終わらない夢
風、大地、熱い呼吸と息づく鼓動。
ターフの上は不自由であり、同時に自由でもある。
眼前を走る馬の尻。もうあと1馬身といったところだが、さてさてこちらの相棒も中々厳しい。道中楽をしたとはいえ、直線に入ってから追い通しだ。そろそろ一杯といった体だが、俺はコイツがまだ走れる事を体感的に分かっている。
コイツは最後の最後、苦しくなると手を抜く悪癖がある。そりゃイキモノとしては正しいが競走馬としては不正解だ。搾り出してもらう。そうする事が俺の仕事であり、ゆくゆくはコイツのためでもある。
手を抜く理由もわかるんだけどね。だけど、それは俺には関係ない。
鞭を打った。二度、三度。
思ったとおり相棒は加速し、前を行く馬に並びかけ、そして追い抜いた所がゴールだった。
ほらね、出来るだろう。
まぁ君はもう二度とターフを走れなくなるかもしれないが。
「何故鞭を打ったクリストフ!」
左前肢の骨折だそうだ。その程度で済んだのならいいんじゃないかと思うのだが、目の前の調教師はそう思わなかったらしい。片づけをしていた俺のところに顔を赤くして怒鳴り込んできた。
「何故って、勝つためですよ。そのために俺を呼んだのでしょう?」
「確かに勝てと言ったが、ここまでやれとは言っていない! お前ならあそこで追えばあの馬がどうなるかぐらいわかっていただろう!」
「そりゃ故障するだろうなとは思いましたけど、それが?」
「それが? 言うに事欠いてそれがとはなんだ!」
「勝てと言ったのは貴方でしょう。そして俺の契約書には成功報酬が明記されている。なら勝つために鞭を打つことはとても自然な事だと思いますが。むしろ貴方は俺によく仕事をしてくれたと褒めるべきでしょう」
まあまあの馬だったが、それでも国際GⅠを勝つには物足りない実力だった。俺でなければ今日のレースで勝てなかったと言い切ってもいい。だというのに、勝ち方にまで拘るつもりなのだろうか。
「あの程度の実力でブラックタイプになれたんです。繁殖に上がれるしもう十分でしょう」
「きさ……ッ! もういいッ! 今後騎乗依頼はなくなると思え!」
来た時同様、怒りながら去っていった。
彼の気持ちは分からないでもない。大事に育てた馬が一頭故障で引退するのだから。
でも生きているし、種を残す権利だって得た。あの程度の馬が手にする栄誉としては十分満足出来る物であると思う。
まあそりゃ俺だって好き好んで可愛い競走馬を痛めつけてやりたいと考えているわけじゃない。愛でるだけなら際限なく甘やかすだろうし、そんな愛馬が怪我をしたら心を痛めるだろう。
たださっきの馬は競走馬で、俺は仕事を受けた騎手だった、それだけの話だ。お互いが勝つために必要な事をしていった結果が故障なら、それは受け入れるべきだ。
ま、短い付き合いだったがそれなりに楽しかったよ相棒。
俺の得た感想などその程度のものだ。
電話が鳴った。スケジュールを任せている代理人からだった。
「やあマリアージュ。仕事の話かい」
『ええそうよクリストフ。貴方いまどこにいるの?』
「パリの市内だよ」
『ああ、まだ近くに居たのね。次の騎乗が決まったわ。詳細は追って伝えるけれど、英国の馬ね』
「クルーモアの馬かな」※誤字にあらず
『ええ、そうよ』
「ふーん。分かったよ。続報を待ってる」
英国ね。フランス人として含みのある国だが、騎手をやっている以上避けて通れない国でもある。いけすかない英国人の馬に乗るのは癪だが、新しい出会いには期待かな。
ともあれ少し時間が空いたか。折角近くに居るのだし、シャンティイにでも顔を出してみようかな。
町の公園の雰囲気がそれぞれ違うように、調教所も地方によって趣が違う。
シャンティイだと森が深い。あくまで俺の印象でしかないが、鼻腔を突く新緑の香りを感じるとシャンティイに来たという実感が強まる。
しかし、来たのはいいが目的もない。とりあえず厩舎の方に顔を出してみるとしよう。狭いようで広いようで狭いこの業界だ。知ってる顔の一人や二人いるだろう。
「おっとと」
歩いているうちにぼんやりしていたらしい。横切る馬にたたらを踏む。
黒い馬だ。すれ違いざま立ち止まり首を傾げるような仕草をして、ふいに目が合う。可愛い顔した子だ。まあるい星でよけいにそう見える。また歩き出した。
違和感。その正体はすぐにつかめた。
「こらこらこらこら」
鞍の乗ったその馬には誰も乗っていない。つまりは空馬だった。慌ててぶら下っている手綱を掴み引き寄せる。
なんだよもー、と鬱陶しそうにこちらを見る空馬。ご機嫌のところ悪いけどね、見かけた以上はこっちも捕まえないといけないんだよ。
にしてもどこの馬鹿だ。とりあえずどこの厩舎かしらないが、人の居る場所につれていくか。
手綱をとって引くと、逆らわずに従ってくれた。というより元から一人で帰るつもりだったのかもしれない。変な馬だ。いや、放馬した馬は案外勝手に厩舎まで帰ってくることもあるか。まあどっちだっていい。
「あれ、クリストフ。久しぶり……ってお前どうしてセルクル連れてるんだ?」
この馬は意外と有名だったらしく、その辺を歩いている人間に尋ねたところすぐに所属が知れた。この男は……どこぞの厩舎の厩務員だったと思うが名前が思い出せない。まあ名前を覚えていないということは大した奴じゃないだろう。
セルゲイ厩舎のネジュセルクル。白い丸って物凄い投げやりな名前だと感じるが、オーナーサイドはよくそれで納得したものだ。
「セルゲイさんとこの馬だったのか。独りで歩いていたから捕まえたんだよ」
「ああ。なるほどな、ありがとうよ。というかバウニィの奴、今日も落とされたのか……」
俺達が話して居る間も、ネジュセルクルはそ知らぬ顔でぼけーっとどこかを見つめている。
なんだ? 何を見ている? 馬道?
