やっぱり人の肉は、ミディアムレア
「あのぅ、あのぅ、もし、もしよろしければなんですけれども……ごはんを恵んではくれませんか?」
人間とはつまるところ、『骨』である。
それが、十年ほど、火葬場で働いている俺の結論だ。
十年間、さながらルーチンワークのように行っている仕事内容を、ざっくりと分かりやすく、誤解を招きやすいように説明すると、死体を焼くのが、俺の仕事だ。
残された人がしくしくと泣いていたり、案外気丈に、控室の方で食事を和気藹々と楽しんでいる中、俺はただ、死体を焼いて骨にする。
火葬することには、もちろん意味がある。
墓に入れるとき、最近の墓は小さいから、少しでもサイズを小さくするため、骨だけにするため。
釈迦が火葬だったから。
火葬することで、魂が天に昇るためだとか。
しかし、例えば火葬をすることで、魂が天に昇るのならば――容器である肉体は燃やしたところで全く問題がないとするのであれば。どうして残った骨をあんなに大事にするのだろうか。
魂が天に昇ったのだとすれば、骨だって、肉と同じように、焼かれ砕かれてもなんら問題のない存在と言えるのではないだろうか。
しかし、人はどういうわけか、骨を大切にする。
つまり、魂は天に昇ってなんかいなくて、骨こそが魂であり、人間なのではないだろうか。
そんなくだらないことを考えてしまうぐらいには、この仕事は結構暇である。
知らないやつの死と、知らないやつの生の証拠をひたすら眺めるだけなのだ。退屈で退屈で、俺自身が死にそうになってしまう。
だからこそ、わざわざ火葬場に来てまで、こんなことを言ってくる彼女に、少しばかり興味を持ったのは事実だった。
午後に焼く予定の仏さんが到着し、遺族の方々は事故による渋滞に巻き込まれているらしく、未だ到着する気配はない。なので、待っている間、昼飯のサンドイッチを食べながらぼーっとしていると、彼女は入り口からふらふらっとやってきた。
初めは、送れていた遺族が来たのかと思ったが、喪服じゃあなかったし、なんだか様子が変だ。足元がおぼつかないのか、あっちへふらふら、こっちへふらふらと歩いている。
おいおい、やめてくれよ。不審者なんて面倒くさい。
と、思いながらも、あれがなにか問題を起こしたら俺の責任にもなる。
腰を持ち上げて、不審者のもとへと向かう。
「あの、すみません。埋火葬許可証の方をお持ちでしょうか」
「お腹が空いたんですぅぅ……」
「……はい?」
一応、もしかしたら遺族とか関係者である可能性があるため質問の形を取ってみたけれども、彼女から返ってきたのは、質問とはまるで関係のないことだった。
がばり。と俺の顔を見上げてきたその顔は、ひどくやつれていた。
白髪混じりの黒髪を肩甲骨あたりまで伸ばし、肌は病的なまでに真っ白。目は淀んでいて、濁っていて、汚れている。唇からは潤いというものが全て抜き取られていて、さながら砂漠のようだ。か細い、骨の上に皮膚が引っかかっているだけみたいな腕を伸ばして、俺の腕を掴みにこようとする。俺は思わず後ずさった。
「ふべら」
手が空をかいた彼女は、バランスを崩して、顔からアスファルトの地面につっこんだ。ガツン、と痛い音がして、ピクリとも動かない。
もしかして、死んでしまったりしてないよな……?
心配になって、彼女に向けて手を伸ばそうとすると、ぐわば。と彼女は顔を持ち上げた。
顔には大小様々な石ころがザクザクと突き刺さっていて、眼球の黒目にも、深々と突き刺さっている。
彼女はそれをどかすことなく、唐突に泣きだした。
口ではわんわんと泣いてはいるが、目からは涙は一切こぼれていない。
「ひどいですよぅ、腕を引っ込めるなんてぇ! いじわるにもほどがあります!」
「え、あ。そっち?」
「そっちじゃあなかったらどっちなんですかぁ!」
「いや、こけたときの痛みとか」
眼球に深々と刺さっている石ころへの驚きとか。
眼球に痛覚ってないんだっけ?
