第三話
「まったく……病に倒れるなどいつ以来だか」
「せ、先生。体を休めていてください」
体を起こしていた男は、慌てた少女に寝かしつけられた。
男の顔色は悪く、倦怠感が身を包んでいるのか何をするにも億劫そうだ。
こうなったのには訳がある。
少女の怪我と虫刺されは、少々重いものだった。男の薬があれば数日で治せるとはいえ、それでも数日かかるのだ。
その間、少女は介添を必要とした。
歩けず、腕が麻痺している為動かし辛い。だからこそ、男は少女の世話をし続けたのだ。
結果、森を逃走した疲労と重なり、体に変調を来すこととなった。
「すまんな、飯は一人で作れるか……?」
少女の家事能力をあまり信頼していない男は問いかける。
無理そうならば、多少無理をしてでも動くつもりだ。
それを理解し、今までの恩をちょっとでも返そうと決意した少女は胸を張って答える。
「任せてください。わたしが先生を完璧に看病して見せます!」
張り切る少女。
それだけ男に恩を感じているのだろうが、男にはそのやる気が不安だ。少女に教えたことは様々あっても、食事の作り方などは教えたことがなかったから。
勇み足で部屋を出ていく少女を、心配そうに男は見送った。
「悪くないな」
「本当ですか? よかった……」
男の心配は杞憂だった。
少女は賢く、想像以上にまともな料理をすることが出来たのだ。
病床には少々重い料理だったが、薬があればどうとでもなると男は全て平らげた。
「馳走になった。しかし、どこで覚えたのだ?」
「独学です。先生をちょっとでも楽させたくて……」
聞くところによれば、偶に男の調理場を盗み見たり、男の料理に何が含まれているかを考え、学んでいったという。
その努力が実ったようでなにより。嬉しそうな様子の少女を見て、男は提案をした。
「なら、今度から君が作るか?」
特に深い考えがある訳でもない、何気ない一言。
その一言は劇的で、少女は花が開くような笑顔を浮かべた。
「いいんですか!?」
「そこまで喜ぶのは予想外だったが……。やりたいのだろう?」
「はい! 先生にちょっとでも楽をさせたいんです」
常よりもやる気が漲っている少女の様子に、男は首を傾げた。
「今日は嫌に高揚しているな。どうした?」
「先生がゆっくりと休める様に、頑張りたいと思ったんです」
男はそれを、奴隷根性の名残か何かだろうと結論づける。
卑屈で媚びた態度ではなく、恩を返したい一心の行動。ならば好きにさせようと、男は気楽に構えた。
「そうか……。まあ、やる気があるのはいいことだ」
それから、少女に薬を取って来てもらった男はそれを含み眠りにつく。
そして少女は数日間、動けなかった後れを取り戻すかのように精力的に動いた。
三食の料理をし、いつも通り馬の世話と風呂掃除をし、普段ならば男と手分けしている室内掃除も一人でやった。
薬の効果とその甲斐もあって、男はすぐに動けるようになり、約束をしていた薬術を少女に教え始める。
男の教え方が良かったからか、少女のやる気が満ち満ちていたからか、水を吸う様に学習していく少女。
そうしてまた、数か月が経過した。
また、男は熱を出した。
今度は疲労が原因ではない。ただの免疫の低下、つまりは老化による現象の一つだ。
急に老け込んだように、弱々しくなる男。咳をしながら、布団に寝転ぶ。
その様子を、怯えたように少女は見つめていた。
「先生、大丈夫ですか? 死んじゃったりしませんか?」
「いや、安心しろ……。私の薬があれば、死ぬようなことは無い」
己の薬術に自信のある男はそう言うが、その弱々しさに少女はとても心配そうにしている。
「でも……」
世界でただ一つの寄り所。それが少女にとっての男だ。
この世の底の底。汚泥のような場所から引っ張り上げてくれた恩人。
それが失われること等あってはならない。自分の死と同義であるという風に、少女は考えていた。
