絶望の淵
刹那の出来事だった。少年は妹の那月の方に走り出していた。距離にして十メートルも無い。しかし、少年にとってはその走っている時間は、とても長く一歩一歩着地するまでの記憶が全てある。
それも、とても妙な感覚だった。一秒が一時間にでもなってしまったのかと感じてしまう。そんな浮遊感に襲われていた。通常少年の持つ身体能力から考えると、十メートル程度の距離は、かかっても三秒というところだ。
しかし、走って那月に到達する事は無かった。
後半分。約五メートルの位置まで来たという所だった。相変わらず男はナイフを振り回したり拳銃を発砲したりして、それを止めるそぶりは微塵も見せていない。寧ろエスカレートしているようであった。
そのせいで、周りの人間は大きな声で喚き、騒ぎ、叫んでいた。中には恐怖で絶叫するもの、失神するもの、失禁するもの、自分の知っている人や、大切な人を目の前で奪われて悲しみの涙を流している人。止めたくても止められない人。本当に様々だったが、それらの音に一つの魔の手が那月だけではなく自分にも向けられていたことには一向に気がつかなかった。
ー少年の耳にグジュ、ググと嫌な音が入ってきた。直後、少年は今でに経験したことのない痛みに、何も言葉を発することもできなかった。そして、その場に倒れ込んだ。
「うっ…はぁはがぁな、ん、…だ?」
辛うじてつぶやくことのできた一言も、舌が重く自分の思うように動かすことができないせいで、大きな声すら出ない。喉も乾燥していた。喉は乾燥しているが口の中には鉄臭い味が広がっていた。
少年は目を体の下にやった。すると、そこには自分の予想していた通りのことが起こっていた。
この日、少年の着ていた服は白色だった為に余計目だったのだろう。その綺麗な白色の服は血で赤黒くべたっとこびりついていた。
当然まだ血は乾いておらず、寧ろまだまだ流血の途中だった。
少年はそのような状況でもなお那月の心配をしていた。
力を振り絞り那月の方を見ると、那月は少年の方を見た。その目の色は変わった。一気に駆け寄ってきた。
「よ…せ、そ、そこに…は」
しかし、そんな必死の呼びかけも、那月には聞こえていなかった。
「お兄ちゃん!!」
そう叫ぶ。叫べば当然目立つ。目立てば犯人の標的にされやすい。それくらい聡明な那月ならばわかっているものと少年は思っていた。しかし、那月もそのようなことを考える余裕は無い。皆無だ。
たった五メートル。那月は目の前にいる兄を助けようとしただけだった。だが、現実は残酷で無情だ。運命という言葉では処理しきれない程に。
那月は、鮮血を噴き出した。最初は何が起きているかわからない様子だった。男は笑った。やったぞと言わんばかりに。
少年は男に猛烈な殺意が湧いた。しかし、それは優先されるべき感情では無いのは薄れ行く意識の中でもはっきりとわかっていることであった。
少年は、血を流し倒れそうになってある那月を見た。その顔は苦痛に満ちており、今までに少年が見たことのない表情だった。それは、少年を絶望に追い込むに相応しい出来事だった。
そのまま少年は目をこじ開けた。涙も出ていた。無理やり進もうとする。しかし、体は自由に動かない。動くものだなど一つもない。それでも這い蹲っているのは、那月がいるから。那月を助けたいから。たったそれだけのために、少年は自らの命を差し出す覚悟さえあった。
だが、少年の体は限界だった。必要以上に血を流しすぎた。最後に少年が目にしたのは、那月の目が静かに閉じていくところであった。
…くそ…こんなところで…お、わ…って………………
ここまでだ。そこから先、少年はその場で何があったのかは意識が戻るまで知ることはなかった。少年が意識を失った後も、周囲は混沌としている。
暫くして誰かが通報したのであろう救急車が到着した。そのまま少年と那月は少年の通う大学の付属病院に緊急搬送された。
すみません。和人君たちしばらくは本当に出てきません。




