■サタンマルッコ
■サタンマルッコ
サタンマルッコとは、日本の現役競走馬である。
馬主及び生産は中川貞晴&中川牧場、調教師は小箕灘健。
愛称はマルッコ、丸いの、サタン、S氏。※要出典
本当はオーナーブリーダー中川氏の冠である「サダノ」マルッコに
なる予定だったが、字が汚すぎて「サタ`ノマルッコ」→「サタンマルッコ」と
誤解されて登録されてしまった。それなんてダイユウサク。
主な勝ち鞍
20N1年:日本ダービー(GⅠ)、菊花賞(GⅠ)、有馬記念(GⅠ)
20N2年:大阪杯(GⅠ)、フォワ賞(GⅡ)、凱旋門賞(GⅠ)、有馬記念(GⅠ)
■概要
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・誕生~入厩まで
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父ゴールドフリート、母ソラコイ、母父アイネスフウジンという血統。
渋いというか生産成績から言って振るわない血統と言えるだろう。
栗毛の暴君こと父ゴールドフリートは言わずと知れた三冠馬。
産駒の勝ち上がらなさでずっこけた諸兄は多いことだろう。実にフリートらしい
とも言えるが。
母ソラコイは羽賀競馬で走り42戦3勝のお馬さん。時期的にファストフレンドが
活躍した後に配合されたようだが、戦績からも分かるようにその期待には応えら
れなかったようである。オーナーはサタンマルッコと同じく中川氏である。
交配相手にゴールドフリートが選ばれた理由は、実はソラコイの血統表を見るこ
とで分かる。
ソラコイ
-父アイネスフウジン
-母ナガシマサード-父トウカイテイオー
-母ナガシマクイーン
と、このように日本ダービーを征した馬が父として連なっており、
トウカイテイオーの父シンボリルドルフから数えれば四代ダービー馬のゆいしょ
ただしきけっとうである。(ダ○スタかよ)
実のところ配合時、中川氏はそこまで考えていたわけではなく、
「三冠馬の子供が弱いわけがない」と割と適当に種をつけていたとか。
ちなみにサタンマルッコはゴールドフリートの三年目の産駒である。
要するに中川氏の種付け当時、ゴールドフリートの子供達はまだ走っていなかっ
た。故に後の大惨事を知らなかったのである……。
当初牧場の資金繰りに苦しんでいた中川氏はフリートの子供を売って経営の
建て直しを図っていた。生まれてきた仔馬は親譲りの尾花栗毛であったのだが、
期待に反してなんか貧乏臭かった。
フリート産駒の惨状と当馬の貧乏臭い見た目からセリ市でも値がつかず生産者差
し戻しとなる。この時つけられた値は70万。(その70万の値をつけたのはたまた
ま羽賀を訪れていたノース代表の吉沢であった。皮肉である※要出典)
見込んでいた資金も手に入らなかった中川氏は腹を括ったのか、後のサタンマル
ッコの競走生活を見届けた後牧場を畳む事を決意する。母ソラコイも幼駒の乳離
れが済むとそれを見届けるように老衰で死んでしまったため、幼き魔王は牧場最
後の競走馬となった。
同郷の馬が周囲にいなかったためかどこか人間を同族と思っているフシがあり、
人間に対して驚くほど警戒感を表さなかったという。
その所為かどうかは謎だが、生まれ故郷の中川牧場で暮らしていた頃のサタンマ
ルッコはかなりの悪童だった。
柵は飛び越えるものと言わんばかりに連日脱走。閂扉程度の開閉は朝飯前であり
塀が高くなろうが構わず飛び越え、そのうち面倒になったのか地面に穴を掘った
り柵の下を潜ったりとやりたい放題やっていたようだ。
それでもオーナーやオーナー夫人が呼べば必ず戻ってきたため、終いには誰も気
にしなくなっていったとか。殆ど放し飼いの犬と同じ扱いである。
おおらかというか、ぶっちゃけ適当過ぎる気がする。(ちなみにお上の目の届く
場所でこんなことをしたら行政指導だゾ☆)
そんな奔放な幼き魔王だが、馴致となると意外なほど大人しかったようでハミ
付けや鞍載せ等、通常どこかで馬は嫌がるところをスムーズにこなしていった。
しかしやっぱりそこは魔王様。
手綱には素直なのだが、なぜか鞭だけは嫌いらしく、打たれた瞬間鞍上を振るい
落とすやんちゃぶりを発揮。(生産の中川オーナー夫人の時だけは落とさなかっ
たらしい。どうも女性が跨っていると遠慮するのではないかと夫人は語ってる
※要出典)その悪癖はとうとう入厩まで治らず、後々問題になったりならなかっ
たりした。
サタンマルッコを語る上で欠かせない砂浜はこの頃から通っていたようで、冬は
