婚約者が妹を選んだので、私は誓約盤を直すことにした
「エルナ。婚約を解消してほしい」
王宮の小広間でそう言われた時、最初に気になったのは、アルベルトの隣に妹がいたことではなかった。
彼の左手だった。
人差し指にはめた銀の指輪。その縁を走る細い溝が、赤く光っている。
「……もう一度、お願いできますか?」
アルベルトが眉を寄せた。
「聞こえなかったのか?」
「聞こえました。でも、もう一度」
隣に立つ妹――リゼが、わずかにこちらを見た。
目が合う。
すぐに逸らされた。
アルベルトは息を吐いた。
「君との婚約を解消したい。私は、リゼを愛している」
今度は見間違えなかった。
指輪の縁が、赤く明滅した。
一度。
二度。
三度目で消える。
私は椅子から立ち上がった。
「分かりました」
「……それだけか?」
「何か?」
「いや」
拍子抜けしたような顔をしている。
怒鳴られると思っていたのかもしれない。
泣くとでも。
十七年一緒に育った男に、それくらいは期待されていたのだろう。
少し腹が立った。
なので言っておく。
「ちなみに殿下。その指輪、外さないでくださいね」
「これか?」
アルベルトが左手を持ち上げる。
王家の紋章が刻まれた銀環。
「婚約指輪でしょう。もう必要ない」
「必要です」
「なぜ?」
「壊れているので」
リゼが顔を上げた。
アルベルトは指輪と私を見比べる。
「……何?」
「誓約盤につながっている指輪です。さっきから誤作動しています」
「誤作動?」
「ええ」
私は扉へ向かった。
「そちらの方が、婚約より気になります」
背後で何か言われたが、聞かなかった。
婚約は人が決めたものだ。
壊れたなら解消すればいい。
けれど誓約盤は違う。
あれが壊れれば、王都中の契約が壊れる。
王宮地下の作業室は、昔から寒い。
夏でも寒い。
冬はもっと寒い。
合理的な理由があるのだと母は言っていたが、私は単に設計した人間の性格が悪かったのだと思っている。
外套を羽織り、石段を下りる。
壁際を走る銀線に指を触れると、微かな振動が返ってきた。
生きている。
少なくともここまでは。
地下三階。
鉄扉を開ける。
部屋の中央に、黒い円盤が浮かんでいた。
直径は私の身長ほど。
表面を無数の銀線が走り、ときおり淡い光が線から線へ移っていく。
王国誓約盤。
王族の婚姻。
貴族家同士の契約。
大規模な土地売買。
国家間条約。
言葉だけでは済ませられない約束を、ここで記録する。
嘘を暴く道具ではない。
人の心を読む道具でもない。
記録された条件と、実際に行われた手続きを照合する。
それだけだ。
私は工具箱を机に置いた。
細い銀針を一本抜き、円盤の縁へ差し込む。
光が走った。
青。
正常。
二本目。
青。
三本目。
赤。
「やっぱり」
第三層だ。
王家の婚姻記録が集まる領域。
私は椅子を引き寄せた。
母なら十分で終わっただろう。
私なら一時間。
……たぶん。
銀針を一本ずつ差していく。
赤。
青。
青。
赤。
「何これ」
規則性がない。
接触不良なら隣接する線に異常が出る。
魔力不足なら全体が鈍る。
記録石の劣化なら、もっと派手に明滅する。
どれでもない。
もう一度、最初から。
三十分後。
分からない。
一時間後。
もっと分からなくなった。
机に突っ伏した。
「お母様、こういう時どうしてたっけ」
返事はない。
当然だ。
亡くなって七年になる。
でも困った時には、つい口に出してしまう。
母はいつも言っていた。
――故障したと思ったら、まず自分の考えを疑いなさい。
嫌な教えだと思う。
正しいから余計に嫌だ。
私は起き上がった。
誓約盤が壊れている。
そこから疑う。
では、壊れていなかったら?
アルベルトの指輪が赤く光った。
王家の指輪は誓約盤の異常を知らせる。
そう教わった。
本当に?
