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アクア・ヴィーテ

 クアラルンプールに戻り、今日からまた語学学校が始まる。

 

 僕が教室に入った瞬間、先週と違う空気が流れている事に気付いた。

 僕が風邪で休み、ペナンで羽根を伸ばしているうちにクラスのメンバーが大幅に入れ替わっていたのだ。

 海外の語学学校がこんなに入れ替わりが激しいとは知らなかった。皆自分の都合で、受けたい期間だけ受けるという、自由(テキトー?)なシステムだった。

 

 日本人が僕しかいなかったはずが、今ではクラスの過半数を日本人が占めるようになっていた。

 

 僕は慌ててヴィーテの存在を探した。

 ……が、受付の人に聞くと、彼女はすでにクアラルンプールから200km北にあるイポーという町に帰ってしまったそうだ。

 

 何ということだろう。また会えると思っていたのに、こんなに呆気無く別れてしまうなんて…

 僕はショックを隠せなかった。

 彼女のために買った赤い栞はこんなにも呆気無く、無駄になってしまった。

 

 

 たったの数日で、クラスの雰囲気は完全に日本人のそれに取って代わった。

 マレーシアは老後に過ごす国として最も人気のある国で、それゆえに年配の夫婦の割り合いが多かったのだ。

 しかし自分と同じくらいの歳の人間もおり、すぐに仲良くなる事ができた。

 

 僕がまず仲良くなったのは、タカという人物だ。

 開放的な性格で、マレーシアでいつか店を出そうと何回か下見に来ているそうだ。


 学校終わりに彼と、屋台で飲み物を買って話す事にした。

 彼がオススメする、フルーツをミックスしたミルクティーは極上だった。

 僕もペナンでタピオカミルクティーに感動したので、タカとは気が合いそうだ。

 ミルクティーを飲みながらタカは、何もかもが楽しいという風に話し始めた。

 

「こないだ通りを歩いてたら、数人のグループに拉致られそうになったよ。あいつらまず人の居ない所に連れてって、そこで金目の物を奪うんだよ」

「ええ!?それ一歩間違ったら大事件になるんじゃ……」


 幸い、僕は地元人と間違われるくらいだから、目をつけられるような心配は無かったが、観光客としての日本人は金を持っているという認識なので、危険はつきものらしい。知らないまま旅をしていた僕は幸せだったのかどうか…

 

 タカは英語は下手だが、性格がアグレッシブなので、どんな所にも飛び込んで英単語のゴリ押しで注文をする。

 この性格ならマレーシアでも十分やっていけるだろう。


 反対に、クラスでもう一人知り合った、まだ高校を卒業したばかりのユウヤは無口だった。

 親の意向で、海外の経験を積む為にマレーシアに来たそうだ。

 

 彼の注文の仕方はメニューに指差して「This oneこれ」と一言。

 これはこれでたくましい。無口だが自炊はするし、こちらでのバイトも探す、と行動力はしっかりとあるようだった。

 

 どんな性格でもそこで生活しているうちに適応できていくものなんだな、と感心した。

 

 しかし結局の所、ユウヤは余りにも時給が低い事に嘆き、ついにバイトを探すのをやめた。観光客用の店を利用している限りは、こちらで働いて食べていくのは難しいようだ。

 

 さて、僕はというと、平日は語学学校、放課後は時間の許す限り、行った事の無い場所まで足を伸ばした。

 モノレールで知らない駅で降りて、散策。

 目新しいものは徹底的に観察していく事にした。

 

 ショッピングが目当てでは無かったので、観光客用の店にはあまり入らなかったが、それでも日本企業であるユニクロ、SOGO、ISETANは目についた。

 

 入ってみるとやはりというか、日本のそれに似ており、露店にあるような模倣品は一切無く、値段も日本よりいくらか安かった。

 

 休日も朝から外に出て、1日で行ける所まで行っては帰ってくる、をひたすら繰り返した。合計でどれだけ歩いたか分からないほどだ。

 ある時は駅の場所が分からなくなり、道行く人々に聞いて回った挙句、辺りが真っ暗になって途方に暮れた事もある。

 

