西から吹く嵐
蔚山を離れて三日。私たちの逃避行は、西の峻険な山岳地帯へと入り込んでいた。
道なき道を歩む一行の足取りは重い。特にトムルは、包帯を巻いた両手をかばいながら、何かに怯えるように足元ばかりを見て歩いていた。あの広場での手のひらの感触が、今も彼を縛り続けているのだ。
「ハリム、本当にこっちで合っているのか?」
ガリムが槍を杖代わりにつきながら、前方の深い霧を睨む。
「西にはソムラに国を焼かれた者たちが集まっている。彼らの力を借りねば、ヨルム王の懐までは届かない」
ハリムは扇子で霧を払うような動作を見せたが、その目は笑っていなかった。
「……来たか」
ソリムが弓を構えるよりも早く、頭上から無数の矢が放たれた。殺すための矢ではない。私たちの足元、数寸の場所を正確に穿つ威嚇の陣だ。
私は動けなかった。恐怖というより、その精度に息が止まった。これを放った者たちは、殺そうと思えば殺せた。そうしなかった。つまり、見ている。測っている。
霧の奥から、影の集団が現れた。
中心に立つのは、男勝りの鎧を纏い、顔に消えない火傷の跡を持つ女だった。パルチザンの首領、セリム。その瞳には、かつてのトムルのような震えは微塵もない。そこにあるのは、冷え切った憎しみだけだった。
私たちは山腹に隠された野営地へと連行された。
そこは、家を、家族を、そして名を奪われた者たちの吹き溜まりだった。焚き火の周りに座る者たちの目は、一様に死んでいるか、あるいは復讐という名の毒に侵されている。
私は筆を走らせようとしたが、指が動かなかった。記録係として三年生きてきたが、記録できないものがあると初めて知った。ここにある絶望は、インクで写し取れるほど浅いものではなかった。文字にした瞬間、何か大切なものが抜け落ちる気がした。だから私はただ、見ていた。
「蔚山で暴れた『石投げの男』というのは、そこの臆病そうな男のことか?」
セリムが焚き火の向こうからトムルを指差した。
「……そうです」
トムルが消え入りそうな声で答える。セリムは鼻で笑った。
「笑わせるな。お前がやったのは、ただの奇術だ。そんな甘い手でソムラを追い払ったつもりか? 奴らは明日には倍の人数で戻ってきて、お前が救った民を今度こそ根絶やしにするだろうよ」
「でも、あの時は、ああするしかなかった」
「いいか、石投げ」セリムが身を乗り出し、腰の長剣を抜いてトムルの前に突き立てた。「この大陸を支配しているのは、石ころではない。鉄と、それを振るう冷酷さだ。守りたいなら、殺せ。殺せないなら、最初から希望など見せるな。それがこの地の法だ」
トムルは黙って、自分の包帯を見つめていた。ハリムが口を挟もうとしたが、それを制したのはトムル自身だった。
「セリムさん。……あなたの目は、とても悲しい目をしています」
セリムの眉が跳ねた。「黙れ。同情など――」
「同情じゃないんです」トムルは顔を上げた。「僕も、あの広場で石を投げた時、自分の手が怪物になったみたいで怖かった。骨が折れる感触が、ここまで来たんだ」
自分の胸を、包帯ごと押さえた。
「あなたは今、鉄を持っている。でも、最初に鉄を持ったのは、石ころじゃ届かないくらい遠くまで、心が傷ついたからじゃないですか」
セリムは答えなかった。焚き火が爆ぜた。その音だけが、二人の間にあった。
「鬼にならなきゃ救えない世界なら」トムルはつづけた。「僕は、鬼にならずに、鬼を止める道を探したい。それが甘いと言われても、まだ、諦めたくないんだ」
「……『甘い』では、足りない言葉だ」セリムの声が、わずかに変わった。怒りではなく、何か古い傷に触れたような、低い声だった。「私にも、かつてそういう時があった。石ころで世界を変えようとした時が」
「あったんですね」
「あった。……それで、私の村は燃えた。石では、火は消えなかった」