工具箱の底から古い整備記録を取り出す。
母の字。
細くて、少し右上がり。
何度も読んだ本なのに、その日はなぜか一行が目に止まった。
《端末環は盤面異常のみならず、登録条件と実行内容の不一致にも反応する》
私はしばらく文字を見つめた。
それから椅子を蹴るように立った。
翌朝。
私は王宮の廊下でアルベルトを捕まえた。
「殿下」
「エルナ?」
「指輪を」
「……婚約は昨日解消したはずだが」
「まだ正式には」
手を差し出す。
「指輪を見せてください」
嫌そうな顔をされた。
だが外すなと言ったのを覚えていたらしい。
左手を出す。
私は小さな水晶片を指輪へ当てた。
透明。
「殿下。昨日、何とおっしゃいました?」
「何だ、突然」
「同じことを」
「私はリゼを愛している」
水晶が白く曇った。
赤ではない。
私は息を止めた。
「もう一つ。私とは婚約を解消したい」
「君とは婚約を解消したい」
水晶は透明なまま。
なるほど。
「殿下」
「今度は何だ」
「リゼと結婚したい、と言ってください」
アルベルトの表情が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、見えた。
「……なぜそんなことを」
「お願いします」
沈黙。
やがて彼は言った。
「私はリゼと結婚したい」
水晶が黒く濁った。
アルベルトが息を呑む。
「これは」
「やっぱり」
「何がだ」
「さあ?」
私は水晶片を袋へ戻した。
「そこから先は、殿下のお仕事です」
「待て、エルナ」
「嫌です」
「これは命令だ」
「では王命として書面でお願いします。誓約盤に登録しますので」
黙った。
便利だ。
王族相手には、たまに使える。
その日の午後、リゼが私の部屋へ来た。
ノックは三回。
昔から変わらない。
「入って」
扉が少し開く。
妹は中へ入ってきたが、椅子には座らなかった。
「お姉様」
「うん」
「怒ってる?」
「何に?」
「……私に」
考えた。
「少し」
リゼの肩が下がった。
「でも、思ったほどじゃない」
「どうして」
「何か変だから」
私は机の上に二つの水晶片を置いた。
片方は白く曇っている。
もう片方は黒い。
リゼの顔から血の気が引いた。
分かりやすい。
「殿下はあなたを愛してる」
「……はい」
「でも、結婚したいわけじゃない」
返事がない。
「あなたは?」
「え?」
「殿下を愛してる?」
リゼの口が開いた。
閉じる。
もう一度開く。
「分かりません」
いい答えだと思った。
「じゃあ質問を変える。結婚したい?」
「……したくない」
「そう」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
怒っていたらしい。
自分で思っていたより。
「どうして黙ってたの」
リゼはスカートを握った。
「お父様に言われたから」
やっぱり。
そこまでは予想していた。
「理由は?」
「お姉様が王家に入れば、誓約盤の管理権も王家へ移る。でも私なら移らないって」
意味が分からなかった。
「どういうこと?」
「私、管理技師じゃないから」
そこで初めて、背筋が冷えた。
私は立ち上がった。
「リゼ。父様はいつからそれを?」
「半年くらい前」
「殿下は?」
「知ってる」
「何を?」
「全部」
頭の中で昨日の光がつながった。
アルベルトは私との婚約を解消したい。
本当。
リゼを愛している。
これも本当。
でも結婚したい。
嘘。
父は管理権を王家へ渡したくない。
なら、なぜアルベルトが協力する?
