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高句麗の獅子  作者: 水前寺鯉太郎


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7/16

西から吹く嵐

 蔚山ウルサンを離れて三日。私たちの逃避行は、西の峻険な山岳地帯へと入り込んでいた。

 道なき道を歩む一行の足取りは重い。特にトムルは、包帯を巻いた両手をかばいながら、何かに怯えるように足元ばかりを見て歩いていた。あの広場での手のひらの感触が、今も彼を縛り続けているのだ。

「ハリム、本当にこっちで合っているのか?」

 ガリムが槍を杖代わりにつきながら、前方の深い霧を睨む。

「西にはソムラに国を焼かれた者たちが集まっている。彼らの力を借りねば、ヨルム王の懐までは届かない」

 ハリムは扇子で霧を払うような動作を見せたが、その目は笑っていなかった。

「……来たか」

 ソリムが弓を構えるよりも早く、頭上から無数の矢が放たれた。殺すための矢ではない。私たちの足元、数寸の場所を正確に穿つ威嚇の陣だ。

 私は動けなかった。恐怖というより、その精度に息が止まった。これを放った者たちは、殺そうと思えば殺せた。そうしなかった。つまり、見ている。測っている。

 霧の奥から、影の集団が現れた。

 中心に立つのは、男勝りの鎧を纏い、顔に消えない火傷の跡を持つ女だった。パルチザンの首領、セリム。その瞳には、かつてのトムルのような震えは微塵もない。そこにあるのは、冷え切った憎しみだけだった。

 私たちは山腹に隠された野営地へと連行された。

 そこは、家を、家族を、そして名を奪われた者たちの吹き溜まりだった。焚き火の周りに座る者たちの目は、一様に死んでいるか、あるいは復讐という名の毒に侵されている。

 私は筆を走らせようとしたが、指が動かなかった。記録係として三年生きてきたが、記録できないものがあると初めて知った。ここにある絶望は、インクで写し取れるほど浅いものではなかった。文字にした瞬間、何か大切なものが抜け落ちる気がした。だから私はただ、見ていた。

「蔚山で暴れた『石投げの男』というのは、そこの臆病そうな男のことか?」

 セリムが焚き火の向こうからトムルを指差した。

「……そうです」

 トムルが消え入りそうな声で答える。セリムは鼻で笑った。

「笑わせるな。お前がやったのは、ただの奇術だ。そんな甘い手でソムラを追い払ったつもりか? 奴らは明日には倍の人数で戻ってきて、お前が救った民を今度こそ根絶やしにするだろうよ」

「でも、あの時は、ああするしかなかった」

「いいか、石投げ」セリムが身を乗り出し、腰の長剣を抜いてトムルの前に突き立てた。「この大陸を支配しているのは、石ころではない。鉄と、それを振るう冷酷さだ。守りたいなら、殺せ。殺せないなら、最初から希望など見せるな。それがこの地の法だ」

 トムルは黙って、自分の包帯を見つめていた。ハリムが口を挟もうとしたが、それを制したのはトムル自身だった。

「セリムさん。……あなたの目は、とても悲しい目をしています」

 セリムの眉が跳ねた。「黙れ。同情など――」

「同情じゃないんです」トムルは顔を上げた。「僕も、あの広場で石を投げた時、自分の手が怪物になったみたいで怖かった。骨が折れる感触が、ここまで来たんだ」

 自分の胸を、包帯ごと押さえた。

「あなたは今、鉄を持っている。でも、最初に鉄を持ったのは、石ころじゃ届かないくらい遠くまで、心が傷ついたからじゃないですか」

 セリムは答えなかった。焚き火が爆ぜた。その音だけが、二人の間にあった。

「鬼にならなきゃ救えない世界なら」トムルはつづけた。「僕は、鬼にならずに、鬼を止める道を探したい。それが甘いと言われても、まだ、諦めたくないんだ」

「……『甘い』では、足りない言葉だ」セリムの声が、わずかに変わった。怒りではなく、何か古い傷に触れたような、低い声だった。「私にも、かつてそういう時があった。石ころで世界を変えようとした時が」

