ペナン一人旅
よくもまあ日本から一人でこんな所まで来たものだ。
紅い空は次第に薄れ、爽やかな土曜の早朝の空に取って代わった。
朝なのでまだどの店も開いていない。
僕は鳩の沢山いる海沿いの公園まで歩いた。
鳩は日本よりも茶色く、全体的に色合いが豊かで見ていると楽しい。
フェリーでペナンに行くと島の北東のジョージタウンに着く。
海に面しているので、至る所から海が見られるのがいい。飛行機で行くと島の南に着くので、これが一番の違いだろう。
潮風が気持ちよく、もう少しこのままで居たかったが、滞在期間が土日しか無い。早速行動しなくては。
もうKLの時のように呆然と立ち尽くすような事はしたくなかったので、僕はまずフェリー乗り場の傍にあるバスターミナルに目をつけた。
ペナンを走るバス、ラピッドペナンの路線図を頭に入れていたので、それをまず確認しようと歩道橋の上からバスターミナルを観察した。
ここからならバスの流れを把握できる。
すると、無料でジョージタウンを周回しているバスがある事を発見したので、まず乗ってみる事にした。
バスに乗っていつとも知れぬ発車をゆっくりと待つ。
車内では旅で来ていた二人組の女の子に地元の若い男が話しかけている所だった。こういった光景も日本ではあまり見られないので新鮮だ。
運転手が乗り込み、ようやくバスが発車する。
進むにつれてジョージタウンという町の事が少しずつ分かってくる。
イギリス領土の名残で欧風のオシャレな建物があり、リゾートホテルがあるかと思えば、泥臭い町並み、それに色んな国の寺院がある。
流石にここまで来るとKLではポツポツと居た日本人らしき人影は見かけなくなった。
欧米人は相変わらず多く、トライショーと呼ばれる人力車に乗って町中をスマートに観光していた。彼らはローカルな屋台にも意気揚々と入り、何事もまずチャレンジするという欧米人の積極性が伺えた。
ペナンという町はKLよりも更に開放的で、犯罪の臭いもそれほどしなかった。
実際には犯罪率が低いわけではないようだが、KLのように玄関を鉄格子で守ったりするほどでは無い。
バスの窓から犬や猫や鶏が一緒になって残飯を漁っている所が見えた。人を見ても逃げ出さない所を見ると、貧しいというより素朴な風景だと感じた。
ジョージタウンで一番大きなコムタという所に着いた。
無料のバスを降り、ホテルを探す。
またドミトリーにしようかとも思ったが、旅の疲れをしっかり癒やす為に少し良いホテルに泊まりたかった。
暫く歩いていると、地図にも載っていないホテルを発見した。新しくできたそれはチューンホテルというらしい。
最近拡大しているエアアジア系列のホテルだ。空港の傍にある事が多く、出張で来ているビジネスマンなど、一人でも入りやすいのが特徴で、僕にはピッタリだと思った。
できたばかりのホテルなのか、中はものすごく綺麗だった。カードキーにより自動で室内の電気が点灯するシステム、ロビー横で開放しているインターネットスペース。更にホテルの1階がセブン-イレブンになっているという便利さだ。(ちなみにセブン-イレブンはマレーシアに沢山ある)
早速僕はホテルに荷物を置いて手ぶらで出掛ける事にした。
旅をする時に地元に溶け込むというのは目標でもあったので、現地人であるかのように町を歩くのは楽しかった。
港付近を歩くと、沢山の木の橋がかかっていた。
橋と言ってもどこかに渡るためではない。それは住む為の橋だった。
何でも、中国人が移り住む際、橋の上に住めば税金がかからないとの理由で出来た橋だそうだ。
それが一族ごとに分かれており、今では観光地化している。
しっかりとした木でできた橋の上を歩くのは新鮮な気持ちだった。ペナンに来て初めて観光していると言えるような気分になる事ができた気もする。
橋の上で人が普通に生活する様、そして立ち並ぶ土産物屋をゆっくりと眺めながら時間をかけて歩く。
現地人を装って一人で歩いているせいか、カメラのシャッターをお願いされる事も多く、観光気分をたっぷりと満喫する事ができた。
そうして気分よくホテルに帰ろうとした時、不快な事件が起こった。
ホテルに帰る前に1階のセブンイレブンで軽食と水、それにジュースを買おうと入った時の事。
沢山の品物を買ったのに、レジの男が袋を用意しようとしない。
目の前にポツンと置かれた商品。
僕は一生懸命ジェスチャーで「ビニール袋が欲しい」と訴えた。
女性の店員もやってきてうろたえていたが、結局僕が何を言いたいのか分からずじまいだった。
僕は「オーケー」とだけ言って、買ったものを抱えて出た。向こうは何が何だかわからないという顔をしていたが、僕の方も分からない。手ぶらなのは見れば分かるし、こんなに沢山の商品を抱えて歩いている人間がいるだろうか。僕はホテルの部屋に帰るだけだが、それでも袋を用意して欲しかった。