「リゼ」
「はい」
「殿下に何を言われた?」
妹は迷った。
それでも答えた。
「お姉様を王家に入れたら、誓約盤から離れられなくなるって」
私は地下へ走った。
今度は一人ではなかった。
アルベルトもいる。
半ば無理やり連れてきた。
「説明してください」
「何を」
「全部」
「嫌だ」
「では盤に聞きます」
私は銀針を刺した。
第三層。
赤。
さらに奥。
王家の婚姻記録。
一本。
二本。
三本。
四本目で、針先が弾かれた。
「ここ」
銀線をたどる。
古い。
少なくとも百年以上前の継ぎ足しだ。
私は蓋を外した。
中から、細い金線が一本現れた。
銀ではない。
見覚えもない。
「殿下」
返事がない。
振り返る。
アルベルトは苦い顔をしていた。
「知ってるんですね」
「……王家の記録で読んだ」
「これは何です?」
「王家と誓約盤管理家の契約だ」
嫌な予感しかしない。
「続けて」
「王家に嫁いだ管理技師は、王族としてではなく、盤の一部として扱われる」
「意味が分かりません」
「文字通りだ」
アルベルトが金線へ触れた。
光が走る。
「王家の契約には、管理技師の魔力を優先的に使用できる条項がある」
私は自分の指を見た。
それから誓約盤を見る。
「死ぬんですか?」
「すぐには」
「じゃあ、いつ」
「記録では早い者で三十二。長くても五十を越えていない」
笑いそうになった。
もちろん面白いからではない。
あまりにも馬鹿らしかったからだ。
「それで?」
「君との婚約を解消する」
「私に言わずに?」
「言えば君は調べる」
「調べましたね」
「だから言いたくなかった」
「馬鹿なんですか?」
王太子に言っていい言葉ではない。
でも今は知らない。
「リゼを巻き込んで?」
「あいつには結婚する気はないと伝えた」
「それでも噂は立つでしょう」
「私が悪者になればいい」
「格好つけないでください」
アルベルトが黙った。
私は腹が立っていた。
今度ははっきり分かる。
「殿下は私を守ろうとした。父様は管理権を守ろうとした。リゼは家を守ろうとした」
誰も私に聞かなかった。
私が何をしたいのか。
「みんな勝手ですね」
「エルナ」
「黙ってください」
私は金線へ銀針を当てた。
弾かれる。
もう一度。
同じ。
三度目。
少し角度を変えた。
今度は入った。
金線が赤く光る。
その先。
盤の奥。
細い文字列が浮かんだ。
古代文字。
読めない。
ただし数字は読めた。
《王暦二一三年》
「四百年前」
契約が作られた年代。
私はもう一本針を刺した。
別の数字が出る。
《最終更新 王暦二一三年》
「……一度も更新されてない」
アルベルトが眉をひそめる。
「それが?」
「これ、故障じゃないです」
「何?」
「古いだけです」
私は笑った。
今度は本当に少し面白かった。
「お母様なら、多分最初に気づいた」
工具箱を開ける。
「四百年間、誰も直そうとしなかったんですね」
「直せるのか?」
「知りません」
アルベルトが絶句した。
「でも、やったことがないのと、できないのは別でしょう」
まず写す。
金線の経路。
接続先。
魔力の流れ。
翌日。
一箇所変えて失敗した。
王宮西棟の婚姻記録が三分間全部消えた。
その翌日。
違う接続を試して、盤が停止した。
十二秒。
心臓も止まりそうだった。
三日目。
リゼが助手になった。
銀針を渡す役しかできないが、一人よりは早い。
四日目。
アルベルトが地下にパンを持ってきた。
邪魔なので追い返した。
五日目。
母の記録から似た構造を見つけた。
六日目。
違った。
七日目。
ようやく分かった。
金線そのものに意味はない。
問題は接続先だった。
四百年前、誓約盤を維持するには大量の魔力が必要だった。
だから管理技師を王家へ入れ、王都全体の契約網と直結させた。
今は違う。
百年前に増設された補助炉がある。
なのに古い契約だけが残っていた。
技術は変わった。
制度が変わっていなかった。
それだけだった。
「切ります」
地下室に、父とアルベルトとリゼがいた。
念のため国王もいる。
私が呼んだ。
父はものすごく嫌そうだった。
「本当に安全なのか」
「分かりません」
国王が咳払いした。
「そこはもう少し安心させる言い方はないのか」
「ありません」
私は金線を挟んだ。
細い刃。
手が震えている。
怖い。
当然だ。
四百年間、誰も切らなかった線だ。
失敗すれば、王都中の誓約記録が飛ぶかもしれない。
「お姉様」
リゼの声。
見る。
「大丈夫」
「何が」
「失敗しても、私も怒られます」
少し笑った。
「じゃあ一緒に怒られようか」
刃を閉じた。
金線が切れた。
音はしなかった。
光も出ない。
