釜山的交易都市
ナンド島から小舟で揺られること数日。
水平線の向こうから立ち上がった大陸の姿は、島育ちの私にとって「地面」という概念を根底から覆すものだった。
どこまでも続く灰色の岸壁。その隙間にびっしりと張り付くように築かれた港町――プサン。
近づくにつれて、音が増えた。臭いが増えた。人が増えた。そこはもはや「町」ではなく、何万という欲望が同時に息をし、蠢いている巨大な生き物のようだった。
トムルは船縁にしがみついたまま、顔を白くしていた。
「……チャリム」
「はい」
「あれ、全部、人か?」
「そうですね」
「多くないか。あんなにいて、ぶつからないのか」
「多いですね。ぶつかるでしょうね」
しばらくの沈黙。トムルは震える声で漏らした。
「……帰りたい」
「帰れません」
上陸した瞬間、トムルは案の定、人波に呑まれた。
「す、すみません、あの、通してください、そこ、足が――わっ!」
荷を担いだ巨漢に弾かれ、香料売りの屋台に肘を引っ掛け、立ち止まった拍子に背後から三人に追突される。謝って、謝って、また謝る。私は三歩後ろを歩きながら、記録帳に筆を走らせた。
『英雄、大陸に立つ。ただし、その姿は波に揉まれる海藻のごとし』
少し良心が痛んだが、消さなかった。
「チャリム、帰りたい……。ここ、地面が動いてないのに、船より酔うよ」
「精神的な三半規管の問題かと思います。耐えてください」
トムルがまた何かにぶつかった。今度は泥にまみれた浮浪児だった。少年はするりとトムルの袖から離れ、雑踏の中へ消えていく。
「あ、ちょっと――財布」
「最初から持っていないでしょう、我々には」
「そうだった。……なんだか、悲しくなってきたよ」
情けない。これが後に一国を築く男の第一歩かと思うと、記録者として筆を握る手がわずかに震えた。決して笑いを堪えているわけではない。
「相変わらずだな、トムル」
喧騒を突き抜けて、頭上から澄んだ声が降ってきた。
港を見下ろす茶楼の特等席。黒い羽織をゆったりと纏い、扇子で口元を隠した一人の男が座っていた。
切れ長の目が、ゆっくりと動く。私たちを、いや、港全体を盤面上の駒のように品定めするその眼差し。
「……ハリムか?」
トムルの顔が輝いた。三年ぶりの幼馴染との再会。感動の場面になるかと思いきや、ハリムは扇子を畳んで、冷然と言い放った。
「三日遅い」
トムルの顔が固まった。
「潮の流れを読めなかったか。それとも島を出る決心にそれだけかかったか」ハリムは立ち上がり、階段を下りてきた。「どちらにせよ、私の計算より三日分の『価値』が損なわれた。まずそれを詫びろ」
「……ただいま、ハリム」
「遅かった、と言っている」
トムルは力なく口を閉じた。私はハリムを観察した。三年前、島にいた頃の彼はもっと柔和な秀才だった。だが今、目の前にいる男は、大陸の乾いた空気に余分な情緒を削ぎ落とされた、抜き身の剃刀のような鋭さを放っている。
「ついてこい。お前たちの運賃くらいは稼いでもらう」
連れられた先は、ソムラ国の役人が管理する検問所の裏手だった。
山と積まれた荷箱。その多くに、見覚えのあるナンド島の産地印が押されていた。奪われた故郷の断片を前に、私の胸に苦い怒りが込み上げる。だが、ハリムの目は冷徹だった。
「あの積荷の中に、私が必要な書状が一通ある。力ずくで奪えば、プサンの役人すべてを敵に回すことになる。役人の目を外せ。トムル、お前の出番だ」
「……え、僕が?」
「お前のその顔を使え。何を考えているのか分からず、害意があるのかないのかも判然としない。ただひたすら要領を得ない、その『無害な顔』だ」
「それ、褒めてるのかい?」
「最高に『使える』と言っている。行け」
トムルは溜息をつき、おずおずと役人の前へ歩み寄った。
「あ、あの……その……ええと」
始まった。
役人は最初、怒鳴りつけた。「何の用だ、邪魔をするな!」
だが、トムルは引かなかった。引かないのだが、何一つ主張もしない。ただひたすら「あの」「その」を繰り返しながら、役人の袖を掴み、島での魚の話、波の高さの話、そしていかに船酔いが酷かったかという不毛な身の上話を延々と続ける。
役人の怒号が、次第に呆れに変わり、最後には魂が抜けたような虚無へと変わっていく。相手の時間と気力を静かに腐らせていく、天然の「停滞」。それがトムルという男の持つ、毒のような特性だった。
その隙に、ハリムが扇子を一度、開いた。
茶楼の影から浮浪児たちが現れ、音もなく目的の荷箱を運び出していく。わずか数十秒の早業だった。
ハリムが扇子を閉じる。
トムルは「あ、すみません、お時間を……」と役人に頭を下げながら、何食わぬ顔で戻ってきた。
茶楼に戻り、ハリムは書状を確認して懐へ収めた。
「悪くない」
「ハリム、そんなことより、島が……」
扇子が、トムルの言葉を遮った。
「分かっている。ソムラ国のヨルム王が動き出した。奴は力だけが秩序だと信じているが、力には必ず反動がある。今、大陸の各地で火種が燻っているんだ。北の遊牧民、西のパルチザン……。トムル、お前がナンド島で石を投げた夜、この大陸という巨大な盤面が動き出した」
「……僕の石一つで、そんな大げさな」
「お前が思うより、世界は小さな石で動く。問題は、その石を誰が、どこへ、どのような意図で投げるかだ」
ハリムは私の方を向いた。
「チャリムと言ったか。その帳面、何を書いている」
「見たものを、と先ほど答えました」
「それでは足りない。この男がいかに偉大であるかという『物語』を書け。英雄には伝説が要る。歴史とは勝者が作る語りだ。事実など、語る者が決めればいい」
私は帳面を閉じ、胸に抱えた。
「お断りします」
ハリムの目が、細くなった。
「断ると言ったか」
「はい。私はこの男を三年見てきました。役人の前で震え、人混みで財布を抜かれそうになり、船酔いで青い顔をする。それでも誰かが傷つきそうになれば、理屈より先に体が動く。その不格好な全部が、この男の真実です。あなたが作る伝説より、私が書く情けない真実の方が、ずっと長く残る。私はそう信じています」
沈黙があった。港の喧騒だけが、遠くから続いていた。
ハリムは私を測るような目で見つめ、やがて、短く笑った。
「……面白い。厄介だと言っているんだ」
ハリムは扇子を開き、北の空を指差した。
「いいだろう。その愚直な記録が、いつか血塗られた王冠より価値を持つ日が来るかどうか、見極めてやる。明後日、ここを発つ。大陸の内陸へ入るぞ。トムル、お前の石が必要な仕事がある」
トムルは何か言いたそうな顔をして、それから口を閉じた。
プサンに夜が来た。
無数の灯火が海面を染める中、私たちは三人になった。
智謀のハリム。観察者の私。そして、世界の中心に押し出された、心優しき臆病者。
私は帳面に最後の一行を書き添えた。
『大陸の夜風は冷たく、それでいて、何か巨大なものが胎動する予感に満ちていた』
〔チャリム・ソノの記録 第三帳より〕




