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終わらない夢(10)

 夏の盛り、あるいはバカンス真っ盛り。

 流石に巨額の金が動く競馬に盾突いて無事には済まなかったようだ。

 例の環境保護団体についてである。元々競馬団体とは仲が悪かったが今回の騒動で決定的に決裂したらしい。余計な横槍で発生した事故故、分が悪いのは彼らも理解しているらしく(理解する脳があったことにも驚くが)普段はやかましい大口も形を潜めている。


 幸いといってよいのか、セルクルはその後馬体に問題は見られず、着順についても一位入選していたため誰に憚ることのない勝者として名乗りを上げることができた。

 セルクルが勝ったから良いものの、負けていたらどうなっていたのかと意地の悪い想像をする輩は多い。まあ、俺もしなかったのかと聞かれればちょっとはしたのだが、何にせよセルクルが負けるなんてことはありえないことだ。あれだけの不利を受けておいて差し切った。最早世界中どこを探したって敵はいないと言っていい。


 セルゲイ厩舎も普段と比較して人気がない。交代でバカンスに出ているからだとは思うが、時折聞こえてくる馬の嘶き以外全く静かだ。いつも人の声のするこの厩舎にしては珍しいと感じる。


「やあセルクル。今日も元気そうだ……というか何をしているんだ?」


 セルクルは馬房の中で床に背中を擦り付け転げまわっていた。犬がたまにやっているのを見かけるが、馬房でやっている奴は初めて見た。

 俺に気付いたのかピタリと動きが止まり、視線が合う。


「ぶひ」


 いやぶひではなく。

 俺の戸惑いを気にすることなくセルクルはガジガジと馬房の扉をかじり始めた。外へ行きたいというアピールだ。


 一夏越せば次は凱旋門賞。その次が日本で、その後BC。そうしてお前は伝説になって競走生活を終えるんだ。ついでに俺も。まっ、俺はまだまだ遊ぶつもりだが、お前は牧場に帰ってミーシャとのんびり暮らすといいさ。


「ぶる?」

「ははは、わかったわかった。よし、走りに行こう。今日はまだだろ?」

「!」


 前脚でぴょんぴょん跳ねる。おかしな奴だ。犬みたいだ。




----



 試金石はパリ大賞典だったが、本格的に通用するかの最終確認は前回のキングジョージだった。トラブルはあったものの結果はまず満足できる内容だといえるだろう。距離延長に懐疑的だった大衆ですらも、あれだけの不利から勝ち上がった光景を目の当たりにしてようやく認めたのか、今日――凱旋門賞を勝つのはネジュセルクルで間違いない。などと散々騒がれていた。


「セルクル~、今日もゴール前で待ってるからね!」

「ひ~んぶるる」


 すっかりお馴染みのやり取りで関係者の肩の力も抜けている。最も責任のある俺はと言えば端から本調子だ。全く緊張していないわけではなく、集中力を残した状態。そもそも負けるはずの無い戦いであり、結果が悪いのならそれは俺が悪いと同義だ。しかし簡単なことだ、いつものように走るだけ。それでいい。セルクルは最高の状態だ。


「今日も頼むぞセルクル、クリストフ!」


 激励するセルゲイさんの手を借りてセルクルに跨り、パドックへ向かう。

 華々しきは麗しのロンシャン。良く言えば伝統的な、悪く言うと古臭かったパドックも今は昔の話。改修の折にこちらも手が加えられ、視界の通った明るく広いスペースに生まれ変わっている。


「ククク、さっそく見ているぞ、アラブの金満共が」


 セルゲイさんの忍び笑いに苦笑で応え、ちょうど反対側を周回するムーランホークを見やる。

 またしても、と言って良い間柄だ。負かされ続けているこちらを意識するのは当然だと思うのだが、何もパドックからやらなくても良いのではないか。


「今日も勝たせてもらいましょう」

「ああ。しっかり頼むぞ」


 勿論だとも。さあ行こうセルクル。今日こそミーシャにいい所を見せるんだろ?

