがレースに負けた。
だが本番は秋だ。秋の府中GⅠこそがテツゾーにとって最も適正が高いレース。
格付けはまだまだ終わってないぞ、サタン。
「フミフミーご飯できてるよー」
「おーよ今行く」
秋が来る。勝負の秋が。
元々こういう話をかくために始めた閑話集だったのですが、もはや本編の続きになっているという。
夢見る風からここまでをそのうち本編の方に移動しようと考えています。