しかし何より「心が通じなかった」という事実の方がこたえる。
僕はこの手の出来事に弱いらしく、またホテルに帰って急に寂しさがこみ上げてきて、涙が出てきた。
マレーシアに来てから何故か感情に素直になっている。日本では寂しくて泣くなんて一度もなかったのに……何かが日本とは違っていた。
悲しみは怒りと同じでずっと引きずるようなものじゃないと思う。涙を流してしまえばスッキリしてしまうものだ。
僕はまた力を取り戻してホテルを出た。まだ昼前だから時間はたっぷりある。
今度はリュックを背負って有料のバスに乗ってみる事にした。有料ではあるが日本と比べるととにかく安い。日本円にすると数十円で比較的自由に乗り降りできるのだから一人旅なら利用しない手は無いだろう。
せっかくペナンの北端にいるのだから、海沿いをバスでドライブと洒落込もう。行き先を告げてチケットを受け取ると、バスが発車した。
この開放的な雰囲気はKLにもなかなか無いと思う。
リゾートホテルやショッピングセンターを横目に、バスはだんだん人のいない田舎町に入っていった。
バスが終着のテロッバハンに着いた。人影はかなり減り、大きな丘と浜辺、それに屋台だけがあるシンとした雰囲気の田舎町だった。
僕は浜辺に出て、波の音を聞きながら歩いた。自然の中で孤独を満喫するこの時間は貴重だった。
ホテルで寂しく過ごすのとは違う、神聖な時間であるように思えた。
僕の孤独を打ち破ったのは、色黒で短い白髪の老人だった。
僕が一人で浜辺を歩いていたのが珍しかったのだろうか、話しかけてきた。
「どこから来た?」
「日本です」
「珍しいな」
彼は英語だった。つまり観光客相手の話し方だ。
僕が地元人じゃないと一目で分かったのだろう。
「昔は日本人がいっぱいいたんですか?」
「ああ、俺も沢山ガイドしたよ、ここは国立公園があるからな」
こんな田舎町に国立公園があるのか。
僕は俄然行ってみたくなった。
老人は僕の心がもう分かっているかのように歩き始めた。
「ボートに乗ってみないか?国立公園の向こう側まで行けるぞ」
「乗せてくれるんですか?」
「いいよ、これだけでね」
そう言って男は手を広げて見せた。ジャンケンのパーでは無さそうだ。
「5リンギですか?」
「50リンギだよ!ガソリン食うのに5リンギじゃ行けないよ」
流石に50はなかなかの出費なので断った。
男は残念そうだったが、それでも親切に案内してくれた。
「飯は食ったか?」
「いえ、まだです」
「じゃあ、あそこで食うといい」
そう言って一軒の開放的な屋台を指した。イスやテーブルもあって落ち着けそうな所だ。
男は店の主である太った女性と何やら話していた。僕が待っていると、ビーフンのようなものに目玉焼きが乗った料理を出してくれた。
猫が僕の食べている料理に興味を示し近寄ってきた。女性の店員は嫌そうにしていたが、僕には珍しい体験だったので少し嬉しくなった。
僕は早めにガツガツと食べ終えて猫に残りをあげたが、猫は少しだけペロペロと皿をなめただけで、食べなかった。
「さあ、国立公園はあそこの受付だよ」
僕は一度も国立公園に行くとは言ってないのだが、何故分かったのだろう。
「ありがとう」
僕が礼を言うと、男がまた手を広げた。
「50リンギ……?」
「5リンギだよ。ガイド料」
ちゃっかりしてるなぁと思いつつ、色々助けられたのは事実なのでここは素直に払い、僕らは別れた。
国立公園と言っても、木に囲まれた丘に道ができているだけで、のんびりできるような場所では無く、気付いたら山登りの真似事をしていた。
途中すれ違う旅行者と挨拶しながら、道を譲る。これはもう完全に山登りだ。
運が良いとイグアナが見られるみたいだが、僕は猿と鳥くらいしか見られなかった。ちょっと期待ハズレだったのもそのはず、ペナンの国立公園は世界で一番小さい国立公園だそうだ。
それでも動物の知識があれば数千種類の動物が見られるようで、事前に調べておくべきだったとちょっと後悔している。
国立公園を出るともうあの老人はいなかった。
テロッバハン。何もない町だけど、ペナンでも珍しいほど、のどかな田舎町を満喫させてもらえた。
この日は朝が早かったので、ホテルに戻ると僕はすぐに眠りこけた。
次の朝、また手ぶらで出掛ける事にした。この開放感はやはり癖になる。
ヴィーテに教わっていた有名な土産物屋を探し、行ってみる。
偶然にもそれはホテルのすぐそこだったのだ。
店の中は朝からかなりの人で賑わっている。
饅頭がおいしいと聞いていたので探したが、ヴィーテの言っていた品物がどれかわからない。とりあえず紫色の箱の高そうな饅頭を買う事にした。