 楽しい楽しい遊びの時間だ。





 そして、ゲートが開いた。






 今日はどう走ろうか。セルクルの脚を知っていればペースが遅くなるといったことはないだろう。

 ほら、案の定内の方では馬が込み合って先頭争いが激しい。ロンシャンの2400mは第一コーナーまでが長い。坂の手前までに位置取りを決めなくてはならないためああして忙しない競馬をしているのだろう。

 付き合う必要は無い。先頭集団が出来た以上、俺たちは後ろで進めよう。俺達は間に合うが、俺達以外は間に合わない、そんな位置で。


 ムーランホークは前のほう。僚馬を風除けに4番手くらいを進んでいる。意識をする必要は有るが固執する必要は無い。結局最後には追いついて、そこからは馬の力次第なのだから。


 レースは坂の頂上。遠く、眼下に見下ろす形でロンシャンのメインスタンドが望める。ここから先はほぼ下りだ。

 隊列が形成されている。先頭集団の隊列は二列に落ち着いたようだ。セルクルからは10馬身ほど。ペースを刻んで追走している俺達も言う程遅いペースではない。


 コーナーに差し掛かり、中、後団は少し横に広がっている。その集団のしんがりに俺たちは位置するため前に壁がある状態だ。

 だがそれほど心配していない。フォルスストレートから先、直線へ入る段階で外から全部抜き去る予定だからだ。内でごちゃごちゃとふさがれるより、多少ロスしてでも安全に外から回ったほうが確実だ。その程度の不利で負けるような馬でないことは戦績が証明しているし、何より俺自身が確信している。


 コーナーが終わりフォルスストレート。勝負どころではないが勝負どころ。そういう曖昧さこそが偽りの直線と呼ばれる所以だろう。

 先頭のほうで動きは無い。中団は慌しくなっている。風除けのラビットが本命の進路確保に動きを切り替えた所為だろう。内の馬はもう直線まで流れに身を任せるしかないが、外の馬には選択の余地がある。


 そんなやり合いを後ろで眺めながら、俺たちはこっそり外へ持ち出し始める。

 まだフォルスストレートの中盤、最終コーナーまでは時間があるが、直前で動こうとすると前を走る見張り共に外から被せられる危険性がある。セオリーとは異なるが速度の乗らない今のうちに位置を上げておく事が必要だ。

 何人かに気付かれたがもう遅い。そこから態々外に膨らめば進路妨害、よしんば一頭が塞ぎに来たところで内に切れ込んで行けばいいだけのことだ。結局彼らは進路を変えずそのまま進むことを決めたようだ。


 セルクルから熱が伝わってくる。いよいよ勝負どころだと理解しているのだろう。

 今日はどこから行くんだ。合図はまだか。そんな声が聞こえてくるようだ。


 内柵に角度が生まれ道が曲がる。


 鞭を抜く。

 初めてセルクルに跨ったシャンティイの森。あの時、鞭を打とうとした俺はお前に振り落とされたな。

 今なら解る。お前はそんな物がなくても、どこで走るべきかを知っていたんだ。誇り高く賢いお前は、そんな人間の愚かな行いを許せなかったんだ。


 あの時は、許してもらえなかった。


 そうだとも。だけどセルクル、お前は勝つために必要な時、それを俺に委ねてくれた。2000ギニーで、キングジョージで、そして今。

 鞭は、俺だけに許されたセルクルとの絆だ。


 外へ持ち出す。傾斜のきつくなったコーナー、内に他馬を見ながら外を回る。


 馬の尻が消え、視界が開ける。

 ロンシャンの青い芝、遠くにスタンド、さざなみとも思える遠いざわめき。


 直線を向いた。

 さあ、今日も俺たちが一番だ。

 今日は二度も鞭は要らない。


 行くぞ。


 何万と繰り返した動作。

 セルクルに乗ってからは少なくなった、いつもの動き。


 鞭を合図にセルクルの身体が沈み込む。

 さあ、ここから加速がくる、備えて――











 ――……











 え?


「――ッ!」


 なんだ今、ごりって、セルクルの、どこだ背中?