そんなはずないと思うんだが。
彼女はきょとんとした表情を浮かべたあと、自分の目に石ころが突き刺さっていることに、ようやく気がついたようで、恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべてから、眼球に指を伸ばして石ころを引っこ抜いた。
「えへへ、お恥ずかしいところをお見せしました……ん? いえ、見苦しいところを。でしょうか?」
どっちでも変わらないだろう。とは思ったものの、確かに、石ころが目に突き刺さっている姿はお恥ずかしいところというより、見苦しいところであるかもしれない。
見てていい気分のものではないし、見ていたいものではない。見て痛いものではあるけど。
「それで、あの」
右眼球に穴を空けたまま、彼女は俺に問う。
「私、すごくすごぉく、お腹が空いているんですぅ……。だから、その、もしよろしかったら、なにか恵んではくれないでしょうか……?」
現代日本において、乞食に出くわす。全くないとは言いずらいが、かなり珍しいイベントであるとは思う。
彼女は両手を合わせて、濁った――死んだ魚のような目で俺の顔を覗き込んでくる。
どうやら、俺がサンドイッチを食べているところを見ているようだった。
さて、どうしたものか。
追い払ってもいいのだが、彼女の顔は、不健康を擬人化したかのようなものではあるが、実は、好みではあるのだ。
正直な話、追い払うよりも、これをきっかけに、お近づきになりたい。とも思っているぐらいだ。
それに、まあ。いい暇つぶしにもなる。
「いいよ。あっちにある。取ってこようか?」
「ひゃっほー。あっりがとーございまーす!」
彼女は俺が指さした方向に向かって走りだした。
走れるんだ。その体躯で……。
なんだろう、どっかで見たことあるなあ。あの走り方。
ああ、そうだ。ゲームでよく見る、走るゾンビだ。
そんなことを考えながら、見えなくなった彼女を追いかけるようにして、控室の方に戻ってみると、サンドイッチはまだそこにあった。
はて。彼女はここにたどり着けていないのだろうか。やっぱり、案内したりした方が良かったかな。と、首を傾げていると、壁の向こうから車の揺れる音が聞こえてきた。
壁の向こうには五、六台ぐらい止まれる駐車場があって、霊柩車が止まっている。遺族が着いたのだろうか。それとも、彼女が道に迷って、そっちの方に行ってしまったのだろうか。
もしも後者であったならば、霊柩車の運転手や遺族に、彼女の姿が見られることになる。不審者を放置したあげく、あまつさえ、招き入れたことがバレたら、良くて減給。悪くて仕事を辞めさせられる羽目になるかもしれない。
それは困る。非常に困る。
俺は急いで控室を出ると、駐車場の方へと向かった。
幸いにも、遺族はまだ到着しておらず、しかも、霊柩車の運転手も、トイレかなにかに行っているようで、この場に居合わせることはなかった。
いや、本当に。幸いにも。不幸中の幸いにも。
霊柩車はガタガタと揺れていた。
まるで、霊柩車の場所だけ地震が起きているかのようだった。
バックドアが開いている。そこから仏さんが入っている木製の棺が見える。棺のフタが開かれていて、誰かが棺の中に上半身を突っ込んでいた。
バタバタと両足を振っている。棺がなんとか入るぐらいの狭い車内だからか、足が床や壁や天井にぶつかっている。あれが、車が揺れている原因だろう。
病的なまでに――生気が感じられないぐらい真っ白で、少し力を入れたらぽっきり折れてしまいそうなぐらい細い脚に、俺は見覚えがあった。
「おい……」
俺は恐る恐る声をかける。
ピタリ。とバタバタと動いていた足は動きを止めて、さながらシーソーのように体は動いて、棺の中に突っ込まれていた上半身が姿を現した。
もっちゃもっちゃと、膨らんだ頬がなにかを咀嚼しているように動いている。