閃く物があった。
「ねえ。この馬乗ってみてもいい?」
「えっ、やめておいたほうがいいぞ。普段は大人しいんだが、走らせると突然落としにくるから」
「ふーん? まあでもいいじゃない。何だか馬も走りたそうにしているし、逃げた場所から乗ってきたって体でさ。よっと」
「あ、おい!」
背中に跨ると馬の方が「お?」と俺を少し気にしたが別段暴れるような素振りは見せなかった。一目見たときから感じていたが、気性が悪い馬であるようには思えない。
手綱をしごくと素直に歩き出す。
ほらね。思ったとおりじゃないか。
というかなんだこの馬。全然揺れないぞ。絨毯の上でも歩いているのか?
徒歩から速度を上げていってキャンターになる頃にはこの馬の持つ特異性が理解できた。足のクッションが異常に柔らかい。蹄の先から球節、前肢の全てとそれを受け止める腿、連結する胴と背中。
(なんだこれ……)
イヌ科の動物に跨るとこんな感触なのかもしれない。そんな全く未知の乗り味。
もっと本気で走らせたらどうなるんだろう。
丁度良く馬道が長い直線に入った。
俺は極自然に鞭を抜き、慣れた動作で振るおうとした。
「ヒンッ!」
「うわっ!?」
突然だった。馬体が左右に捻られ、反動で宙に放り出される。
青空、新緑、ウッドチップの茶色――なんとか足を地面に向けて着地。手綱は意地でも放さなかった。
「ひんっ! ぶっひひひんっ!」
「どうどう! どーうどう! わかった悪かった。俺が悪かったから」
「ヒヒヒヒヒーン! ヒィィィン! ぶひッ!」
なんだ。突然どうしたんだ。直前までご機嫌だったじゃないか。
走りたかったんだろう? だから気持ちよく全力で走らせようとしていたじゃないか。俺が鞭を――
「……あっ、これか?」
憤然と鼻をならす彼の前に鞭をちらつかせてやる。すると露骨に耳を絞って不機嫌になった。正解らしい。
「わかった。わかった。もうこれは使わない」
鞭を馬道の外に投げる。
こう言ってはおかしく思われそうだが、彼は俺の行為を意外そうな顔をして見ていた。俺だってなんでこんな事をしているのかよくわかってない。
両手を広げ何も持っていないことを見せる。
「ほら。何も持ってない。あんなもの無くてもお前は走れる。そうなんだろう?
だからもう一度俺を乗せろ。そうすればここでまた走っていられる」
ふんっ、と鼻息一つ。何となく了承の意であるように感じられたので、試しに鐙に足をかけてみる。特に暴れる様子も無い。そのまま飛び乗る。
乗ってみて気付いたがこの馬は背中に飛び乗っても少しもたたらを踏まないな。
まあとにかく、また跨ることができた。
「ひんっ」
早く行こうぜとでも言うかのように彼が嘶く。
いいとも。出発だ。
徐々に上がる速度と共に流れる景色。
俺は風のように最高速度で人馬一体となって駆け抜けるのも好きだが、この徐々に加速していき一つと一つの生き物の境界線が溶け合い混ざり合う時間も好きだ。
乗馬においての究極は1+1を1にすることだ。これまで誰に伝えても反発されたが、俺はこの意見を曲げるつもりがない。何故ならば真実で正しいからだ。
だってほら。
速度が上がる。
鐙を通して俺の足が彼の足になる。
手綱を通して俺の意志が彼の意志になる。
相性バッチリだ。背中と膝の呼吸が揃う。
「ははっ」
繋がれば、こんなにも楽しい。これが嘘な筈がない。
従わせるとか、操るとか、そんな事言ってる奴等はてんで的外れだ。
馬も人も、歩み寄ればこんなにも楽しい。
背中がうずいている。もっと走らせろと伝えている。
ほら行くといい。意志の疎通に鞭なんかいらない。一緒になって伝えればいいのだから。
ぐんと彼の馬体が沈む。それを俺は不思議と察知できる。
風だ。
風圧で身体がのけぞりかける。慌てて縮こまって頭頂部から背中に風を流す。
何か物凄い力が股の間から背骨を伝って駆け抜けていく。
鋭角に狭まった視野の端を猛烈な勢いで緑や茶の線が吹き飛んでいく。
ようやく前を向いた。あんなに遠く長かった馬道の終点がもうそこまで来ているではないか。
「はは……っ」
シルキーサリヴァンかセクレタリアトかよ。
なんだこいつは。加速の勢いも尋常ではなかったが、速度の乗った今はもう殆ど飛んでるみたいな勢いで走ってる。まるでグライダーだ。
凄い。こんなの初めてだ。一体何がどうなっているのかさっぱりわからない。
ただ一つ分かることは、この彼は今、とてつもない速度で走っているということだけだ。
「イヤッハァァァッ!」
最高だ。これだ。この馬だ。
この馬こそが俺の半身なんだ。
小さな嘶き。それはご機嫌な彼の同意であるように思えた。
意外とクソ野郎だった若クリストフ君(23)
ネジュセルクル君は青鹿毛の馬として描写していますが、なんか本編中では鹿毛だったようなきがしています。
きにすんな! いーっていーって!