 いやそれより姿勢が、いやもちなおした。違う、そんなことより降りなくてはいやなぜ降りる? 走らないと、違う、俺が跨っていてはセルクルが辛いんだから。

 いや何故辛い? どうしてだ。そんなばかな。

 深い芝生のせいか、足裏の感覚がおかしい。


「セルクル。セルクル、どうした、大丈夫だよな?」


 どうしてお前がそんな痛そうな顔をしている。それじゃまるで、怪我をしたみたいじゃないか。そうか、この前ぶつけられた鳥のところが痛いんだよな、そうだよな。


 見間違いだ。馬の後脚はあんな風にだらんと垂れ下ったりしない。するわけがない。


「セルクル、どうした、セルクル、セルクル!」


 脚がこんなにだらんと、いやもう脚ですらない、腰?

 脚? いや腰? 腰……? 腰……!


 夏のあの日。どうして馬房でセルクルは転がっていた?


 腰を

 腰を気にしていたからではないのか?


 あの時だれがほかに見ていた。

 俺だ。俺が見ていた。俺しか見ていなかった。

 俺が!


「セ、セルクル。セルクル……セルクル!」


 セルクルの身体が地面に倒れる。

 視界が滲んでよく見えない。

 拭って拭って、ようやく見えたセルクルの顔はどこか諦めたような、静かなものだった。

 ペロリと顔を舐められた。ほら、お前は大丈夫だ。


 なのにどうしてお前がそんな顔をしている。お前はもっと、もっとそう元気で、やかましくてわがままで、お前がどうして、お前が!


「クリストフ! 離れろ! 医者が来た!」


 いつの間にか俺達の周りに人が集まっていた。

 なんだこいつらは。ここは競馬場だぞ。部外者が立ち入っていい場所じゃない。

 ここは俺達、馬と騎手の場所だ。


「医者とはなんだ! セルクルが、セルクルが! セルクル……セルクル! お前等、セルクルになにをするつもりだ! 離れろ! 触るな!」

「落ち着けクリストフ! お前もホースマンなら覚悟を決めろ!」

「覚悟とは何だ! 俺は、セルクルで、友達だ!」

「セルクルはもうダメだと言っているんだ!」

「ダメなものかセルクルは最高だ!」

「セルクルを見ろ! 背中の途中から骨が折れている! もう助からない! これ以上は苦しめるだけだ!」

「いみ、いいいいみいみのわからないこと言うな! セルクルは平気だ! な、セルクル大丈夫だ! 俺が守ってやる、また走ろう、セルクル! 平気だ! こんなの、へいきだ!」


 頬に熱。なんだ? 視界がぐるぐると回る。

 空。背中に芝生の感触。

 顔が痛い。殴られたのか?


「運んでくれ。処置は任せる」


 セルゲイさんだ。そうかさっきまでセルゲイさんと話していたのか。

 どうしてセルゲイさんがここにいる。


 身体を起こす。セルクルがいない。

 セルクルは何かよくわからない機材で身体を吊られ、馬運車へ運ばれているところだった。


 ああ。


 ああ……。


 分かっていた。

 馬の身体があんなことになったら、もう安楽死させるしかない。

 俺さえ気付いていれば、あの時俺がセルクルの異常に気付いてさえいれば、

 俺が鞭を打たなければ、俺が、俺が……


「あ………………うああああああああああああああああああ!」

















 暗闇の中、俺は走っていた。

 何かに乗っている。

 隣に何かが並びかけてきた。

 それは騎手の乗った競走馬だった。

 馬は、見た事がある気がする。騎手は、俺だ。

 俺は随分馬を追っているようだった。

 馬が失速していく。レースが終わったようだ。

 だがおかしなことに、馬の足先がない。


「お前に壊された」


 声がした。

 振り返ると馬の群れが俺を見つめていた。

 静かな瞳で、咎めるように、俺を見つめていた。


「お前が殺した」


 何の話だと思った。

 そういえば俺は何に乗っているんだろうか。


 ――……


 形容し難い、おぞましい音がした。


「お前が殺した」


 それは、身体が半分から折れた、額に白丸を戴いた馬で――……






「うわああああああッ!」


 目が覚めた。

 いや、俺は眠っていたのか?