 それでも僕は歩いた。何故か歩いているだけで楽しかった。それこそ初めて目にした景色であるかのように周囲を観察した。

 

 海外というのは新しい世界、新しい刺激という名の体験だと思う。

 風邪を引くという体験もその一つだと思っている。

 

 子供の頃に色んな病気にかかって抵抗力を作っていくように、海外でもそうやって適応していくのではないだろうか。

 

 つまり「日本を出る」という事は、「世界に産まれる」という事なんだと思う。 そういう意味で、短期の旅行にも楽しみはあるが、『滞在』はまた違った経験をくれる。

 

 僕が駅で電車を待っていた時の話だが、海外旅行で来ていた日本人の大学生と思しき集団がいた。彼らは彼ら同士ではしゃぎ、大声を出していたが、周囲から明らかに浮いており、見ていて気持ちの良いものでは無かった。

 

 この時に、いわゆる旅行と滞在との目的の違いが明確に分かった気がする。

 

 それはそれとして、僕は常夏の焼けるような暑さの中を、涼める場所と冷たいコーヒーを求めて、ひたすら歩き続けた。それだけでどうしようもなく楽しかったのだ。


 侵食してゆくアスファルト、貧しい家のすぐ傍に立つ高層ビル、その異質さに危機感を覚えながらも、マレーシアに暮らす人々は自由であるように思われた。





 そして時は過ぎ、とうとう帰国する日がやってきた。

 

 僕が心残りなのは、ヴィーテの事。

 僕らはもう二度と会う事はないだろう。

 彼女との一日が僕にとっては、ただの良き思い出になろうとしていた。

 

 コンドミニアムの退去手続きを済まし、空港に向かう。

 少し時間があるので、僕は彼女と訪れたジャラン・アローに、最後にもう一度だけ行ってみる事にした。

 

 相変わらずジャラン・アローの夜は賑やかで、屋外にも関わらずマイクでの歌声が響き渡っていて楽しそうだった。

 僕はその人混みの中を、来た時と同じように一人で歩いた。

 

 僕がレストランの客引きを断りながら歩いていると、遠くの人混みの中に、ヴィーテと思われる、髪の長い女性の人影を見つけた。

 

 まさか……彼女は遠くのイポーという町に帰ったはずだ。クアラルンプールにいるはずがない!

 

 それでも確認しようと彼女を懸命に追いかける。



 もう一度、彼女に会いたい! 


 

 ……しかし僕の気持ちも空しく、彼女はジャラン・アローの喧騒の中に風のように消えてしまった。 

 

 錯覚だったのだろうか……


 僕は肩を落とした。最後の日にまで自分は一体何をしているのだろう。ジャラン・アローという賑やかな宴会の場の中で一人、彼女の影を追っているなんて……

 

 彼女は今もきっとどこかで楽しくやっているさ。

 

 彼女はこれからも夢を持ち、泣いて笑って、人生をダイナミックに体験していくのだろう。

 僕はその一部として時折思い出してくれる存在で構わないじゃないか。


 人生で感情を失い、乾ききった僕にとって彼女は一滴の雫だった。それはまさに命の水、アクア・ヴィーテだった。

 

 

 

 

 空港での手続きを済ませ、帰りの飛行機に乗り込む。

 飛行機の中で、僕はずっと旅の事を振り返っていた。

 

 ジャラン・アローの喧騒の中、今日もどこかで泣き笑いのドラマが生まれていると思うと、僕がこれから日本に帰って求めていくべきものが分かってきたような気がする。

 

 彼女は無知な僕にそれを教えてくれた。

 それだけでこの旅は素晴らしい経験だったと思う。

 

 世界から拒絶された僕が、少しだけ世界そのものに包まれたような気分になれた。僕はこの潤いがいつもどこかに存在している事を決して忘れないだろう。

 

 

 


 クアラルンプール。それは『川の合流地点』という意味。

 この場所で彼女と出会えた事を僕は喜びたい。


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