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高句麗の獅子  作者: 水前寺鯉太郎


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板門店(ハンモン)の羊

 ハンモンの関が近づくにつれて、街道の色が禍々しく変容していった。

 ただ踏み固められているのではない。無数のひづめによって蹂躙され、深く抉られているのだ。ひっくり返った荷車、散乱する家財、そして所々に広がる黒く焦げた地面。それは、暖を取るための焚き火の跡ではない。何かが無慈悲に、家屋ごと焼き払われた死の痕跡だった。

 ガリムが槍の柄を、軋むほど強く握り直した。

「……ここから先は、法がない。力だけが道理の場所だ」

「正確には」ハリムが、扇子を閉じながら訂正した。「法はある。略奪者の法だ」

 街道の先、丘の麓に陣が見えた。ソムラ国の正規兵たちだ。風に棚引く四本の軍旗。配置から察するに、十人は下らない。私は逃げ出したい衝動を抑え、震える手で筆を走らせた。記録することで、かろうじて恐怖を「自分事」から「対象」へと引き離すことができた。

 トムルだけは、相変わらず周囲の景色をぼんやりと眺めていた。

「チャリム、見てください。あの山、熊が寝ているみたいで面白いですよ」

「前を見ろ」ガリムが苛立ちを隠さずに吐き捨てた。

「見てますよ。山を」

「前を、敵を見ろと言っているんだ!」

 揉め事は、街道の脇にある枯れた草地で起きていた。

 最初は、聞き慣れぬ響きの怒号だった。言葉が聞き取れない。強い訛りか、あるいは北の言葉か。近づくにつれて、その殺伐とした輪郭が浮き彫りになる。

 兵士が三人、一人の青年を包囲していた。

 青年は若かった。二十歳前後だろうか。革の外套がいとうを纏い、襟元には草原の民特有の緻密な刺繍が施されている。北方遊牧民だ。彼の背後では、十頭ほどの羊とヤギが、本能的な恐怖から互いに寄り添い合い、固まっていた。

 兵士の一人が、突き出した剣で羊の群れを指差した。青年が激しく首を振る。兵士がさらに声を荒らげる。

「通行税だろうな」ハリムが低く呟いた。「あの羊をすべて差し出せと言っている。ソムラの横暴もここまで来たか」

「羊がなくなったら、あの人は冬を越せません。生きていけない……」

「分かっている。だが、今は数が悪すぎる。下手に動けば全員が――」

 ハリムの冷徹な状況判断を、爆音のような静寂が打ち破った。

 兵士の一人が、痺れを切らしたように剣を高く掲げた。略奪ではない、殺戮の意志。見せしめとして、羊を一頭、青年の目の前で斬り捨てるつもりなのだ。

 その瞬間、トムルが走っていた。

 ハリムが唇を噛むよりも、ガリムが武器を構えるよりも、私が悲鳴を上げるよりも速く。

 彼に打算はなかった。戦略も、勝算もなかった。ただ、目の前で無垢な命が失われようとしていることへの、激しい「生理的な拒絶」が、彼の臆病な心を凌駕したのだ。

 石が放たれた。

 一投目。剣を振り上げた兵士の手首。

 鈍い骨鳴りの音と共に、剣が砂の上に落ちた。

 二投目。棹立ち(さおだち)になった馬の、その蹄のわずか手前の地面。

 絶妙な弾みで跳ねた石が馬を驚かせ、騎乗していた兵士を落馬させる。

 三投目。援護しようとした兵士の、弓を握る指先。

 弾かれた手が虚空を掴み、武器が地面を叩く。

 四投目。怯んで後退りした兵士の、その足元にある石畳の継ぎ目。

 石が予測不能な軌道で跳ね上がり、兵士のすねを容赦なく打ち据えた。

 五投目は、必要なかった。

 残された兵士たちは、見えない巨大な圧力に圧されるように、たじろぎ、後退った。

 トムルは荒い肩息を吐きながら、そこに立っていた。懐から次の石を取り出し、手の平に握り締めたままで。

「……あの、馬鹿め」ハリムが額を抑えた。

「完全に目立ちましたね」

「ああ、最悪だ。だが……」

 ガリムが槍を構えて突っ込もうとしたが、ハリムの扇子がそれを制した。

「待て、ガリム。もう終わっている」

 兵士たちは、もはや戦意を喪失していた。彼らの目には、トムルの背後に「見えない投石の雨」が何百発も控えているように見えたのだろう。隊列を崩し、彼らは逃げるように陣の方へと戻っていった。

 青年は呆然としていた。

 羊たちが主人の足元に擦り寄り、鳴き声を上げる。青年は震える手でその一頭を撫で、自分を救った「異国の男」を見上げた。

 トムルが近づく。彼は、さっきまでの武人の気配をすっかり失い、困ったような、いつもの情けない笑顔を浮かべた。

「大丈夫でしたか。……よかった。本当によかった」

 言葉は通じない。だが、トムルの声の温かさは、極寒の北の大地から来た青年の心に、確かに届いたようだった。

 翌朝、私たちが野営地の火を落としていると、そこに彼がいた。

 羊の群れを連れたまま、少し離れた場所で焚き火を見つめて座っている。

 ガリムが私に耳打ちした。「おい、あの北方人、ずっとついてくる気か」

「……言葉は通じませんが、恩を返したいのでしょう」

 トムルが少年のように屈み込み、青年の横に座った。二人の間に言葉はない。ただ、焚き火のぜる音だけが流れていた。

 トムルが自分の胸を叩き、「トムル」と言った。

 青年もまた、自分の胸に手を当て、深い声で答えた。

「――テムジン」

 それだけだった。しかし、テムジンの草原のように広い瞳が、トムルの磨き上げられた石を捉えた。

 私は、朝の光が差し込む中で筆を執った。

『テムジン。北方遊牧民。言葉少なく、その背中には荒野の孤独がある。』

『昨夜、彼がトムルの中に何を見たのかは分からない。だが、最強の騎馬民族の青年は、この臆病な男の隣に座り続けることを選んだ。』

『それで十分だろう、今は。』

 ハリムが私の帳面を盗み見て、不敵に笑った。

「伝説が、勝手に増えていくな、チャリム」

「……私は事実を書いているだけです」

 ソリムが遠くの山嶺を睨み、ガリムはテムジンの羊に近づこうとして無言の威圧感に押し返されていた。

 トムルは、また新しい石を洗っていた。

 朝陽が、ハンモンの関の向こう側から、私たちの新しい旅路を照らし始めていた。

〔チャリム・ソノの記録 第五帳より〕

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