トムルは黙っていた。反論しなかった。慰めなかった。ただ、セリムの言葉を、そのまま受け取った。その受け取り方が、セリムの何かに触れたのだと、私は思う。
その沈黙を、斥候の叫び声が切り裂いた。
「ソムラの掃討部隊だ! 麓まで来ている! 十五騎!」
セリムが即座に立ち上がり、剣を翻した。
「野郎ども、迎え撃て! 捕虜はいらん、全員の首を刎ねて街道に並べろ!」
パルチザンたちが、飢えた狼のような声を上げて武器を取る。
「待ってください!」
トムルが叫んだ。
「セリムさん、彼らを殺せば、ソムラはさらに大きな軍を差し向ける。復讐が復讐を呼んで、この山もいつか焼かれます。……僕に行かせてください。石一つで、彼らを追い返してみせます」
セリムはトムルを、狂人を見るような目で見た。
ハリムが不敵に笑った。「面白い。彼の狂気を試してみる価値はあると思いませんか、首領?」
「……勝手にしろ。死んでも死体は拾わんぞ」
街道に、ソムラ国の騎兵が近づく。
トムルは一人で道の真ん中に立った。武器は持っていない。ただ、包帯を巻いた手に、平たい石を一つだけ握りしめて。
私は離れた岩陰から、固唾を呑んで見守った。怖かった。記録者としてではなく、一人の人間として。あの男が死ぬかもしれないという恐怖だった。私はこの三年で、どうやらこの情けない臆病者のことを、記録対象以上のものとして見るようになっていた。
ガリムが槍を握り、ソリムが弓を引き絞り、テムジンは嵐の前の静寂に溶け込んでいた。
ソムラ軍の指揮官が、一人の男が立っているのを見て馬を止めた。
「どけ、農民。死にたいのか」
トムルは答えなかった。一歩、前へ出た。
石を、空に向かって投げ上げた。陽光を一瞬だけ受けて、光った。
次の瞬間、トムルの右腕が動いた。
二投目の石が直線の軌道を描く。狙いは、空中の石。
――パァン。
乾いた破裂音が山に響いた。空中で石と石がぶつかり、砕けた。礫の雨が、騎兵たちの頭上に降り注いだ。殺傷能力はない。ただの砂利の雨だ。
しかし、馬が怯えた。そのあまりに精密な、あまりに異質な技術に、騎兵たちの呼吸が一拍、止まった。
「……次の一投は、あなたの馬の目に当たります」
トムルの声は震えていたが、真っ直ぐに届いた。
「二投目は、あなたの右目に。三投目は、後ろの方の喉に。……外しません。僕の手は、もうそれを知っているから」
三つの石を、掌の上で静かに転がした。その姿は英雄というより、呪われた道化のようだった。しかし道化の目は、一点も揺れていなかった。
「退け! この男は狂っている!」
指揮官の直感が、死の気配を察知した。不可解なものへの恐怖が伝染し、十五騎の騎兵は馬を返し、霧の向こうへと消えていった。
野営地に戻ったトムルを、パルチザンたちは沈黙で迎えた。
セリムは、突き立てた剣を鞘に収め、吐き捨てるように言った。
「……お前のやり方は、長くは続かない。いつか、石では防げない絶望が来る」
「その時は、また考えます」
トムルは力なく笑い、その場にへたり込んだ。
私は帳面を開いた。ようやく、書けた。
『西の嵐は、一人の男の痩せた肩に押し留められた。』
『しかし、セリムの言う通り、これは一時的な奇跡に過ぎない。』
『ハリムはこの無血の勝利すらも、民衆を煽動するための神話として利用しようとしている。私にはそれが分かる。そしてトムルには、おそらく分かっていない。』
『それでいいのかもしれない。純粋であることが、この男の武器なのだとすれば。しかし純粋なものは、いつか必ず傷つく。』
『私は記録者だ。傷つく前に止めることも、嘆くことも、私の仕事ではない。』
『それでも今夜、私は少しだけ、筆を置きたい気分だった。』
トムルの包帯には、新しい血が滲んでいた。
私たちは今夜、パルチザンと共に火を囲む。それは、大陸を二分する大きなうねりが、一つの川に合流した瞬間でもあった。
〔チャリム・ソノの記録 第七帳より〕