その少女の強い感情を感じ取ったのだろう。
心配性につける薬だとでも言うのか、男は昔話を語りだす。
「一つ話をしてやろう」
突然な話の切り出しに、不思議そうに首を傾げる少女。
黙って聞いているよう促しながら、男はとても長い話を始めた。
それはある人物の、今にまで連綿と続いてきた人生の物語だ。
「昔、一人の男が居た。貴族の次男坊という、恵まれた生まれだ」
「その男は、貴族の在り様に興味は無かった。ただ一つの興味、薬術にばかり没頭していた」
「親はそれを許した。男の兄が優秀で跡取りとして完璧だったというのもあるし、男自身も才があったからだ」
「しかし、男が大人になる頃、一つの事件が起きた。男の兄が、罪を犯したのだ」
「それはとても大きな、やってはならぬ悪事だった」
「男の家は潰れた。お上はその家の存続を許さなかったのだ」
「男の兄は打ち首、親は恥じて自ら命を絶った」
「問題だったのは男だ。その当時、すでに当代名高い薬師として名を馳せていた男をお上は殺めるのを嫌がった」
「最後に下された勅命は、国からの追放」
「ここで男は安堵した。男は、どうしても死にたくなかったのだ」
「まだ若いのに、何故死ななければならない。自分は何も悪事をしていないのに、何故死ななければならない」
「そう考えていた男にとって、命を助かったというのは何にも代えがたいものであり、そして未来を決定づけるものだった」
「死を恐れた男は、不老不死の研究を始めた」
「幸い、男には霊薬の製法という知識があった」
「だからこそ、男はあまりにも簡単に不死の薬を作り上げたのだ」
そこで男は話を切り、ちらりと少女の方を見る。
そして懐から、小さなビンを取り出した。
「これが、その不死の霊薬だ」
「……つまり、それを飲めば先生は永遠に生きられるんですね?」
少女は安堵と期待を込め、薬を注視する。
男は頷いた。
「そうだ。さて、話の続きをしよう」
薬を大事そうに懐へとしまう男。その手つきから、まだ不老不死への執着を捨てていないことが分かる。
しかしそれをまだ飲んでいないと言う事は、何か理由があるということ。
男は話を続けた。
「薬を作り上げた男……いや、この言い方は止めにしよう。そう、私はここで一つ重要なことに気付いた」
「不老不死。それは無限に生き続けるという事」
「無限と言う際限のない時を、私は恐れた」
「一つ恐怖を忘れれば、次の恐怖が浮かんでくる……実に人間らしいな」
「私はそこで、『共』を得ようと考えたのだ」
少女はそこで、男の元弟子である女の言ったことを思い出した。
彼女は男に言ったのだ。
もしかして、少女を『共』にするつもりなのか、と。
「私と永遠を生きる存在。それが、『共』だ。だからまずは、『共』に相応しい相手を探そうと考えた」
「それで、あいつに出会った。あの女は、行き倒れている所を私が拾ったのだ」
それからは、特に語るべきことも無いと言う。
弟子として育てていくうちに愛着がわき、男は無間地獄に引きずり込むのを躊躇った。
結果、破門するに至ったと述べる。
「結局は私の我儘だな……」
「だから仲が悪いわけじゃないんですね」
「そうだな。あいつも不老不死は望んでいなかったというし、これで良かったのだろう」
遠い目をしてそう呟く男だったが、そこで少女が思い出したように言葉を発した。
「あの……では、どうして私を買ったんですか?」
『共』を得ることを諦めた筈の男。
いや、諦めきれなかったのだろう。男もそれを理解しているようだった。
「あの時……一瞬、ほんの一瞬だけ思ってしまったのだ。君を『共』に出来ないかと」
だがその事実を認めたくなかった男は、自分に「これはきまぐれ」だと言い聞かせたのだ。
「すまないな。我儘ばかりで」
「……それじゃあ、わたしもわがままを言って良いですか?」
滅多に無い、少女からの頼み。
