街道の赤と緑
蔚山へと続く街道は、死んだように静まり返っていた。
プサンの喧騒が遠ざかるにつれて、世界から色彩が抜け落ちていくような感覚がある。残っているのは、乾いた風の音と、足元で砂利が擦れる音。そして、どこか遠くで鳴く、ひどく頼りない鳥の声だけだった。
私は歩きながら、揺れる筆を懸命に動かしていた。道端に点在する、主を失い腐りかけた荷車。泥にまみれた子供の靴。ソムラ国の軍勢が通り過ぎた後の風景には、一様に「略奪」という名の爪痕が刻まれている。それを記録しておくことが、私にできる唯一の抵抗だった。
「あ、見てください、あの花」
トムルが不意に足を止めた。
赤茶けた岩の割れ目から、橙色の小さな花が一輪、震えるように咲いていた。
「健気だなあ。こんなところで一人ぼっちで」
「歩いてください」ハリムが冷淡に言い放つ。
「でも、誰かに踏まれたら可哀想じゃないか。少し、石で囲ってあげようか……」
「踏まない。誰もこんな花に用はない。歩け」
ハリムの横顔には、一切の余裕がなかった。扇子を開いたまま、その視線は道でも花でもなく、街道の両脇に広がる深い藪を、機械的な正確さで走っている。
私も耳を澄ませた。
――鳥の声が、消えていた。
さっきまで空を舞っていたはずの気配が、不自然なほどに沈み込んでいる。私は筆を止め、帳面を強く握りしめた。
刹那、赤が爆ぜた。
藪が内側から弾け飛んだ、と思った瞬間には、男はすでに街道の真ん中に立っていた。
赤い鉢巻。赤い上着。全身から噴き出すような殺気を纏った、獣のような男だった。肩幅が広く、地面に突き立てた長槍の穂先には、迷いという名の曇りが一切ない。
「止まれッ!」
地鳴りのような声だった。
「ソムラの犬どもめ。この街道が通れると思うなよ!」
私は硬直した。ハリムは静かに扇子を閉じる。そしてトムルは、まだ花を見ていた。
「あ、トムル、花は後で――」
「え? あ、何、何が起きたの……」
槍が放たれた。速い。
それは訓練された兵法の速さではなく、積もり積もった怨嗟が速度へと変換されたような、剥き出しの牙だった。狙いはハリムだ。三人の中で最も身なりが良く、最も「搾取する側」の風貌をした男。
ハリムが半歩退く。槍の鋭い穂先が、漆黒の羽織を掠めた。
「待ってくれ!」
トムルが叫んだ。
「待ってください、話し合いましょう! 僕たちはソムラの人間じゃなくて、その、島から逃げてきただけで――」
「黙れッ、死ねッ!」
男の槍が、今度は横に薙がれた。低く、雑草を根こそぎにするような一撃が、トムルの腹部を襲う。
トムルが跳んだ。
後ろではなく、あえて前へ。槍の間合いの内側へ、弾かれたように踏み込んだのだ。槍という得物は、内懐に入り込まれれば、その長さが逆に枷となる。トムルの肉体は、思考よりも速く、理屈よりも深く、その「武の定理」をなぞっていた。
しかし、彼は攻撃をしなかった。
懐まで入り込み、相手を仕留める絶好の機にありながら、トムルは情けなく両手を上げた。
「待って! 本当に、僕は戦いたくないんだ!」
「……舐めるなッ!」
男の左手が槍を放した。同時に、腰の短刀へと手が伸びる。瞬時の判断。この男は、死線を幾度も潜り抜けてきた野良武者だ。
短刀の切っ先がトムルの喉を捉えようとした、その時。
鋭い弦の音が響いた。
男の手首の、わずか数寸先の地面に、黒い羽の矢が深々と突き刺さった。
街道に、冷たい沈黙が降りる。
「――ガリム」
声がした。低く、温度を欠いた、冬の井戸の底から響くような声だ。
街道脇の古木から、一人の男が舞い降りた。
緑だった。鎧も、羽織も、すべてが森の影に溶け込むような深い緑。男は背の弓を収めながら、砂埃一つ立てずに歩み寄ってきた。
「ガリム、やめろ。無駄だ」
「ソリム、邪魔をするな。こいつらはソムラの――」
「違う。ソムラではない」
