「蔚山(ウルサン)の鉄と血」
蔚山の町が見えた時、私は筆を持つ手を止めた。
煙が上がっていた。一本ではない。町のあちこちから、黒く、淀んだ煙が空を汚している。風向きが変わるたび、こちらまで届くのは焦げた木の臭いと、その奥に混じる、もっと重く、粘り気のある「死」の臭いだった。
ガリムが低く、獣が唸るような声で言った。
「……遅すぎたか」
ハリムは答えなかった。ただ、その指先が、開こうとした扇子の骨を強く握りしめていた。
町の入口で、私たちは崩れかけた土壁の物陰に身を潜めた。
中央広場には、逃げ場を失った民が集められていた。老人、女、子供。泣き叫ぶ気力すら奪われた彼らを、ソムラ国の正規兵が幾重にも取り囲んでいる。
中心に築かれた一段高い処刑台の上。そこに、ヨルム王の懐刀、赤い飾り羽根を兜に戴く将軍が立っていた。微動だにしない。それは、他者の命を「物」として扱うことに慣れきった、支配者の静寂だった。
台の端には、泥にまみれた男たちが三人、後ろ手に縛られ、膝をつかされていた。
「見せしめだ」ハリムが氷のような声で言った。「抵抗すればどうなるか、町全体の記憶に刻もうとしている」
「……行くぞ」
ガリムが槍を握り、立ち上がろうとした。だが、ハリムの手が、万力のような力でその腕を制した。
「待て」
「離せ、ハリム。目の前で殺されるんだぞ!」
「死ぬのはお前だ。兵は五十を超えている」ハリムの瞳には、冷酷なまでの計算が宿っていた。「お前の槍がいかに速かろうと、五十の盾を相手に突っ込めば、十歩進む前に串刺しだ」
「じゃあ、このまま見ていろと言うのかッ!」
「今は、そうだ」
ガリムの顔が怒りで歪み、ソリムが沈痛な面持ちでその肩に手を置いた。テムジンは広場を凝視したまま、無言で愛馬のたてがみを撫でている。
私は、誰も見ていなかった。
ただ一人、トムルだけを見ていた。
彼は、縛られた男たちを見つめていた。震えていた。いつもの、あの情けない震え方だった。唇が白くなり、膝が笑っている。
しかし、その目だけが違った。
恐怖の底で、何かが凪いでいた。第一話のあの浜辺で、命を救うために石を選んでいた時の、あの静かな狂気にも似た光。
「ハリム」
トムルが、振り返らずに言った。
「作戦を立てて」
ハリムが、わずかに息を呑む。
「ガリムさん、力を貸してください。チャリムは、下がっていて……。今の僕を、今の彼らを、記録してほしい」
私は何も言えなかった。彼の背中は小さく、相変わらず震えていたが、その一歩は、誰よりも深く地面を捉えていた。
ハリムが短く息を吐き、扇子を鋭く開いた。
「……聞け。時間は五分もないぞ」
作戦は、戦というよりは「外科手術」に近かった。
ハリムの指揮が、それぞれの「個」に役割を与える。
「始まりは、トムルだ」
トムルが、深く、静かに頷いた。
最初の石が、空気を切り裂いた。
広場の東端に掲げられた松明。火皿を正確に撃ち抜かれ、炎が消え失せる。
兵士たちが虚を突かれた瞬間、二投目。今度は西端の松明が砕け散る。
三投目は、台の上の将軍に吸い込まれた。兜の赤い飾り羽根が弾け飛び、衝撃で将軍がよろめく。広場に動揺が走る。
「化け物か……?」誰かが呟いた。
四投目。副官が掲げようとした号令旗の柄。木材が砕ける音と共に旗が倒れ、ソムラ軍の命令系統が一瞬、死んだ。
「今だッ!」
ガリムが咆哮と共に飛び出した。槍が風を巻き起こし、盾の列をなぎ倒す。だが、彼は深追いしない。ハリムが指示した「弧」を描き、敵の注意を引きつけながら広場を翻弄する。
高所からは、ソリムの矢が松明を一本ずつ狙撃し、広場を急速に闇へと沈めていく。
テムジンの馬が、闇の中で咆哮を上げた。広場の外周を縦横無尽に駆け巡り、幾重にも重なる蹄の音で「包囲された」という錯覚を敵の脳裏に植え付ける。
その混乱の渦中、トムルは走った。
石を投げ続け、敵の視線を散らしながら、彼は処刑台の男たちの元へ辿り着いた。手に持った鋭い石で、縄を断つ。三人のうち、一人は自力で走れた。一人は引きずり、最後の一人はその痩せた肩に担ぎ上げた。
私は物陰から、そのすべてを見ていた。
書けなかった。震えが筆に伝わり、文字にならなかった。
だから私は、この光景をすべて網膜に焼き付けた。
撤退は、鮮やかで、残酷だった。
町の外れに出た時、ガリムは肩で息をしながらも、「やった」という顔で笑っていた。
「見たか、あの将軍の面を! ざまあ見やがれ!」
ソリムが全員の無事を確認し、テムジンは後方に追手がないことを静かに告げる。
ハリムが扇子を閉じた。
「……上出来だ」
それは、あの男にとって最大限の賞賛だった。私はトムルを探した。
彼は少し離れた草むらに、力なくしゃがみ込んでいた。
「トムルさん」
近づいた私は、言葉を失った。
彼の両手のひらが、どろどろの血で濡れていた。
何度も、全霊を込めて石を放ち続けた摩擦で、皮が剥がれ、肉が露出していたのだ。それに気づかぬほど無心に投げ続けていたのだろう。新しい血が、乾きかけた石の粉と混じり合っていた。
トムルは自分の手を見つめていた。
「……チャリム。僕は、人ではないものを投げたみたいだ」
声が、枯れていた。
「石を投げたんです。みんなを救うために」
「そうだけど」トムルは手を握り、また開いた。「石が、誰かの体に当たった時。骨が砕ける重さが、この手のひらまで響いてきたんだ。嬉しくなかった。怖かった。でも……止められなかった」
彼は、血のついた手を自分の胸に当てた。
「この痛み、一生、消えない気がする」
助け出された民の一人――老いた女が、よろよろとトムルに歩み寄った。彼女は言葉にならない声を漏らしながら、トムルの血塗られた手を、自らの汚れた両手で優しく包み込んだ。
トムルの顔が、子供のように歪んだ。
泣かなかった。泣けば、この痛みが消えてしまうと思ったのかもしれない。
私はその夜、焚き火の光を頼りに、ようやく筆を取った。
今日、トムル・ハウンは初めて、本物の「戦」をした。
勝った。震えながら、血を流しながら、それでも最後まで石を投げきった。
彼が投げたのは、石だけではなかった。自らの平穏と、無垢な魂の一部を、彼はあの広場に投げ捨ててきたのだ。
その犠牲の上に、三つの命が繋がれた。
焚き火の向こうで、ガリムがテムジンに身振り手振りで語りかけ、ソリムは静かに空を見上げていた。ハリムは、どこから入手したのか、新しい書状を険しい目で見つめている。
トムルは、包帯を巻かれた手を胸の上に乗せたまま、浅い眠りに落ちていた。
私は、焚き火の脇に置かれた「投げられなかった最後の石」を見つめた。
そこには、誰のものでもない、王となる男の血が染み込んでいた。
〔チャリム・ソノの記録 第六帳より〕