少女の表情からは、何を考えているのか読み取れない。ただ何らかの願いを秘めて、凛とした視線を男に向けている。
首を傾げながらも、男は聞く姿勢を取った。
「何だ? 叶えられるものなら、何でも聞くが」
「さっきの不老不死の霊薬、わたしに貰えませんか?」
「ふん?」
突然何を言い出したのかと、疑念を抱く男。
しかし少女は至って真面目な態度で、考えを述べた。
「わたしの決心が出来たら、先生にお返しします。それまで、待っていただきたいんです」
男としては願ってもない申し出。
既に諦めていた『共』の可能性があるのなら、男に断る理由は無い。
一番の問題は少女を引きずりこむということだが、決心できなければそれでいいと、男は薬を手渡した。
「ならば待つとしよう。さて、私は寝る。一応病床だからな」
「はい! お休みなさい」
長話をした男は瞼を閉じると、規則正しい寝息をたて始める。
それをじっと少女は見つめていた。
さらに月日が流れた。
少女の年の頃は、既に15は過ぎている。
見目の良さにも更なる磨きがかかり、男から教授された薬学の技術を併せ持った才女となっていた。
「いやぁ、こんなにも立派になって。あっしも鼻が高いってもんだ」
「お前は何もしてないだろう」
「全ては先生の薫陶の賜物ですよ!」
少女の男信心はますます磨きがかっている。何年も自分に手を尽くしてくれたのだから、そうなるのも当然なのかもしれない。
「それじゃ、先生もお達者で」
「ああ。よき旅を」
男の元弟子の女。
彼女は何を思い立ったか、海を越えた異国まで行くのだという。
まだ見ぬ世界を見聞し、男から学んだ薬学を広めるのだと息巻いている。
そして、これが今生の別れとなるかも知れないので、こうして挨拶に来ていたという訳だ。
「嬢ちゃんも、先生を支えてやってくだせぇよ」
「はい、承知しております。一命に変えても、先生のお世話をさせて頂きます」
「うーん、やっぱ先生は教育を間違えたんじゃねぇですかね……」
「知らん。もう好きにさせればいいだろう」
男としても、少女の心酔具合はお手上げのようだ。
「さて、それじゃあもう行きます。先生の長生きを祈らせていただきますよ」
「お前もな。無様な死に方だけはしないように」
「へいへい。では、これにて」
そう言うと、荷物を背負った女は手を振りながら、屋敷を出て行った。それをじっと見送る二人。
「寂しくなるな……。これで私と密な関わりのある存在は、君だけになった」
少女が時を経て美しくなったのに対し、男も年を経て老いた。
髪はほぼ全てが白髪。腰は少々曲がり、手足も痩せている。
何より、皺だらけの顔は哀愁を濃くしていた。
「……先生」
そんな老いた男を見つめていた少女は、改まって声を発する。
「どうした?」
少女の真剣そうな様子に、男も改まって少女を見つめた。
「さっきの長生きって話ですけど……」
「……例の話の事か」
少女との間柄で、長命に関することと言えば一つだけ。改まって話しかけてきたのだから、なおさらだ。
「はい。やっと決心がつきました。あの人が先生の寿命の心配をしたという事は、もうそれほど時が残っていないんでしょう?」
「まあ、だろうな。あいつが私の長命を祈ったことなど、今までに一度も無かった」
男自身も分かっていた。
老いさばらえた体が、傍目からどれほど弱々しく見えるかという事を。
「それで、どうするのだ? 今から飲むのか?」
「いえ、明日。明日飲みましょう」
最後の『人』である時を全うしよう、と少女は言った。
不老不死になった時点で、もう常人の生活は送れない。必ず精神に大きな変容が起きるから。
しかし二人は特に何をする訳でもなく、存分に一日を過ごした。
そして翌日。
居住まいを正して、男と少女が神妙に向き合う。
二人とも、これから待ち受ける未来に興奮を隠せないでいた。