何も起きない。
一秒。
二秒。
三秒。
誓約盤の銀線が一斉に消えた。
父が息を呑む。
国王が何か叫ぶ。
私は盤を見ていた。
まだ。
補助炉の起動には遅延がある。
設計通りなら。
五秒。
六秒。
七秒。
八。
九。
十。
銀線が、一斉に青く輝いた。
地下室が昼のように明るくなる。
誓約盤は静かに回り始めた。
以前より、少しだけ速く。
私は床に座り込んだ。
「……怖かった」
今さら足が震えた。
アルベルトが笑った。
「お前、本当に今言うのか」
「作業中に言ったら怖いでしょう」
「聞いてる方はずっと怖かった」
「知りません」
リゼも座り込む。
泣いていた。
父だけが立っている。
誓約盤を見つめていた。
「これで」
低い声だった。
「管理権はどうなる」
私は父を見る。
最後までそれなのか。
少し悲しくなった。
「変わりません」
父が顔を上げた。
「管理技師は、管理技師です。でも」
机の上の書類を取った。
「王家との婚姻による強制接続条項は廃止します」
国王へ差し出す。
「署名を」
「もう用意していたのか?」
「七日ありましたから」
国王が笑い、羽根ペンを取った。
王宮を出る頃には、夕方になっていた。
アルベルトが門までついてくる。
「エルナ」
「はい」
「婚約のことだが」
「解消しますよ」
「……そうか」
少し寂しそうだった。
腹が立つ。
「何です、その顔」
「いや」
「自分から言ったんでしょう」
「そうだな」
二人で歩く。
昔はよくこうして歩いた。
子供の頃から。
王太子と管理技師の娘になる前から。
「リゼのこと、本当に好きなんですね」
アルベルトが足を止めた。
「水晶はそう言ってました」
「……あれは」
「いいですよ」
たぶん、好きなのだ。
恋なのか。
妹のようなものなのか。
自分でも分かっていないのかもしれない。
そんなものを、誓約盤に決めてもらう必要はない。
「でも、結婚したくはない」
「ああ」
「私とも?」
返事が遅れた。
少しだけ。
「今は」
正直だ。
昔から、こういうところだけは好きだった。
「じゃあ解消しましょう」
「いいのか?」
「はい」
「後悔しない?」
「するかもしれません」
即答すると、アルベルトが目を丸くした。
「するのか」
「十七年ですよ。しない方がおかしいでしょう」
夕暮れの道を、風が抜けていく。
「でも、後悔することと、間違っていることは別です」
母なら何と言うだろう。
たぶん、そんなことより作業記録を書けと言う。
「殿下」
「何だ」
「指輪を」
アルベルトが左手を見る。
「ああ」
外して渡してきた。
私は受け取る。
銀の輪。
もう赤く光ってはいない。
「直ったな」
「はい」
「婚約よりそっちの方が嬉しそうだな」
「失礼ですね」
「違うのか?」
少し考える。
「……今は」
そう答えると、アルベルトは笑った。
半年後。
王都の工房で、新しい誓約端末の試作品を調整していた。
旧式より小さい。
軽い。
そして、婚姻とは一切関係ない。
そこが一番気に入っている。
「お姉様」
リゼが扉から顔を出した。
「殿下が来てる」
「何の用?」
「知らない」
「帰ってもらって」
「そう言ったんだけど」
妹が困った顔で後ろを見る。
アルベルトがいた。
「王太子を門前払いするな」
「仕事中です」
「今日は休みだろう」
「自主的な仕事です」
「もっと悪い」
彼は机の上を見る。
試作品を見つけ、手を伸ばした。
「触らないで」
「まだ何もしてない」
「殿下は壊す顔をしています」
「どんな顔だ」
「そういう顔です」
リゼが笑った。
アルベルトも笑う。
私は試作品を抱えて二人から遠ざけた。
「で、何です?」
「新しい誓約盤ができたと聞いた」
「端末です」
「何が違う」
私は机へ戻した。
「嘘を見抜いたりしません」
「前もそうだっただろ」
「ええ。でも、勘違いする人が多いので」
「それで?」
「約束した条件と、実際に起きていることの違いだけを知らせます」
アルベルトが試作品を見る。
「心は?」
「分かりません」
「愛しているかどうかも?」
「知りません」
「役に立たないな」
私は笑った。
「そういうのは、自分で確かめてください」
窓の外では、工房街の煙突から白い煙が昇っている。
王宮の尖塔は、その向こうだ。
昔より少し遠く見える。
悪くない距離だった。
アルベルトが何か言おうとした。
その横で、リゼがこちらを見る。
私は二人を眺めた。
今度は、誰も指輪をしていない。
だから何を言っても、光るものはない。
嘘かもしれない。
勘違いかもしれない。
明日には気が変わるかもしれない。
それでいい。
人の心まで、直せる必要はない。




