夢見る風(4)
ドバイ、ねぇ。
冬場の廊下がこんな感じかもしれない。心なしかひんやり冷たい窓から雲間に臨む海と大地。高度1万メートルから見下ろすそれらは現実味より作り物めいた印象を横田に与えた。
あまり良い思いの出のある土地ではない。若気の至り、己が無謀な行いが引き起こした惨事の感触は未だ手と体に残されている。関係者の多くが業界を去って尚続く贖罪は、即ち彼が抱く罪の意識そのものであった。
だからこそだった。競技者として晩節を迎えた今、得難い機会を与えられた。そう感じている。きっと昔の相棒はそんなこと気にしないだろうし、今の相棒はこっちの事情なんて気にしてはくれないだろう。
だからこそ、この地で勝ち星を挙げたかった。
機体が降下体勢に入った事を機内放送が告げた。
身支度を整えながら、横田は決戦の地ドバイと来る戦いへ思いを馳せた。
「ひ~~~~~~ん」
「…………」
揺れているというよりは動いている。常時そのような感覚に苛まれる飛行機内は大半のサラブレッドにとって大変気味の悪い空間であるらしく、その大半に含まれるダイランドウは親友のたてがみをもぐもぐと咀嚼しながら、不安の嘶きを上げた。
大半の競走馬に含まれない、というより性分的に馬という種別が正しいかどうかも怪しい栗毛の魔王サタンマルッコは、狭い馬房で首だけ出して並ぶそんな僚馬を迷惑そうに耳で追い払っていた。
「お前はいつも余裕だなぁ、マルッコ」
「ぶる」
絵面だけ見れば仲睦まじいその様子を慣れない携帯端末で撮影しながら、厩務員のクニオは気もそぞろな様子で声をかけた。
あたぼーよ、とでも言いたげに喉を鳴らしたマルッコは、いい加減たてがみがベタベタで気持ちが悪くなったのか、絡みつくダイランドウを振りほどき彼から顔を遠ざけた。『ひ~ん』とダイランドウが甘えた声を出し首を伸ばしても、つーんと顔を逸らしてつれない態度だ。
あとでホームページで公開するから動画の撮影を忘れないように、とクニオは日本を発つ直前、ケイコから厳命されていた。だからこうして慣れない動画撮影に精を出しているのだが、撮影した動画の殆どが静止した馬の様子を淡々と映しているだけであり、それらの大半は後日没になるのだがそれはさておき。
「落ち着かない様子ではあるが、落ち着かないだけで済んでるな。妙な発汗もない、こりゃ楽でいい」
二頭の様子を見ながら、須田はあっけらかんと言った。
輸送というのは繊細な競走馬にとって一つの鬼門であり、言い換えれば遠地への適正能力とも呼べる。単独では嫌がる輸送も、帯同馬を付けることで安心することがある。国内輸送でも予定が合えば帯同していたが、須田は己が目論見通りマルッコがダイランドウの外付け精神安定剤としての効果を発揮していることにほくそ笑んだ。一つ問題があるとするなら、帯同馬とするには凱旋門賞馬は豪華すぎるためそうそう採れる手段ではないというところだが。
「フランスの時もこんな感じでしたよ。あの時は独りでしたけど、ほんといつもと変わらない感じで」
「得難い資質だわな。ダイスケも見習って欲しいもんだぜ」
「ダイスケくんもダイスケくんで、マルッコが居て落ち着く辺り視野が狭いんじゃないですか? それはそれで才能な気がします」
「まっ、なんでもいいさ。事実起きていることが全て。コミさんに預かった大事な馬だ、このままつつがなく現地入りと行こうじゃないか」
おっ、高度が下がってきたか? という言葉を追いかけるようにアナウンスが流れる。不安そうなフリをしたダイランドウがまた鳴いた。
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技術の進歩は検疫期間を短くしたが、それに副次して馬への負担も軽減された。余程の適正が無い限り海外遠征が行われなかったのも今は昔。元気にメイダン競馬場ダートコースを駆け回るマルッコの背に揺られながら、横田は時代の流れを感じていた。側にはダイランドウ。その背には主戦騎手である国分寺が跨っていた。先日の暴走を鑑みて併走はしない予定だったが馬房からマルッコが出される段階でダイランドウが酷く寂しがったため、こうして仲良く鞍を並べていた。
さすがに騎手を背にして暴走はしないのか、はたまた別の理由かは不明だが、二頭はのんびりと見慣れぬ景色を楽しむように軽い調子で駆けている。
関西でレースがある度厩舎に顔は出していた横田だったが、こうしてマルッコに跨るのは有馬記念での騎乗以来である。久しぶりの相棒の感触を確かめつつ、内心では調子の良さを感じず、やはりかとの思いを抱いていた。
(形容し難いけど、前肢の蹴りが軽い。支える体重が軽い所為か?)