これから、人という枠を超越するのだ。一切の動揺が無く、冷静でいられる人物などそうはいない。
「では、最後にもう一度聞く。本当にいいのだな?」
今ならまだ引き返せるぞ、と男は最後の問いを投げかける。
「はい。二言はありません」
それに対して少女は、躊躇なく返事をした。
覚悟を決め、引き締まった面持ちで男を真っ直ぐ見据える。そして、懐から二つの小瓶を取り出した。
「どうぞ、先生」
恭しく男へ向かってそれを差しだす。
男も礼儀正しく一礼して、受け取った。その瞬間、少女は何故か笑みを零す。
「どうした?」
「いえ……。これで先生と、ずっと一緒にいられると思ったらとても嬉しくって!」
邪気のない満面の笑みを浮かべた少女に、男は困惑した。
「苦しみが待つかもしれんが……、それでも喜ぶものなのだな」
「はい! 先生が死を恐れたように、私も先生との離別が恐ろしいんです。でも、これでそんな心配は無くなります」
男はそこで理解する。
この少女も自分と同じく、狂っているのだと。茨の道を突き進む自分と、それに追随する少女。
まさしく狂人の所業である。
男も釣られて笑みを浮かべた。
「では、いこうか」
笑いながらも声を掛け、遂に小瓶を掲げた。
これで、制約のある肉体と死の恐怖から解放される。
同時に二人はビンに入った薬を呷り、嚥下して、
「グッ!?」
男は突如として胸を押さえ、苦しみだした。その痛みは、男がこれまで一度も感じたことのない程の激痛だ。
もがきながら、意識を朦朧とさせる男だが、少女も同じ状況に陥っては無いかと視線を向ける。
自分の薬に何か不都合があり、それによる失敗を疑ったのだ。
もしそうならば、少女も苦しんでいるはず。ぼやける視界で少女を目にした男は、自分の目を疑った。
微笑んでいるのだ。
一切苦しむことなく、こちらを観察するように、艶やかな笑みで。
「な、なにを……」
何とか言葉を絞りだす男。
「ごめんなさい。先生の薬にだけ、細工をしたんです。先生は、私に薬学を教えてくださいましたから……簡単でしたよ。ちょっとだけ、効能を変えることぐらい」
少女は小瓶を軽く振って、そう答える。
男も驚くほどに薬学を学んでいった少女は、いつの間にか男よりも卓越した技術を備えていたのだ。
「私は先生に多大な恩を受けました。だから、私はその恩を返さなければいけないんです」
男は既に全身が麻痺し、身動き一つとれなくなっていた。
それでも、まだ思考は出来る。
男の頭脳は訴えていた。この少女の狂気は、自分の比では無かったと。
嘘偽りなく、ただ恩を返す為だけにこのような行いをしたのだと。
「安心してください、先生。私が、一命に変えてもお世話をしますから」
あまりに己の恩が多大であると認識し、それを返す為の方法を考えた少女。
そして思いついた方法とは、男の全てを世話すること。
その為には男に不自由してもらう必要があったのだ。そうした方が、委ねてもらえるから。
「全部、全部私がしますから。先生は、何もしなくていいんです」
男はこんな状況でも、後悔はしなかった。
これもまた良いと考えたのだ。
男からすれば、死にさえしなければよかった。自分の不自由一つで少女が幸せなら、それで良いと。
(さて……、恩とやらが返し終わるまで、ゆっくりしておこうか)
そして男は、意識を手放した。
悪しき獣が住む森の奥。そこにある湖の畔には魔女が住む。
ある者の言い伝えによると、何百年も前に一人の男が魔女を拾い、魔女は男に惚れたのだと。
その愛は恐ろしく、男は逃げ出す事叶わず捕まり、そのままそこで永遠に時を同じくしているという。
それを確かめられる者は誰もいない。
森に入れば大鷲に食われ、森を抜けても魔女の毒でたちどころに死んでしまうからだ。
しかし、魔女の存在は誰も疑わない。何故なら、その子孫とされる存在がいるのだ。
彼女ら、若しくは彼らは、親に会うために森へと入って行くことがあるという。