二人が住む素敵な部屋の話をしよう
若草色の二人掛けのソファだ。かわいらしい見た目に惹かれて腰かけてみると、思ったよりも座り心地がよくて、立ち上がりたくなくなった。昼からずっとあちこち歩き詰めの脚に、疲労がじんわりしみだしてくる。
「何してるの」
優吾は笑って、でも荷物を置いて隣に座ってくれる。優吾も疲れているのかもしれない。
「これ、いいね」
ほらね。私は微笑む。同じソファに座って、同じ心地よさを二人とも経験しているということがうれしかった。
「いいなって思うのは、やっぱり高いな」
サイドテーブルに置かれた値札を見て優吾が言う。一五四〇〇〇円。サイドテーブルは三二四〇〇円。深く座りなおして背もたれに体重をかけても、しっかりと受け止められる。小さくお尻を弾ませても、きしみもしない。明るいけれど目になじむ色合いも、さらっとした手触りもいい。金額の高さがそのまま良さのように感じてしまう。ほしい。すごくほしい。
「でも私これがいいな。これ買おう」
「これ?」
「これがいい」
優吾がちいさく笑う気配がした。
「オットマンは?」
その質問には私が笑う。
「オットマンって単語を耳にしたの初めてかもしれない」
「足置きは買いますか?」
「このソファとセットのやつってあるの?」
「あると思うよ。ここのソファは全部同じデザインのオットマンも作ってるはず」
「くわしい」
「さっき別のソファの値札のところに書いてあった」
「じゃあオットマンもほしい。買おう」
「了解。ほかには?」
私はきょろきょろ店内を見渡した。デパートの五階のこのお店の家具は、確か日本で作っているはずだけど全体に北欧っぽいデザインで、木の色合いが優しく、形はシンプルで、少し無骨なところが好ましい。こんなものに囲まれていたらさぞ贅沢な気分で暮らせるだろう。
「あれがほしい。あのドレッサー」
その中で、一番贅沢な気分になりそうなものを指さした。何の装飾もなくて素朴なほどシンプルで使いやすそうだけれど、細い脚がさりげなく洗練されていてとても素敵だ。値段はわからないけど、いかにも高そう。でも、というか、だから、というか、ほしかった。とにかく高そうなあのドレッサーがほしい。
「じゃあ椅子も必要だな」
優吾も煽ってくる。
「じゃああれ」
一瞬で決めて背もたれのない小ぶりなスツールを指さす。朝ドレッサーの前であれに座ったら、出勤前の化粧もきっと今より楽しい。
「いいね。ほかには?」
「あれ」
考えもせずに指さす。
「お、食器棚か。いいね」
「中身もあとで見に行こう。食器いっぱいほしいな。ラムカンとか買いたい」
「ラムカンって何? ブランド?」
「ブランドじゃなくてお皿の種類。スフレとかのココットとかに使うやつ」
「よし買おう」
「わかって言ってる?」
「わからないで言ってる」
二人で顔を見合わせて笑う。
「そのラムカン? 買ったら何作るの」
「え、なんだろ。茶碗蒸しとか?」
「茶碗蒸し?」
意外そうに尋ねる。考える前に口が話したことだから、自分でも意外だった。なんでそんなことを言ったのか後から考える。
「優吾、茶碗蒸し好きでしょ?」
「言ったことあったかな」
聞いたことはなかった。でも好きなことは知っていた。
「回転寿司で毎回取ってる」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「茶碗蒸しに何入れる?」
「え、銀杏」
「だけ?」
「えー……うちの茶碗蒸しなんでも入ってるからな……銀杏以外にこだわりないや」
「ないんだ」
「私は作ったことないし」
「それもないんだ」
「ラムカン買ったら作るよ」
無責任な言いぐさに、優吾がいかにも本気にしてないふうで笑う。
「ラムカンすごいな」
「たぶん実物見れば「あーこういうのか」ってなるよ」
「なるかな?」
「なるよ。「あー結婚式の引き出物のカタログに載ってるあれかー」って」
「わかったようなわからないような」
