偽りの白旗
その白旗が、地獄への招待状になるとは、誰が想像できただろうか。
ソムラ軍からの停戦交渉の申し入れ。その書状を読んだ瞬間、ハリムは表情を消し、それを指の間で握りつぶした。
「罠だ。奴らは時間を稼ぎ、我々の首を一息に刈り取る算段だ」
「でも、ハリム」
トムルが、包帯の巻かれた手を自らの胸に強く当てて言った。
「戦わずに済む可能性が、一分でもあるなら、それを捨てることはできない。僕が行って、話をしてくる」
セリムが鼻で笑う。「お前、あれだけの血を見て、まだソムラを信じるのか?」
「信じたいんじゃない。『信じる努力』を、止めたくないんだ」
私はその台詞を、帳面に書き留めた。書きながら、胸の奥で鋭い警告音が鳴るのを感じていた。
記録者として島を出てから、私はこの男を誰よりも近くで観察してきた。彼の「善意」が奇跡を起こす瞬間も、確かに見てきた。しかし今この時、私は初めてはっきりとした恐怖を覚えた。――この光は、いつか誰かに利用される。あるいは、この光そのものが、最も残酷な凶器となって彼自身を刺し貫くのではないか。
ハリムの横顔を見た。彼もまた、同じ断崖を予見しているはずだった。しかし、彼は最終的にトムルを止めなかった。なぜか。その冷徹な計算の答えを、当時の私はまだ知る由もなかった。
交渉の場として指定された「月影ヶ丘」。トムルはハリムの忠告を振り切り、最低限の護衛だけを伴ってその頂へと向かった。
待っていたのは、冷ややかな笑みを湛えた老将、公将軍だった。
「トムル殿。あなたの『石投げ』の武勇は聞き及んでいる。だが、覚えておきなさい。国というものは、石ころ一つで動くほど軽くはないのだよ」
公将軍の持つ扇が、不気味にひるがえった。
その一動作を合図に、世界の色が変わった。地鳴りが響き、周囲の草むらが波打つ。黒い鎧を纏った騎兵たちが、地を裂くような蹄の音と共に、伏兵となって現れた。ソムラ国最強の軍団――黒鉄騎兵団。
「罠だ! 退け! トムルを死守せよ!」
ガリムが咆哮し、槍を振るって先陣を食い止める。しかし、あまりにも数が違った。それは戦いというより、鉄の波が人を飲み込む略奪に近い光景だった。
ここから先の記録を、当時の私の筆は追いつかなかった。
後から記憶を血が滲むほど手繰り寄せて書き記す。交渉を信じ、平和への期待を抱いて丘の麓まで降りてきていた民たちが、阿鼻叫喚の渦に放り出された。
蹄の音、剣の風、絶叫。それらが混ざり合い、何一つ区別できない混沌とした「死の塊」になった。
ガリムは三人を弾き飛ばしたが、四人目の刃に右腕を深く斬られた。それでも彼は槍を持ち替え、鬼の形相で五人目に突っ込んでいく。ソリムは高所から矢を放ち続けていたが、ついに矢が尽きた。彼は弓を棍として振るい、血路を拓いた。
テムジンが馬を駆る。自らの背に数本の矢を受けながらも、彼はトムルの腕を掴み、強引に馬の背へと引きずり上げた。言葉はなかった。ただ、主となる男の命を繋ぐことだけに、その魂を燃やしていた。
「やめてくれ! 撃たないでくれ!」
トムルの悲鳴は、鉄の蹄にかき消された。
そして、私は見てしまった。昨日まで焚き火を囲んでいた、あの老女が、冷たい刃の前に音もなく崩れ落ちるのを。蔚山で、血に染まったトムルの手を優しく包んでいたあの手のぬくもりが、泥にまみれていくのを。
トムルの目が、その瞬間に凍りついた。
馬の上で、彼の膝が折れた。体が内側から砕けるように、小さく縮んでいく。泣くことも、叫ぶこともできなかった。ただ、声にならない絶望が、喉の奥で詰まったまま、彼を壊していった。
北へ。峻険な山の奥へ。
ハリムの冷徹な声だけが、私たちの唯一の方位磁針だった。
雪が舞い始め、気温は急速に下がった。足が動かなくなる前に一歩を出し、息が続かなくなる前に肺を動かす。ただそれだけの繰り返しで、私たちは追っ手を振り切った。
谷間に入り、岩陰に身を寄せた時、誰も言葉を発しなかった。
負傷したガリムが右腕を押さえ、テムジンの背には深々と矢が突き刺さっている。ソリムは何度も人数を数え直しては、悲痛な表情で視線を落とした。
私は帳面を開こうとしたが、手が震えて開けなかった。
何を書けばいい? 正確に記せば、それはトムルの甘さが招いた惨劇の記録になる。しかし、あの男が何を救おうとしてあの丘へ向かったのか、その無謀なほどの「光」を書かなければ、この記録は嘘になる。
正直に書くことと、公平に書くことは、時にこれほどまでに矛盾するものなのか。
トムルは岩に背を預け、虚空を見つめていた。雪が顔に落ちても、瞬きすらしない。その魂は、まだあの月影ヶ丘で、民の返り血に濡れたままでいた。
雪の中に半分埋もれた荷車を見つけたのは、瀕死のガリムだった。
西方の商人のものだろうか。散乱した鮮やかな布の中に、一人の女が横たわっていた。テムジンが先に腕を伸ばし、彼女を抱き起こした。
「……生きている」
その一言で、凍りついていた私たちの時間が、わずかに動き出した。
女がゆっくりと目を開けた。
私は、一瞬だけ筆を動かすのを忘れた。
透き通るような白い肌。この大陸では見たこともない、西方由来の顔立ち。そして、その目が――。
深い、深い青だった。
それは夜の海よりも深く、冬の空よりも澄んでいた。その瞳が私を射抜き、次にテムジンを捉え、最後に岩場で死人のように佇むトムルを見た。
恐怖も驚きもない。ただ、そこにある運命を測るような目だった。
チェリョン。
後にトムルの最良の伴侶となり、私たちの旅に「知恵」と「慈悲」をもたらすことになる女性との、これが最悪で、最高の出会いだった。
私はその夜、ようやく帳面を更新した。
今日、私たちはすべてを失った。
トムルの理想は血に染まり、仲間は傷つき、信じた者が命を落とした。
記録者として、私はこれを美化せずに記す義務がある。この凄惨な結果は、トムル・ハウンという男の判断が招いた現実である。
しかし、私は同時にこれも記さなければならない。
この男は今夜、自分の善意が最悪の凶器になる瞬間を目の当たりにした。それでも、彼は逃げなかった。壊れかけても、なお雪の中で空を見上げている。
谷底で拾った青い目の女が、今、焚き火の傍に座っている。
それが救いか、あるいは更なる災いか。筆を持つ私の指は、まだ凍えたままだ。
〔チャリム・ソノの記録 第八帳より〕