口は、人の足首を咥えていた。断面は食いちぎられたようになっていて、骨と変色した肉が見える。
「ああ」
彼女は口に咥えていた足首を棺の中に落としながら言う。
噛んですり潰されたコンビーフみたいなのか、口からポロポロとこぼれていた。
「やっぱり生じゃああんまり美味しくないですねぇ。お腹が空いていたので、文句は言いませんが。あの、もしよろしかったら、これ、そこで焼いてきてくれませんか? 焼き加減はそうですねぇ、ミディアムレアで」
彼女は棺の中を探って取り出した足首を僕に手渡してきた。
くっきりと歯形のついた、骨の飛び出した足首だ。
よく分からない状況に頭が追いつかず、俺は。
「火葬炉はオーブンじゃあねえんだけどなぁ」
とよく分からない返しをしてしまった。
***
到着した遺族は、気丈か打ちひしがれているかで言えば、後者のほうだった。
送迎の車から出てきた時点から、既にうつむいて、涙を流していた。
仏さんが生前、どれだけ愛されていたのかが伝わってきて、その仏さんを燃やそうとしている俺がまるでさながら、悪者のように思えてくるほどだった。
しかし、実際のところ。
まるででも、さながらでもなく。
俺は悪者なのである。
なにせ、仏さんを燃やすことで、証拠隠滅しようとしているのだから。
「最後の挨拶を」
棺の扉が、顔だけが見えるぐらいの大きさで良かった。と安堵する日が来るとは思わなかった。下手くそが食べ終えた焼き魚みたいに、骨と食い散らかされた肉だけになっている下半身を、遺族たちに見せるわけにはいかない。きっと卒倒してしまうだろうし、俺は仕事をクビになってしまうだろうから。
――まあ、この状態を見せて問題のない相手なんて、いるとは思えないんだけどな。
いるとすれば、それはかなりの嫌われ者だ。
棺を火葬炉の中に入れる。
火がついたのを確認して、遺族を控室に案内する。控室には既に簡易な食事が用意されていた。が、恐らくは手をつけられることもないだろう。
通常、火葬には1〜2時間ほどかかるが、下半身が食べられている今の状態なら、半分の時間もかからないかもしれない。
「ふぅ……」
「おやおやため息ですか。それはいけませんねぇ。火葬場はただでさえ陰気なところなのに、もっと陰気臭くなってしまいますよぅ。接客業だっていう自覚はあるのですかぁ?」
「ニコニコ笑っている火葬場って方が気色悪いだろ」
「あなたの家族を笑顔で送ります、ニコニコ火葬!」
「こういうところは陰気な方がいいんだよ、泣けるから」
「感動映画なんですね、火葬場は」
「人間は泣いていい雰囲気がないと泣けないからな。泣くために雰囲気を求める」
火葬は接客業だという認識はさすがになかったが、なんでもかんでも陽気にすればいいってものではない。陰気の方が正しく、人を救うことだって、幾らでもある。
控室の前にある廊下に、彼女は体育座りしていた。
かくん。と首を傾げている。首に力のない、死者の傾き。
窪んだ眼窩に、穴の空いた右目。白髪交じりの短い黒髪。肌は病的にまで白い。四肢はぽっきり折れそうなぐらいか細い。
まるで幽霊のようで、陰気な雰囲気の火葬場にはよく似合っている。
しかし彼女は、幽霊なんかではない。
同じ死者であることは変わりないけれども、彼女は。
「私のこと、バラしたりしなかったんですねぇ」
「ゾンビがあなたの家族を食べてしまって下半身がないんですが、よろしいでしょうか。なんて言ったら、俺の精神を疑われるだろう」
我ながら現実味のないセリフだと思った。
まだ『食人族なのか?』の方が現実味がある。
どちらも正気が疑われるような質問であるのは、確かだ。
しかし彼女は、俺のセリフに対して、にまりと笑った。
目に穴は空いているが、死んではいるが、蠱惑的な笑み。
生きているときはさぞ、人気者だっただろう。