先に言うと、これは家族に持って帰った時大不評だったのだが、僕は悪くないと思った。この苦甘い食感がマレーシアの人にはたまらないらしい。他の饅頭も買ったが、似たような味だったので僕がハズレを掴んだわけではないと思う。
他にも土産はないかなと探していると、いかにも地元という感じの店を発見した。マレーシアではツインタワーの置物等、既成品の土産ばかりでウンザリしていたがこの店は違った。
僕の目に止まったのは手造りの栞のようなものだった。
白のインクでイラストが書かれた栞、どれも違うイラストなので好きなものを選ぶ事ができる。僕は赤い栞を選んだ。
僕の手作りじゃないが、藤堂先生が僕にくれた物も心のこもった手作りだ。僕はこれを先生へのお返しの気持ちも込めて、ヴィーテにあげようと決めた。
さて、ホテルに帰る前に朝食だ。開放的なレストランに入り、どの屋台で注文するか選ぶ。
ペナンは魚がおいしいと聞いていたので、チキンライスに小魚の付いたものを頼む事にした。チキンライス自体はマレーシアで最もポピュラーで、どこにでもある上に、圧倒的な安さを誇るが、焼き魚が付いているのはペナンのオリジナルだろう。
この魚の味は今でも忘れられない。こんなおいしい魚は日本でも食べたことが無いくらいの豊かな味だった。
僕にもう少しグルメの知識があればペナンで魚を食べ尽くしたいくらいだったが、残念ながら僕がペナンで食べた魚はこれだけだった。
ホテルに帰って支度をし、チェックアウトする。今日はペナン・ヒルに行ってからKLに帰る予定だ。
ペナン・ヒル行きのバスは決まっているので迷うことはなかった。
学生や老人達の乗り降りを見ていると、こんなのどかな島にも問題はあるのだろうか、と疑わしくなるほど平和だった。
ペナン・ヒルはケーブルに乗って頂上付近まで行く。昨日の山登りに比べたら楽だったが、また別の苦痛もあった。
ケーブルと言えばカップルなのか、車内が夫婦やカップルばかりなのだ。
それが向い合って座るのだから、一人の僕はちょっと気まずい。
今まで一人でも居心地が悪く感じた事はなかったが、ケーブルに乗った時に一人というのは少し心細い感じがした。
何となく感じたこの孤独感はペナン・ヒルを観光している時にも拭えなかった。
景色は良かったが、山登りで得られるほどの景色では無かった事もあり、ペナン・ヒルからは早々に引き上げる事にした。
気を取り直して、今度はペナンの中でも有名なガーニーに向かう。場所はジョージタウンのすぐ西だ。
夕方から開くガーニードライブはジャラン・アローにも負けないくらいの賑わいを見せるらしいが、僕はどちらかと言うとテロッバハンのような静かな所が好きなので、時間をズラして今行く事にした。
ガーニーのショッピングセンターは綺麗だった。KLにもなかなか無いほど立派な建物、そしてその傍には果てしなく長い海沿いの道。僕はこういうのにテンションが上がる人間なのだ。
ショッピングセンターの中でタピオカ入りのミルクティーを買う。
8リンギか、結構高いなーと思いながら支払い、ショッピングセンターを出た所で気付いた。
「そういえばメニューの所には5リンギと書いていたぞ!」
騙された、と言ってしまえばそうなのだが、昨日の老人の事もあってペナンでは観光客とお金に関して一戦交えるのも普通なのだろう、と思い直す事にした。
ガーニーの海沿いの道を歩く。ここはとても良い。僕が人にペナンを勧めるとしたら間違いなくここだろう。
気持ちの良い潮風に加え、並木道まである。景色は最高。右手にはタピオカミルクティー。
一人は寂しいと言いつつも、何だかんだで楽しんでいるような気もしてきた。
僕には観光地化された場所よりも、やはり素朴な風景に異国情緒を感じる。
夕方から夜にかけてはジョージタウンで過ごす事にした。ここも夜はかなりの賑わいを見せるという事を知らなかった。マレーシアでは一歩道を間違えたら賑わいに気づかぬまま通りすぎる、という事がままあるので油断ならない。
この夜の活気も独特なもので、各国の観光客が歩く中、どこの国か分からない音楽が店先でかかっている。
ヒンドゥーの歴史も色濃く入ってきているので、そっち系の音楽もよくかかっており、自分が今どの国にいるのか錯覚を起こすほどだ。これもマレーシアの魅力かもしれない。
明日からまた語学学校なので早めにフェリーに乗船してバタワースからKLに帰る。
フェリーの中では一人の小さな子供がはしゃいでおり、みんなその子供がはしゃぐ姿を温かく見守っていた。
僕はフェリーから平和なペナン島を眺め、さよならを言う。
KLだけでなく、足を伸ばしてここまで来て良かった。