「わかんないんでしょ」
「よくわかったね」
肩に頭を軽くぶつける。痛いな、と優吾は笑う。石鹸と洗剤とシャンプーが薄い体臭のうえにまじりあった、嗅ぎなれたにおいの広い肩に、頭をくっつけたまま言う。
「ほかに重たい鍋とかほしいな」
「重たい鍋」
「重たい鍋で煮込むとおいしいらしいよ」
「ちょっとそれは語りが雑過ぎない?」
「伝わらない? ニュアンス」
「あんまり伝わらない」
「そっかあ」
鋳物ホーロー鍋という煮込み料理に強い種類の重たくて高い鍋があってね、と説明してもよかったけど、いいソファに座って優吾の肩に頭を乗せたままで、そんな気にもなれなかった。
「とにかく重たい鍋がほしいんだね。あとは?」
「あと、あとは、うーん。なんだろ」
ほしいもの。素敵なもの。贅沢なもの。考えてみる。
「言いなよ。なんでも。ほしいもの」
「ほしいもの」
「最高の新居にしよう」
「最高の新居」
声に出してその響きを確かめる。最高の新居。若草色のソファ。揃いのオットマン。シンプルだけどつくづくかわいいドレッサーとスツール。大きくて、色とりどりの食器が詰まっている食器棚。どっしりした鋳物ホーロー鍋。素敵なものばかりに囲まれた、快適な家。そこにいるだけで安らいで、楽しくて、どこを見てもうれしい。そういう家。最高の新居。そこに必要なもの。優吾の肩にくっついたまま、私は言う。石鹸とシャンプーと洗剤の匂いに守られた、優吾の匂い。どうということもない、でもこの人だけの匂いだ。
「優吾がいればいいよ」
冗談のように言ったつもりだけれど、冗談のようには響かなかった。優吾がいればいいよ。
「そっかあ」
優吾の答えはそれだけだった。私は微笑んで、少しの気合を入れて、優吾の肩から頭を離す。これだけの距離でも、もう優吾の匂いは私に届かない。口を開くと余計な言葉が出てくるのがわかっていたので、黙ってあたりを見渡した。私の好みにぴったりの家具。小学生ぐらいの女の子を連れた落ち着いた服装の夫婦の客が、椅子を選んでいる。それは素敵な光景だった。でも、私にはなんの関係もない光景だ。うつむいて下唇を噛んだ。優吾も黙っている。
「明日来る?」
沈黙の後、優吾が尋ねた。質問というより確認だ。私は首を横に振る。
「行かない。遠いもん」
「遠いか」
「駅ならともかく空港は遠い」
旅立つためでなく、別れるために行くのなら、私には遠い。
「まあそうだね。なんもないし」
優吾がいるよ。
そう思った。思っただけだ。口には出さない。それを口にする権利は、もう私にはなかった。もう少し前にそれを口にしていたら。もう何度も何度も考えたことを、もう一度考える。でもそれは、このソファやオットマンやドレッサーがある新居で、重たい鍋で煮込み料理を作って、ラムカンで茶碗蒸しを作るぐらい、非現実的な空想だった。素敵だけど、本当に素敵で、それがかなったらどれだけ素敵かわからないけれど、でもそれは私の帰る部屋じゃなかった。それは空想の中で、冗談の中でしか、私の帰る部屋にならなかった。現実の私はそれを、選ばなかったのだ。
「そろそろ行こうか」
優吾が言い、返事を待たずに立ち上がる。今日たくさん買った下着や靴下などの小物や、移動中読むための本を持ち上げる。私も慌てて立ち上がる。優吾は歩き始める。シャツに包まれた肩が私の前にある。あの肩の感触。あの匂い。でも脳みそにある情報からは、うまく再現することができない。ずっと当たり前にそこにあったのに。優吾の脚は早く、一歩ごとに私たちの距離は開く。もうあの匂いを嗅ぐことはないのかもしれない。私は小走りで後を追いかける。家具の売り場からは、あと一歩で出てしまう。
「ねえ、ソファ買う?」
軽い口調を作って問いかけると優吾は振り向かずに、
「買わない」
と言った。穏やかな、でもはっきりとした、現実の言葉だった。
私は微笑もうとしたけどうまくいかず、かといって、涙が出るわけでもなかった。