「どうやってゾンビになったのか。とかは聞かないでくださいね。私だって、分からないのですから。ゾンビパウダーではないことは確かですけど? 私は自分の意思でここにいるのですから。もしかしたら、自分の意思でここにいる。と思わされている刺客、だったりするかもしれませんけどねぇ」
「火葬場の従業員に、わざわざそんな刺客を送り込むやつなんているかよ」
「実は退役したスーパー軍人だったりしません? 洋画みたいな」
「現実的な一般人だ」
しかしなるほど。ゾンビ。ゾンビ。
そう考えてみると、彼女の見た目は、確かに死体らしく、ゾンビらしい。
「ゾンビってことは死んでるんだよな?」
「はい。死んでるけど動いてるんです」
「なんで死んだんだ?」
「老衰ですねぇ。天寿を全うしての大団円でした」
「そんな若い見てくれのお婆ちゃんなんていてたまるか」
「いやですねぇ。若くて綺麗だなんてそんな本当のことをー」
「言ってねえよ」
「思ってはいるんですか?」
「…………」
「ほほー?」
顔を覗き込んできた彼女に、俺は無言で睨んで返す。
すると、なにを勘違いしたのか、彼女はからかうように、口に手を添えて、ニマニマと笑いだした。
「私の体も、死んでもまだ魅力的なようでなによりです。これでも私、生きているときは引く手あまたの逆ハーレムでしたから」
「そりゃあ重畳。それで、そんな人生勝ち組がどうして死んだんだ?」
「殺されたんですよ」
彼女は特に気負った感じもなく、まるで、寝癖を見せびらかすような手軽さで、自分の枯れた木枝のような首を、アゴをあげて、見せてきた。
そこには荒縄の痕がくっきりと残っていた。
索条痕。と言うのだっけか。
目を凝らしてみると、索条痕は二本あり、その間は赤く滲んでいて、水泡ができている。
索条痕の周りには、首の肉を削ぐ勢いで首に巻かれた荒縄を外そうともがいた痕がある。
吉川線と言って、自殺と他殺を見分ける要素の一つだ。
自分の首を指さしている彼女の爪には、自身のものと思われる肉が挟まっていた。
「犯人は見知らぬ男性です。覚えのない男性です。多分きっと、道端で顔を見合わせたことも、すれ違ったことも、なに一つなかったはずです。家に勝手に上がり込んでいた犯人を見たとき、私はそう直感しました」
それぐらい、天然的で究極的な、通り魔だったらしい。
家に帰ると、家族は皆首を絞められて殺されていて、荒縄を片手に持った通り魔が部屋にいたらしい。
唐突のことに、身に覚えがなさすぎる事態に呆然とする彼女に、通り魔はまるでプレゼントにリボンをかけるように、首に荒縄を回したという。
「そして、一瞬目の前が真っ暗になったと思ったら、私はゾンビになっていました」
一緒に殺された家族は、ゾンビになることはなかった。その違いの理由は分からない。
「そんなわけで私は、その通り魔を探してるんです。あの通り魔は言いました。ひとりは寂しいと。家族みんな殺したのは、多分、寂しくないようにだと思います」
「通り魔なぁ……」
あいにく、テレビというものをあんまり見ない俺は、そんな事件があったことすら、知らなかった。試しにスマホで検索してみると、一家全員が絞殺されたニュースが見つかった。そのニュースによると、五人暮らしの吉川家の両親、長女、長男が首を絞められ殺されており、警察は行方不明になっている次女、吉川澄を探している。とのことだった。
恐らく、この吉川澄。というのが、ここにいる彼女のことだろう。
まさか警察も、犯人は災害的通り魔であり、次女も殺されているが、ゾンビとなりそこらをうろついている。だなんて推理することは出来なかったようだ。
「お前、ニュースになってるぞ」
「おお。本当ですねぇ。ああ、でも名前を出すのはやめて欲しいですねぇ。私、この名前あんまり好きじゃあないんですよ。ちょっとおばあちゃん臭くないですか? スミって」
彼女は本当に嫌そうに、自分の名前を言った。
お婆ちゃんになっても使える名前として考えれば、中々良い名付けではあると思う。
まあ、彼女がお婆ちゃんになることは、結局なかったわけなのだが。