別としてそれ以外の季節は毎日散歩と水泳(!?)を欠かさなかった。
優れた心肺機能・スタミナの源泉はこの時期養われたものだと推察される。
どうやら1歳くらいの頃から泳いでいたようで、地元の漁師や観光フェリーなど
で目撃証言や記録が残っている。本当はダメだぞ☆(※現在サタンマルッコ号は
羽賀市民証を発行されているため、どこでなにしようが法的な問題は無い。ない
ったらない)
そんなこんなで二年後、栄養状態がイマイチだったため牡馬にしては小柄な体躯、
420kgで羽賀競馬小箕灘厩舎へ預けられる。
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・デビューから中央殴り込みまで
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サタンマルッコを初めて見たときの調教師、小箕灘の感想は
「可愛い馬だな」だったという。強そうとか、風格があるだとか、そういう走り
に結びつくような印象は抱かなかったのだとか。
「よく名馬列伝とかで伝説に残るような出会いなんて言いますけど、ほんと、マ
ルッコにはそういうのなかったね。牡馬なのに牝馬みたいな身体つきで、どちら
かといえば頼りないと思った」(※サラブれっ!NN年10月号)
賢くて気性の穏やかな馬だなと思っていた小箕灘だったが、鞭を打った瞬間その
評価は逆転。とんでもない馬を押し付けられたと感じたらしい。
後年まで続く悪癖だが、サタンマルッコはあまりにも気分屋でありながらどこか
身体の造り方を知っている馬であった。そのため調教計画などというものが建て
られず、その点で小箕灘は苦労していたようだ。
調教もまともに走らないサタンマルッコを一時は諦めたこともあったという。
(デビューまでの間に小箕灘は二度、中川に「この馬は競走馬にはなれない」と
伝えていた。尚、その度に崖っぷちだった中川オーナーに泣きつかれ、渋々連れ
て帰っている)
それでも漕ぎ着けたデビュー戦。
大方の予想に反してサタンマルッコは走った。
二着に大差をつけての圧勝。
まぐれか夢か信じられない関係者。
続く二戦目も大差で圧勝。
勢いづいた小箕灘は試金石として交流戦に出走させる。
これがかの有名な逸走事件である。
レースはダート1800mで行われたのだが、羽賀競馬場は一周800mの小さな
競馬場で、1800m戦のコースは正面スタンドを二度通過する。
後年まで続く抜群のスタートから騎手の制止を無視していつものように大逃げを
打っていたサタンマルッコは何を思ったか一周目のゴール板通過後大外へ馬体を
流していき(鞍上の高橋曰く、どうもレースが終わったと思っていたらしい)内
埒沿いを走る後続馬の姿を捉えるや再加速。親父のフリートを思わせる二度差し
で3馬身ちぎって勝利した。
このレースを見て小箕灘はサタンマルッコの実力を確信したという。
ここから腰の引けたオーナーを説得し中央へ殴りこむこととなる。
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・3歳戦
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同い年の世代が皐月賞トライアルで騒いでいるのを尻目に、サタンマルッコは様
々な事情により地方獲得賞金がリセットされ、3月開催の阪神未勝利1600m戦
に出走する。
この未勝利戦は中々に運命的な一戦で、後に何度も死闘を繰り広げるスティールソ
ードとの初対戦であり、主戦の横田友則が後の愛馬と出会ったレースでもあり、解
説の竹中がその日初めて見たサタンマルッコのダービー勝利を確信した日でもある。
(竹中の話は後付の可能性が高いが少なくとも後述の青葉賞時点ではその旨発言し
ている)
レースの結果はサタンマルッコの逃げ切り勝ち。イレ込んだ暴走馬がそのまま逃げ
切ってしまったようなレースっぷりで、見ていた観客を唖然とさせた。
逃げ方にも色々と種類があるが当時のサタンマルッコの逃げは傍目から見れば明ら
かに破滅逃げの類であり、ましてやレース中のかかりっぷりから大成できる馬では
ないと見られていた。
尚、当時から逃げ馬好きの界隈は当然注目しており、熱い視線を送っていた。
勿論第二のツインターボとしてである。オマイラ好きね。俺も好きだぜ。
続く500万下もどちゃくそ引っかかりながら暴走して圧勝。これにてダービートライ
アルへの参加がほぼ確実となり、ダービーへの道が現実味を帯び始める。
