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夢見る風(2)

いっぽうそのころ

 栗東トレーニングセンターにはここ数年で実しやかに囁かれている言葉がある。

『サタンが走っている時はすぐ分かる。ダイランドウと併せている時は厩舎にいても足音が聞こえる』

 それはサタンマルッコの特徴である強い蹄音と、調教と言うには毎回激しすぎる二頭の併せ馬を大げさに吹聴したものだ。しかし大げさにしてはいるものの、確かにそれらは事象の特徴を捉えており全く事実無根な場所から発生した言葉ではなかった。

 そしてどちらかと言えば、今日は厩舎まで足音が聞こえる日だった。



『ぬおおおおおマルッコォォォォもう止まれ! もう止まれ!』

『ダイスケェェェ! お部屋に帰ろう! お前の大好きないちごをやるから!』


 耳にかけたイヤホンをほんの少し遠ざけ、須田光圀は空を見上げた。春の嵐も何処へやら、桜の開花を促す麗らかな陽光が青ざめた天空より降り注ぐ。

 いい天気だなァ。

 吹き荒ぶ嵐を尻目に、須田は凪いだ心で呟いた。


 栗東トレーニングセンターCウッドチップコースを二頭の瞬馬が黄金と漆黒の馬体をびっしり併せて競り合っている。

 いつもの事ではある。気性の幼いところがあるダイランドウは僚友と共に遊べるとはしゃいでおり、対するマルッコはムキになって抜かれまいとしている。そうなると置いていかれまいとダイランドウもギアを上げ、それに抜かれまいとまたマルッコも、と際限なく加速していくのだ。

 いいか悪いかで言えば、まずい状況だ。ちょっとした気合付けのつもりで企画した両馬の併せ馬だった。もしも時間を遡る事が出来るのならば、『さすがに5歳ともなれば、いくらか落ち着いているだろうしもう平気だろう』等と楽観していた数時間前の己を亡き者にして成り代わるところだ。せめて主戦の横田が居るときにやるべきだった。


「おい恭介。そろそろ何とかしろ」


 インカム越しに馬上のダイランドウの主戦騎手、国分寺恭介へ指示とも呼べない指示を伝達するが、『もう無理っす!』と半泣きの悲鳴のような声が返されるだけだ。

 そりゃ、すぐには止まらないだろうよ、と思いつつ


「いい感じで収めるんだよ。ほら、頑張れよジョッキー。あと1……いや2周以内でなんとかしてくれ。座間君もなんとか試みてくれよ」

『こらーマルッコォ! 須田さんもこう言ってんだぞー! もう止まれー!』

『ダイスケぇ! 嬉しいのはわかったから今日はやめとけー!』


 須田は再び空を見上げた。冬から春への季節の変わり目、雨の多い時期だが今日はすっかり雲の無い青空。いつもこうなら馬場の心配をしないで済むのだがな。などと思考をはるか彼方に羽ばたかせた。


「うーん。こりゃドバイはダメだな」


 結局1600mのCWコースを3周。予定の1周を加えれば計4周の6400mを走り終えたところで、鼻差先着サタンマルッコにより両馬の大運動会は幕を閉じた。




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 類似した才能だがその実全く異なる個性。サタンマルッコとダイランドウに対する須田光圀の感想はそのようなものだ。

 どちらも共に稀代の逃げ馬。それも今後一生現れるかどうかという程の。その両翼を厩舎で預かっている身であることを誇ると共に、世代が違えばと歯がゆくも思う。


 距離別の成績と比例しないが、須田の見立てでは絶対能力はダイランドウに分があると感じていた。直接預かっているという贔屓目がないとは言わない。しかし、折に触れてその能力の差は現れていた。

 例えば、今の目で爆走の疲れからか舌を出してヘバっているサタンマルッコと、けろっとした顔で果物をねだっているダイランドウであるとか。

 同じ距離、同じ速度で走っていたはずの二頭にこれほどまでの疲労の差が出る。それはやはり根ざしている能力の差を表しているのではないか。


「……いっそのことステイヤーズステークスにでも出てみるか?」

「やめてくださいよ先生。これ以上変なことするのは」


 半目でぼやきを咎めたのは須田厩舎厩務員の大河原拓也だった。


「ン? おおガワラか。で、小箕灘さんは捉まったかよ」

「今日は小倉競馬場まで行ってるそうで、暫く時間は取れないそうです」

「そーか。早めに謝っておきたかったんだが、まあ仕方ねぇな」


 諸々事情があるとはいえ、預かっている馬に無理を強いてしまったのだ。しかも二度目。腰の低い小箕灘のことだ、『うちのマルッコがどうもすみません』と逆に恐縮するかもしれないが、通すべき筋というものがあった。


「んーしかしダイスケは元気だな。あんだけ走ったのに」

「そうですね。最近軽めの運動ばかりでしたから、元気がありあまっていたのかも」

「それならマルッコ君だってごろごろしていただろう」

「むしろその所為でマルッコは少し太いですよね」

「アー、なるほどな。そういうのもあったのかもしれねェな」

「乗ってたクニオと国分寺君の方が体重落ちてそうでしたけどね。疲れてげっそりしてましたよ」


 制御の利かない馬に跨るのは想像以上に体力を消耗する。水上ジェットスキーが動作量の割りにかかる負担が大きいことを想像すれば理解が早いかもしれない。


「次のレースに影響出ちゃいますかね」


 大河原はダイランドウの口にイチゴを放り込みながらぽつりと言った。ダイランドウは舌と上顎で器用にすり潰し、果汁を楽しんでいる。

 言わずもがな、体調面での話である。表面上疲れていなくとも、筋肉や骨、腱などに疲労は蓄積する。

 現在2月の下旬。ドバイの本番のレースは間もなく一ヵ月後に迫っていた。輸送や現地での調整期間を考えれば、出国前に疲労を残した状態は望ましくない。


「馬は走る生き物だ。馬が走って悪くなるわけねーだろ。案外なんとか――」

「ぶひーん……」


 隣の馬房から響くまるい栗色の弱りきった嘶き。


「……なるさ。なるといいな」

「せめて自信持って言って下さいよ!」



短めですが許してクレメンス

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