「で、澄」
「話聞いてました? あと今さっき出会ったばかりの女子を名前で呼ぶだなんて中々強気ですねぇ」
嫌いじゃあないですよ。と澄はおかしそうに笑った。
「お前は、その通り魔を探しているのか?」
「どうしてそう思ったんですか?」
「なんとなくだ。それに、家族と自分を殺されて、その相手に復讐をできるチャンスに恵まれた。人間なら、復讐を考えない方がおかしい」
「私は平和主義者ですよ。人を殺す人間に対して、殺しに向かったりはしません」
けど。そうですね。と澄は言う。
「もしも通り魔を見つけることができたら、警察に通報するぐらいはしようとは思ってますよ」
澄の目は死体らしく混濁している。だから、その目がどんな目をしているのか、どういう感情の目なのかはいまいちよく分からないのだが、今のその目は、嘘をついている目だということだけは、よく分かった。
「……なあ、澄――」
「ん。なにか良い匂いがしませんか?」
「――ゾンビにも嗅覚があるんだな」
「このキュートな鼻が目に入りませんかねぇ」
「いまにも取れそうな、腐りかけの鼻なら」
「しっかり防腐処理してますからー!」
「してるのか……」
「とっても香ばしい匂いがしますね。焼き肉のタレが欲しくなる匂いです」
澄は匂いのする方を指さした。そこには、火葬炉と、もくもくと煙があがる煙突が見えた。
***
澄は、火葬場に住み着くようになった。
火葬場のどこら辺で生活をしているのかは分からない。
本人に聞いても、プライバシーの問題なのでノーコメントです。を繰り返すばかりだった。
澄は火葬炉で仏さんを焼き始めると、こっそりと姿を現す。
対して俺は、丁度いい感じに焼けている仏さんを、彼女に提供する。
彼女のお好みは、ミディアムレアな焼き加減だった。
仏さんを渡すことに抵抗があるかと言われたら、ほとんど無い。が素直な答えだった。
なにせ、人間は『骨』である。
肉は燃やして尽くしてしまう品物である。
遺族が欲しいのは、肉ではなく、骨。
それならば、彼女が食べたところで、なにも問題はないだろう。
言ってしまえば、鳥葬みたいなものだ。
鳥に啄ませる代わりに、ゾンビがもりもり食べているだけに過ぎない。
無論、犯罪ではあるのだが、犯罪だからやめる。という善心を、あいにく俺は持ち合わせていなかったし、犯罪かどうかなんて、気に入っている女の機嫌を取るためには、気にならないものだ。
澄は肩の肉と脳みそが好物だった。
パキッ。と焼けて割れた頭蓋骨からとろぉ。と溢れる脳みそをちゅるんと吸い取るのである。黄色味かかった白色のそれを、さながらガムのように噛んでいる。
「それ、美味しいのか?」
「えっとですね、美味しい。というよりは、心地よいって感じですね」
くちくち。と奥歯の方で脳を噛みながら、澄は言った。
「脳を食べるとですねぇ、まるでさながら、雷にうたれたみたいに、スパークするんですよぅ。脳内麻薬でも詰まってるんですかねぇ」
「脳内麻薬って、別に脳みその中に詰まってる麻薬ってことではないからな?」
「分かってますよぅ。脳に詰まっているのは、麻薬ではなく、記憶。ですよぅ」
つまるところ、脳みそを食べると、彼女は脳に記録されている記憶を、追体験できるらしいのである。
人間は忘れる生き物である。だから、追体験できる記憶は死ぬ直後から死ぬ一週間まで、長くても一ヶ月ほど前になるのだが、それでも、『幸せな死』を遂げることができず、その記憶を保ったままゾンビとなった澄からしてみれば、他人の『幸せな死』を追体験できるのは、確かに、脳内麻薬のように、心地よいものなのかもしれない。
「その脳はどんな味がするんだ?」
「蜜の味ですね」
「甘ったるい最期を遂げたんだな」
「いえ、借金に次ぐ借金で頭が回らなくなって、とうとう借金をした奴に変なゲームをさせて楽しむことで有名な闇金に手を出して、最終的に頭がくるんと回って死にました。他人の不幸ってなんでこんなに美味しいんでしょうねぇ」