 夢を見ていた気がする。おぞましい夢だ。


 辺りは薄暗い。ここはどこだ。

 俺の家だ。俺の部屋。

 そうだ。何にも怖いことなんか無い。

 俺はただ家で寝ていて、部屋に居るだけだ。

 何も無かった。


「お前が殺した」


 声がした。

 ベッドサイドの文机、その影からだ。

 影は伸びてやがて形を作る。見知った形だ。馬になった。


「お前に壊された!」


 影の馬は、事もあろうに俺に襲い掛かってきた。

 慌てて飛び出す。扉を開けて廊下に出れば、今度は群れがいた。


「お前が壊した!」


 群れは俺を目にした瞬間、頭を下げて突進してきた。

 訳もわからず逃げ出す。喉から情けない声が漏れた。

 逃げなくては。逃げなくては。俺は死にたくない。


「クリストフ、何をしているんだ!」


 誰かが何か言った気がする。だが関係ない。俺は逃げる。逃げなくては。

 逃げよう。でもどこへ逃げよう。

 そうだ、あいつ等は影から出てきた。明るい場所ならきっとあいつ等は出てこれないはずだ。

 外へ飛び出した。月明かりで一瞬目が眩むが闇雲に突き進む。

 だがダメだった。道には街灯があって奴等はその影から俺を殺しにやってくる。


 辿りついたのは広い空き地だった。

 そこには何も無い。遠く別の建物の影から奴等が俺を睨みつけてくるが、ここまではどうやったって届かない。俺は逃げ切った。


 ふいに辺りが暗くなった。

 反射的に空を見上げる。月に、雲がかかっていた。


「あ、ああぁぁぁ……」


 月。白い満月。白い丸。

 雲は形を変え、やがてセルクルになった。

 セルクルは俺を静かな眼差しで見つめている。

 セルクル、君まで、君までその目で俺を見るのか!


「お前が殺した」


 月が隠れたその隙に、影から生まれた馬達が俺の足元に這いよっていた。

 その形は、かつて俺がその他大勢と切り捨ててきた馬の姿によく似ていた。

 助けを呼ぶ間もなく俺の肉体は影に埋め尽くされ、意識諸共黒く塗り潰された。







 



 暗闇の中、俺は走っていた。

 何かに乗っている。


 そしてこれが夢だと俺は分かっていた。


 隣に何かが並びかけてきた。

 それは騎手の乗った競走馬だった。

 馬は、見た事がある気がする。騎手は、俺だ。


 そうだ、これは夢だ。


 俺は随分馬を追っているようだった。

 馬が失速していく。レースが終わったようだ。

 だがおかしなことに、馬の足先がない。


「お前に壊された」


 声がして振り返ると馬の群れが俺を見つめていた。

 静かな瞳で、咎めるように、俺を見つめていた。


 彼らにも彼らの願いがあった。

 切り捨ててきた願いが俺を見つめていた。


「お前が殺した」


 ――そして形容し難い、おぞましい音が鳴る。


「お前が殺した」


 セルクルが横たわっている。身体を半分に別たれて。

 瞳は濁り、肉体に輝きはない。

 佇む俺の手には血に濡れた鞭が握られている。


「俺が殺した」


 違う。いや、違わない。でも違う。

 そこで目が覚める。

 目が覚めても奴等はそこに居る。

 物陰に、引き出しの中に、指の間に、瞼の裏に。


「お前が壊した」


 今は夢の中なのか、それとも現実なのか。

 夢が終わらない。終わってくれない。


 誰か助けてくれ。

 誰か、この悪夢から俺を、何か、誰か。


 セルクル。

 セルクル、助けてくれ。

 夢が、終わらないんだ。



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― 新着の感想 ―
[一言] インガオホーって奴ですね。
2023/02/11 11:11 退会済み
管理
[良い点] ええぇぇ終わらない夢ってそっちぃぃぃ…………
[良い点] あの馬が怪我するのは仕方のない事だと言っていたクリストフが、読んでいて思わず泣いてしまいました。
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