ガリムと呼ばれた男が、忌々しげに顔を歪めて黙り込んだ。
ソリムと呼ばれた男は、ハリム、私、そしてトムルを順に検分した。その瞳は、感情を排した天秤のようだった。
「足の運びが違う。岩場と砂に慣れすぎている。島の人間か」
ハリムが再び扇子を開いた。「……よく分かったな」
「ソムラの徴税隊は馬を潰すような歩き方はしない。それに――」ソリムはガリムを一瞥した。「徒歩の三人組を狙って、何が奪える。今の俺たちに必要なのは、そんな端金ではないはずだ」
ガリムは短刀を収めたが、その視線はなおもトムルを射抜いていた。
「……どうせ、足手まといの臆病者だ。放っておけ」
その夜、私たちは街道から外れた林の中で、焚き火を囲んだ。
ガリムは終始不機嫌そうに槍を磨き、トムルを睨みつけていた。
「お前、さっき俺の槍を避けたな」
「あ、はい……体が勝手に」
「なんで反撃しなかった。あの瞬間、俺の喉は空いていたはずだ」
「怖かったからです」
トムルは正直に答えた。「あなたが本当に速くて、恐ろしい目をしていたから。戦うなんて、そんな……」
「……ヘッ。本物の臆病者か」
ガリムは呆れたように鼻を鳴らした。「こんな奴が大陸を歩いているとは、世も末だな」
トムルは特に言い返すこともなく、懐から昨日拾ったばかりの平たい石を取り出した。それを柔らかな布で、愛おしそうに磨き始める。その様子は、戦士というよりは、宝物を愛でる子供のようだった。
だが、隣で静かに矢の手入れをしていたソリムだけが、その石を一瞥し、わずかに眉を動かした。彼は気づいたのかもしれない。その石が、トムルの手の中で、まるで命を宿したかのような威圧感を放っていることに。
ハリムが口を開いた。
「二人とも、腕は超一流だ。だが、この荒野で行き場を失っているようだな」
「……何が言いたい」
「この男に、賭けてみる気はないか、という話だ」ハリムが扇子でトムルを指した。
ガリムが再び、腹の底から笑い出した。
「王だと? 震えながら両手を上げていた、あの臆病者がか? 冗談は顔だけにしておけ」
「至って正気だ」
ハリムの目は笑っていなかった。
深夜。焚き火の火が小さくなった頃、それは現れた。
草を踏む、規則正しい音。ソムラ国の偵察隊だ。四人、月明かりを避けるようにして近づいてくる。
ガリムが反射的に槍を掴み、立ち上がろうとした。
だが、その袖をトムルが引いた。
トムルは何も言わなかった。ただ、静かに首を横に振り、指を口に当てた。
そして彼は、私とハリムを指差し、それから自分の胸を指した。
『火を消せ。二人を隠してくれ。僕が引きつける』
声のない会話。ガリムは「正気か、殺されるぞ」という顔をしたが、トムルの瞳に宿る、あの「石を洗う時」と同じ静かな光に圧され、動けなくなった。
トムルは立ち上がり、偵察隊とは逆の方向へ石を一つ投げた。
――カラン。
茂みで鳴った小さな音が、偵察隊の意識を一瞬で奪う。続けて、さらに遠くへもう一つ。
偵察隊が動いた。音の源へと、四人が吸い込まれるように消えていく。その五分後、トムルは息一つ乱さずに戻ってきた。
「……何故だ」ガリムが絞り出すように聞いた。「なぜ、自分を的にした」
「みんなに、怪我をしてほしくなかったので。戦えば、誰かが血を流すでしょう」
トムルは再び座り込み、石を磨き始めた。
「それに、僕は逃げるのだけは、得意ですから」
ガリムはそれ以上、何も言わなかった。
焚き火の傍らで、ソリムが低く呟いた。
「ガリム。背中を預けるに足る男というのは、必ずしも最強の戦士である必要はないのかもしれん」
私はその言葉を、逃さず帳面に記した。
今夜、二人の『武』が加わった。
一人は呆れ、一人は見極めようとしている。
だが、彼らの目は、確かに入れ替わったのだ。
夜風が、橙色の花を揺らしていた。
〔チャリム・ソノの記録 第四帳より〕