有馬以降、疲労で馬体重が減っていたとは耳にしていた。競走馬の体重が減る事は考えられている以上に危険な兆候でもある。鍛え上げられた競走馬の肉体は全身が筋肉であり、それを非肉食経由の食事で補わねばならないからだ。疲労が濃いとまず食事の量が減る。体内で消化される飼葉の分の体重が減り、次いで筋肉が落ちる。この段階にまで進んでしまうと立て直すには数ヶ月を要する。俗に言う夏や冬に長期休養が必要とされるのは、こうした疲労による弊害を回避する、ないし立て直すための期間であるからだ。
(飼葉食いが戻ったのが二月の半ばで、そこから立て直したとするならこんな感じになるか。にしても――)
横田は側らのダイランドウに目を向けた。
漆黒の馬体のなんと艶やかなことか。空輸中マルッコにべったりだったという彼の馬は栗毛の相棒から生命力か何かを一緒に吸い取っているのではないかと見紛うばかりだ。
元々4歳時も見惚れる様な馬体をしていたが、むしろ今が全盛期なのではないかと思わせるような馬格と雰囲気。対戦する相手も強いと聞くが、隣を走っているだけでも感じるこの状態の良さからは負ける姿を全く想像出来ない。
「お前はどうだい。マルッコ」
ピクリと栗色の耳が跳ねる。何か言う訳でもない。そもそも馬が言葉を喋るはずもない。しかし横田にはその背が『愚問だな』とでも語っているように思えた。
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初めての空輸に緊張したのか、検疫時に計測した馬体重は大幅に減りこそしていたがそこから三日。軽い運動と食事で思った以上の回復を見せたラストラプソディーはきゅるきゅると鳴きながら指定の厩舎近くの角馬場で主戦騎手川澄を背にしながら、なじみの厩務員に連れられ引き運動をしていた。
珍しい運動内容はレースに向けての集中力を高める目的と、ストレスの発散のためだった。
「今日は随分ご機嫌だな、ラストくん」
効果はあったらしい。外国の見慣れない馬達と同じ空間で散歩をするのは彼にとって楽しい出来事であったらしく、先の薄黒い筆のような尻尾とたてがみをしきりに揺らしていた。
「そういえば川澄さん。オーナーもレースを見に来るそうですよ」
「あ、そうなんですか」
つまらない話題を耳にしたとの内心をおくびにも出さず、川澄は平熱で相槌を打った。
ご執心だった馬を金儲けの道具にしようとした男の話など、業腹以外の何物でもない。川澄は自分の物言いが理不尽かつ無意味である事は理解していた。しかしそう考えずにはいられない決断――戦いからの逃走を選択――をしようとしている人間なのだ。顔も見たくはないし願わくば別の人間に所有権を譲って欲しいとまで願っている。
いや、全ては結果を出せばいいだけの事だ。誰をも黙らせるだけの結果を……
(……いけないな)
いつの間にか彼の相棒が気遣わしげに川澄の様子を伺っていた。馬に心配させているようでは騎手失格だ。
「行こうか、ラストくん。ちょっとお散歩だ」
軽くトラックを一周。時間をかけて行われたその散歩の間、優しい相棒は終始ご機嫌だった。
(何かが変わるのだろうか。いや、変えなくてはいけない。俺が勝たせるんだ。俺が、俺が……)
安田が楽しみすぎる今日この頃
思い返せばダノンプレミアムが負けた怒りから書き始めた本作。
約一年経過して、感情も落ち着き、生活環境も変わりましたが、また同じ事をしようとしている私は賢くないんだろうなぁと思います
でも、私の一番はダノンプレミアムです