「あったんですね」

「あった。……それで、私の村は燃えた。石では、火は消えなかった」

 トムルは黙っていた。反論しなかった。慰めなかった。ただ、セリムの言葉を、そのまま受け取った。その受け取り方が、セリムの何かに触れたのだと、私は思う。

 その沈黙を、斥候の叫び声が切り裂いた。

「ソムラの掃討部隊だ! 麓まで来ている! 十五騎!」

 セリムが即座に立ち上がり、剣を翻した。

「野郎ども、迎え撃て! 捕虜はいらん、全員の首を刎ねて街道に並べろ!」

 パルチザンたちが、飢えた狼のような声を上げて武器を取る。

「待ってください!」

 トムルが叫んだ。

「セリムさん、彼らを殺せば、ソムラはさらに大きな軍を差し向ける。復讐が復讐を呼んで、この山もいつか焼かれます。……僕に行かせてください。石一つで、彼らを追い返してみせます」

 セリムはトムルを、狂人を見るような目で見た。

 ハリムが不敵に笑った。「面白い。彼の狂気を試してみる価値はあると思いませんか、首領?」

「……勝手にしろ。死んでも死体は拾わんぞ」

 街道に、ソムラ国の騎兵が近づく。

 トムルは一人で道の真ん中に立った。武器は持っていない。ただ、包帯を巻いた手に、平たい石を一つだけ握りしめて。

 私は離れた岩陰から、固唾を呑んで見守った。怖かった。記録者としてではなく、一人の人間として。あの男が死ぬかもしれないという恐怖だった。私はこの三年で、どうやらこの情けない臆病者のことを、記録対象以上のものとして見るようになっていた。

 ガリムが槍を握り、ソリムが弓を引き絞り、テムジンは嵐の前の静寂に溶け込んでいた。

 ソムラ軍の指揮官が、一人の男が立っているのを見て馬を止めた。

「どけ、農民。死にたいのか」

 トムルは答えなかった。一歩、前へ出た。

 石を、空に向かって投げ上げた。陽光を一瞬だけ受けて、光った。

 次の瞬間、トムルの右腕が動いた。

 二投目の石が直線の軌道を描く。狙いは、空中の石。

 ――パァン。

 乾いた破裂音が山に響いた。空中で石と石がぶつかり、砕けた。礫の雨が、騎兵たちの頭上に降り注いだ。殺傷能力はない。ただの砂利の雨だ。

 しかし、馬が怯えた。そのあまりに精密な、あまりに異質な技術に、騎兵たちの呼吸が一拍、止まった。

「……次の一投は、あなたの馬の目に当たります」

 トムルの声は震えていたが、真っ直ぐに届いた。

「二投目は、あなたの右目に。三投目は、後ろの方の喉に。……外しません。僕の手は、もうそれを知っているから」

 三つの石を、掌の上で静かに転がした。その姿は英雄というより、呪われた道化のようだった。しかし道化の目は、一点も揺れていなかった。

「退け! この男は狂っている!」

 指揮官の直感が、死の気配を察知した。不可解なものへの恐怖が伝染し、十五騎の騎兵は馬を返し、霧の向こうへと消えていった。

 野営地に戻ったトムルを、パルチザンたちは沈黙で迎えた。

 セリムは、突き立てた剣を鞘に収め、吐き捨てるように言った。

「……お前のやり方は、長くは続かない。いつか、石では防げない絶望が来る」

「その時は、また考えます」

 トムルは力なく笑い、その場にへたり込んだ。

 私は帳面を開いた。ようやく、書けた。

『西の嵐は、一人の男の痩せた肩に押し留められた。』

『しかし、セリムの言う通り、これは一時的な奇跡に過ぎない。』

『ハリムはこの無血の勝利すらも、民衆を煽動するための神話として利用しようとしている。私にはそれが分かる。そしてトムルには、おそらく分かっていない。』

『それでいいのかもしれない。純粋であることが、この男の武器なのだとすれば。しかし純粋なものは、いつか必ず傷つく。』

『私は記録者だ。傷つく前に止めることも、嘆くことも、私の仕事ではない。』

『それでも今夜、私は少しだけ、筆を置きたい気分だった。』

 トムルの包帯には、新しい血が滲んでいた。

 私たちは今夜、パルチザンと共に火を囲む。それは、大陸を二分する大きなうねりが、一つの川に合流した瞬間でもあった。

〔チャリム・ソノの記録 第七帳より〕

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