道理で、この仏さんの火葬のとき、遺族が誰もいなくて、代わりによく分からない黒服だけがいるはずだ。
火葬はしてくれるなんて、なんて優しい闇金なのだろうか。
「美味しかったぁ」
「どういえば疑問なんだが、お前、食べたものは消化されてるのか?」
「トップシークレットですねぇ。墓場まで持っていきますよぅ」
「一度墓場を通過しているだろう、お前は」
「埋葬はされてませんよ。一応。あれ、まだ美味しそうな匂いがしますねぇ」
「今焼いてるところだよ」
じゅるり。と澄は言う。
死体だから、よだれは出ない。
俺は火葬炉から、焼いている死体を取り出した。最近は、この火葬炉がオーブンのように思えてきた。実際、燃え尽きてしまわないように火力を調整しているのだから、これはもう、大きなオーブンと同じかもしれない。
開いてみると、こんがりと焼けている女の死体が出てきた。髪の毛は燃えつき、眼球はしぼんでいる。あんぐりと開けている口から白い煙があがっている。
「ほほう……焼くのが上手くなってきましたねぇ」
「こればっかりは、上手くなったところで自慢できたものじゃあないけどな」
「自慢出来ますよ。少なくとも、私には」
そう言いながら、澄はこんがり焼けた女の死体の周りをぐるりと回り、後頭部に指を当てると、むきっと、頭皮を剥いた。頭蓋骨というのは実際のところ、一つの骨で出来ているのではなく、幾つかの骨が組み合わさって構成されている。
後頭部の部分に隙間があって、彼女はそこに指を突っ込んで脳みそを出す。そちらも、その手順にはもう慣れっこのようだった。
とろぉ。と出てきた黄色味かかった白色の身を、舌で掬って、口の中で含む。味わうように舌の上を転がして、いざ噛み始めた澄だったが、暫くすると、その幸せそうな表情が、ピタリと固まった。
「……どうした?」
「……この女の人、殺されてますねぇ」
「は?」
ぽつりと澄は呟いてから、こんがり焼けている女の死体の首を指差した。覗き込んでみると、焦げ目で分かりづらくなっているが、確かに、二本の荒縄で絞められた痕がくっきりと残っていた。爪で首を引っかいた痕もある。明らかに、殺された痕であり――澄の首にある痕に似ていた。
俺は思わず澄の方を見た。澄は、自分の首を指差しながら、真剣な眼差しで俺を見た。
「この人、死ぬ直前に、自分を殺した相手の顔を見ています」
その顔は私も知ってます。
私を殺した通り魔です。
***
仕事を終えたあと、俺は澄を自分の車に乗せて走り出した。
助手席に座っている澄は、ごくごくと水筒の水を飲んでいる。
水筒は俺が用意したものではない。彼女が自分で用意したものだ。死体も、緊張で口が渇いたりするのだろうか。
「どこに行けばいいのか分かるのか?」
「はい。あの通り魔は『ひとりは寂しい』と言って、私の家族全員を殺しました。ひとりは寂しいから、全員殺したんです。生き延びたひとりが寂しいのか、殺されたひとりが寂しいのかは判断に迷いますけどねぇ」
恐らく、どっちでもあるとは思うが、そもそも、人を無差別に無作為に殺すような相手の考えなんて、想像できたものではない。
「だから、あの『通り魔』は女の人の家族の元へと向かうはずです」
澄は手のひらの上に、黄色味かかった白色の、中華丼のタレがかかったエビみたいなものを置くと、そのまま口の中に放り込んだ。
くちくちと、味わうように噛む。
「彼女の家がどこにあるのかは分かります。脳を食べてますので」
「それは重畳」
澄の指示通りに俺は車を運転する。高速道路を通り、降りて、トンネルをくぐって、次第に知らない住宅街に侵入していく。知らない住宅街というのは、どこか排他的で、ここはお前の住む場所ではない。と、邪険に追い払われるような気分になる。住む場所ではないのは間違いない。