次走を青葉賞へ定めた陣営はここで非情の決断をする。鞍上の乗り換えである。
これまでは羽賀時代から主戦を勤めていた高橋だったが、それを経験豊富な横田友
則に変更したのだ。
地方の若手が手にした大きなチャンスを関東のベテラン横田が奪った形であったが
この乗り代わりについて主戦の高橋はweb番組にて
「あの頃は毎日がプレッシャーでした。
毎日跨っていれば(マルッコの)恐ろしい才能はヘタクソの自分にも分かった。
こいつはとんでもない馬になる。
それをダメにしてしまうかもしれないのがたまらなく恐ろしかった」
と語っていることから、自らの精神状態を鑑みてサタンマルッコの主戦を降りたも
のと思われる。これをどう感じるかは判断の分かれるところであるが、発言から推
察するに、少なくとも青葉賞時点ではまともな騎乗は出来なかったであろうことか
ら僚友の一生を案じた勇気有る決断であったと思いたい。
そして鞍上に横田を迎えてのGⅡ青葉賞。
ここで予定外の敗北により背水の陣で挑んだ格上挑戦の500万下を突破してきた
スティールソードとの再戦となる。
遅めのデビュー戦こそ訳のわからん馬()のせいで躓いたものの、その実力は明ら
かに他馬とは一線を画すものであるとの評価と、当日パドックでの抜群の気配から
スティールソードが一番人気となる。
このレースは後のサタンマルッコのレースと比較してもかなり性質が違う物であっ
た。
いつも通りの抜群のスタートから位置を下げ、なんと馬込みに入ってしまったでは
ないか。そのまま4コーナーまでじっと我慢し、直線で馬群が割れた瞬間に抜け出
すも時既に遅く、ダービー出走権を逃しかねない危険な着差で入線。
大混戦の写真判定の末、サタンマルッコは二着。
こうして地方出身の競走馬が日本ダービーへの出走権を手に入れたのだった。
鞍上の横田曰く陣営との相談の末、青葉賞ではサタンマルッコの持つ脚(末脚の勢
いやタイム)を測ったらしい。
「あの当時マルッコはどこか騎手を舐めていた。勝つためには俺と一緒に走らなき
ゃいけない(今までみたいなのではダメ)って事を分かってもらう必要があって、
マルッコは頭がいいから、教えればそういうの分かってくれると思ったんだよね」
と横田は語っている。
なんとかダービー出走権を得たサタンマルッコだったが、世間での評価はまだまだ
低く、ダービーではペースメーカー的な見方こそされていたが、もしかしたらの穴
馬としか考えられていなかった。
何故ならば戦う相手が朝日杯FSと皐月賞をどちらもレコード勝利した絶対強者スト
ームライダーであり、そちらが戦前より絶対的本命視されていたのだ。
最早レースはストームライダーがどのように勝つか、気の早い人は菊花賞までの距
離延長を話題にしていた程である。
そして、そういう時に仕事をするのがサタンマルッコという馬だった……。
ストームライダー、スティールソード、ラストラプソディーら有力馬が軒並み内枠
であるのに対し、まるでオーナーの不運が乗り移ったかのように8枠出走のサタン
マルッコ。この時点で猛烈な不利を背負っていた。
サタンマルッコの逃げには秘密がある。
それは抜群のスタートだ。
鞍上横田をして「テンの3F、特に1Fでこの馬に勝てる馬は存在しない」
と断言させるほどのものであり、スタート直後1Fを切り取ってみればそれは
分かりやすい。
通常どれだけ速くとも12秒後半はかかる所をサタンマルッコは11秒代、
つまり最高速度に近い速さで駆け抜ける。
他馬との差は1秒近くあり、スタート直後の200mだけで5~6馬身の差が開く
こととなる。
そしてダービーでもそのようになった。
抜群のスタートから大外枠にも拘らず先頭に立ち、そのまま後続を引き連れ1コー
ナーへ侵入。向こう正面から3コーナーまではラップを刻み(12.2秒フラット、
寒気のするような正確さだ)一時は2番手の馬まで15馬身近くの差を開いていた。
4コーナーでは後続に詰め寄られるも、迫られた2馬身から先へ近づけさせない。
圧巻であり人の目に焼きついたのは残り200mを切ったところだろう。
追っているのは差し損ねるなど考えられない絶対王者ストームライダー。
しかしその差はまるで時が止まったかのように縮まらないまま。
実況も「どういうことだ!?」と絶叫を上げ、観衆が何がなにやら分からぬうちに
競馬場中の叫びを一身に受けながらサタンマルッコと横田友則はゴール板を過ぎた。
地方出身馬による日本ダービー制覇の瞬間だった。
そのうちここに加筆するかもしれません