この中のどこかに、既に通り魔が忍び込んでいるのだろうか。それとも、これから忍び込むのだろうか。
酷い話だとは思うが、俺は、通り魔が既に犯行を終えて、この場を去っていたら。なんてことを考えてしまっていた。
全員が幸せになる展開なら、急に『通り魔』が主義主張を捨てて、あの女の死体の家族を殺すことをやめる展開だが、そんな都合の良い展開が起きるはずもないし、なにより、その展開では『通り魔』が幸せではないではないか。
誰も彼もが幸せになることは不可能だ。
そんなの、人が主義主張を捨てるか、同じ主義主張になるように調整するかしない限り、不可能だろう。その場合、状況自体が不幸である。
どんなものでも、どんな状況でも、どんな場合でも。
幸福になるものと不幸になるものは必ず存在して、俺たちにできることは『不幸になるものを少しでも減らす』か『自分が幸福側に入れるように動く』かのどちらかしかない。
俺はどういう風に動けば、幸福側に入ることができるのだろうか。
「……なあ」
「なんですか?」
澄は脳みそを噛みながら返してきた。行儀が悪い。いや、脳を食べている時点で、行儀が良いとか悪いとか、そういう次元ではない気もするが。
「これが終わったら――通り魔の犯行現場をおさえて、警察に通報をしたら、一緒に暮らさないか?」
「おぉ。愛の告白ですかぁ?」
「そう取ってもらっても構わない」
「いやあ、本当に、死んでからも動いてみるものですねぇ」
ケケラケラケラ。とおかしそうに彼女は笑った。
腹を抱えて笑って、満足したのか、澄は運転する俺の顔を覗き込むように、体を前のめりにした。
「遠慮させてもらいます」
フラれてしまった。
心が折れてしまうかと思ったが、そうでもなかった。
恋が心を支配しているような年齢はとうに過ぎていた。
「そうか」
「残念ですが。私は死んでますので。死んでいるものが動き続けることは、本来、あってはならない、おかしなことなんですよぅ? やることやったら、動かなくなりますよぅ。私は」
「……そうか」
「ああ、ここですよ。ここ。ここが見えていました」
澄はとある一軒家を指差した。オレンジ色の大きな屋根の家で、窓から疲れた顔をしている男がソファの上に座っているのが見えた。
見覚えのある顔だ。あの仏さんを焼いていたとき、最後まで立っていた男だ。
「家族か」
「そうですねぇ。それと、娘が二人いるみたいですけど、多分、寝ているんだと思います」
「……通り魔はまだ来てないみたいだな」
その事実に、俺は自分が安堵していることに気がついた。
通り魔に家族が襲われていない。という事実に安堵しているわけではないことに嫌気がした。
「いえ」
澄は窓を指差した。正確に言えば、疲れた顔の男の背後である。今のドアが開いていた。そこからは廊下と、階段が見えて、丁度、階段を上がっていく男の姿が見えた。右手には、荒縄を握っている。
「あ」
「ほら、いたでしょう? ルールを破れないんですよ。ああいう輩は。自分自身が、世界のルール違反みたいな存在のくせに、ねぇ?」
澄は、俺の顔を見た。世界のルール違反は俺を見た。
出会った時に石ころで穴が空いたまま、ずっとそのままな目で、俺を見た。
「それじゃあ、私、行ってきますね。できれば、こちらの家の迷惑にならないように、家族の人には逃げていて欲しいんですけども」
「……俺が連れ出しておくよ」
「さっすがぁ。頼りになりますねぇ」
澄はため息をつく俺の額に、自分の額をぶつけてきた。
冷たい。生きている要素が何一つない冷たさだ。
「あなたと出逢えて良かったです。どうか、幸せに」
澄は家に向かって飛び出すと、居間の窓を突き破って、家の中に侵入した。窓ガラスが体にぐさぐさと突き刺さっているが、なにも気にする様子もなく、そのまままっすぐ、階段のほうへと向かう。
居間にいた疲れた表情の男は、突然のことに、驚くことすらできずに、目を白黒とさせている。
俺は彼女の後ろに続いて、居間に入る。靴の底が、窓ガラスの破片を割る。
「あ、あんたら。急に、一体、なんの用だ? というか、誰だ?」
「目標は復讐。正体はあんたの嫁さんと同じだ」
「違いますよぅ。私は、復讐を企むような、陰湿な人間じゃあないですって」
「どうだか」
澄は階段を駆け上がる。窓ガラスを割っている時点で、音を出さない。ということが彼女の頭にはない。
二階から、小さな女の子の悲鳴が聞こえてきた。
声のした部屋のドアを蹴破った。
ちょうど、通り魔が娘の首に縄をかけ、締め上げているところだった。ぎりぎりと血管が浮かぶぐらい強く締め付けられ、足が浮かぶ高さに持ち上げられている。眼球は飛びだしかけ、空気を求めるように舌を口の外に伸ばしていた。ぶくぶくと、泡を吹いている。
悲鳴をあげたのは、もう一人の娘の方だろう。
部屋の隅の方で、体を限界まで縮めこませて、無害な小石となろうとしている。
澄は娘の首を絞めている通り魔の背中に飛びかかった。
両腕で首を絞める形で抱きつく。通り魔は突然のことに驚き、大きく体をのけぞらせた。絞めている縄の力が弱まり、娘は床に落ちた。
「やぁ、お久しぶりですねぇ。通り魔さん。覚えてますかぁ? あなたに殺された、吉川澄です。覚えてないでしょうけど」
「…………っ!!」
通り魔は腕を大きく振るって、彼女の腰に、肘をめり込ませる。澄の口から、オレンジ色に近い液体が漏れる。しかし、彼女は離れない。
「ああ、ああ。いけませんねぇ。いけませんねぇ。せっかく飲んだのに零れてしまいました」
けぷっ。と澄はげっぷをする。
つんとした臭い。
それは、ガソリンスタンドで嗅いだことのある臭いだった。
「もちろん、あなたは私の首を絞め殺したようなやつなので、今から同じように、意趣返しのごとく、首を絞めて殺す。というのも吝かではないのですけど、それじゃあ、ダメでしょう」
私たちルール違反は。
この世から完全にいなくなってこそ、ですよね?
「知ってますか? 死体というのはですね、消化器官はあるけど、働いていないんですよ?」
死んでも体の中身は消えたりはしない。体重の一部、何グラムかは減るらしいが、胃がなくなったり腸が消えたり脳が消滅したりしない。
あるけど、働いていないだけだ。
だから、胃とか腸とかは、消化しないただの袋となる。水筒になる。
そして彼女がぐびぐびと飲んでいたのは――ガソリンだ。
「さて、死んじゃいましょうか」
澄は首を絞めている腕で器用にマッチを擦ると、それを飲み込んだ。
目の前が真っ赤に燃え上がった。
燃える二人は暴れまわる。一人は力強く。一人は振り回されるように。
一人が床を蹴った。
窓を割り、二人は外に飛びだした。
火の玉は俺の視界から消えた。
人のものとは思えないうめき声が、下の方から聞こえてきた。
***
彼女と殺人鬼は黒焦げになって死んでいた。
警察は「家族を殺された吉川澄が復讐にはしった」と結論づけていて、俺はそれに同意することにした。
澄と自分の関係については「恋人であり、自分の家に来ている間に家族が殺されてしまった彼女の精神的フォローをしていた」と答えた。「最近になってようやく落ち着いたと思っていたが、まさかこんなことをするなんて」と、嘘もついた。彼女はずっと、落ち着いてなんかいなかった。
彼女の家族は皆死んでいて、親族もおらず、天涯孤独であったことから、恋人であると嘘をついている俺が彼女の遺骨を引き取ることになった。
遺骨はとても軽かった。幾つかの骨は回収できなかったようだ。
人間とは『骨』である。人間とは『骨』である。人間とは『骨』である。
両手で持っているそれを眺めながら何度も心の中で呟くが、どうしても、これが彼女だと思うことはできなかった。
俺は、それを地面にばらまいた。鳥が群がってきて、啄んでいく。
これは、彼女じゃあない。
彼女は、もういない。
死者はどこにもいない。
それが世界のルールだ。