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高句麗の獅子  作者: 水前寺鯉太郎


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2/16

出発

 三日間、ソムラ国の船は沖に停まっていた。

 動かず、攻めず、ただそこに在る。鏡のような海面に浮かぶその黒い影は、巨大な棺桶のようにも、獲物を待つ蜘蛛のようにも見えた。それが、何よりも恐ろしかった。

 村長たちに話を聞いてもらえなかったのは、初日の夕方のことだ。

「貢ぎ物を出せば済む。昔からそういうものだ。波を立てるな、チャリム」

 集会所の上座で、村長のオムジャ爺は吐き捨てた。周囲を囲む古老たちも、一様に頷く。皺だらけの顔、濁った瞳。それは、長く安全な場所に留まりすぎた者の顔だった。腐敗は、戦火ではなく、こうした平穏の皮を被った怠慢から始まるのだ。

「ソムラ国は今、大陸への進出を画策しています」私は必死に声を絞り出した。「この島は絶好の中継点になる。彼らが欲しいのは魚や宝ではない。この島そのものだ――」

「チャリム、お前は物知りだが、世間知らずだ」

 話は打ち切られた。老人の指先が、わずかに震えているのを私は見逃さなかった。彼らも本当は気づいている。気づいていて、それを認める勇気がないだけなのだ。

 集会所を飛び出した私は、浜辺へ向かった。行き場のない怒りをどこへ捨てればいいのか分からなかった。

 そこに、トムルがいた。

 波打ち際にしゃがみ込み、彼は石を洗っていた。丁寧に、一つずつ。潮水で濡れた石をてのひらで転がし、重さを確かめ、指先の感覚だけで重心を探る。気に入らぬものは海へ戻す。まるで、己の魂の欠片を選別するかのような、異様なまでの静謐せいひつさがそこにはあった。

「……何をしているんですか」

「石を、選んでる」

 トムルは顔を上げずに答えた。

「なぜ、そんなことを」

 彼は答えなかった。ただ、選び抜かれた一握りの石を、腰の布袋へ静かに収めた。その時の彼の横顔を、私は一生忘れないだろう。それは、愛する日常に別れを告げる男の顔だった。

 三日目の夜。悪夢は現実となって上陸した。

 最初は、焦げた肉の匂いだった。次に、夜の静寂を切り裂く轟音。島を愛でるはずの風が、今は死の報せを運んできた。

 私は宿を飛び出した。港の空が、血のように赤い。

 ソムラ国の兵たちは、驚くほど整然と動いていた。それが余計に恐ろしかった。略奪でも焼き討ちでもなく、彼らは事務的に家を焼き、事務的に印をつけ、邪魔な人間を「排除」していた。それは戦ではなく、工事に近い冷酷さだった。

 漁師の家が燃えていた。ナリの家だ。

 父親が扉の前で、二人の兵に組み伏せられていた。娘を背後に庇い、泥を舐めながら許しを乞う父親。兵の一人が、冷めた目で腰の剣を抜いた。

「やめろ」

 その声は、驚くほど小さかった。

 トムルだった。彼は震えていた。唇も、膝も、その指先までも。だが、彼は逃げなかった。兵の前に、その痩せた体を割り込ませた。

「……どけ。死にたいのか」

「や、やめてほしい。その人は、何もしていない」

 トムルの声は掠れ、目は泳いでいた。兵は嘲笑い、剣を振り上げた。

「ならば、お前から死ね」

 振り下ろされた鋼。その瞬間、夜の空気が爆ぜた。

 音がした。砂が爆発したかのような、凄まじい踏み込みの音だ。トムルの足が地面の底まで根を張り、全身の力が一転に凝縮される。

 ――ごう

 衝撃波が目に見えるようだった。トムルの肘が、兵の胸板にめり込んでいた。

 兵は声も上げず、木の葉のように吹き飛んだ。二間(約三・六メートル)以上も後方に打ち飛ばされ、砂浜に落ちて二度と動かなかった。

 静寂が訪れた。もう一人の兵が、腰を抜かして後退る。

「……僕が、戦えば」

 トムルが、自分の手を見つめて呟いた。その声は低く、重い。

「戦えば戦うほど、もっと大勢来る。そうだろ、チャリム」

 その通りだった。一人の島人が正規兵を倒したとなれば、ソムラ国は「見せしめ」のために島を全滅させるだろう。トムルの「善意の武」が、島をさらなる地獄へ追い込む。この残酷な方程式に、トムルは絶望していた。

「じゃあ、僕は――何もしなければよかったのか?」

 絞り出すような彼の問いに、私は答えを持たなかった。

 その時、私の懐が熱を帯びた。

 数日前に届いた、差出人のない木片。そこにある暗号文を、私は脳内で叫ぶように繰り返した。

「島を出ろ。大陸で合流せよ。遅れるな」

 ハリム。かつてこの島を共に守ろうと誓い、三年前に行方不明となったあの男だ。彼は、この結末を、トムルの覚醒を、すべて予見していたのか。

「トムル」私は彼の肩を掴んだ。「島を救いたいなら、ここを出るんです」

「……何を言ってるんだ」

「力が島の中にあれば、ソムラ国はそれを潰しに来る。島が人質になる。でも、その力が外にあれば――敵の標的は、島ではなく、あなたに向く」

 トムルは燃える我が家を見つめ、それから私を見た。迷いと決意が、その瞳の中で激しく火花を散らしている。

「……舟、出せるか」

「用意しています」

 港の端、一艘の古い小舟に飛び乗った。私が記録帳を抱えて乗り込むと、トムルは呆れたように言った。

「なんで乗ってるんだよ」

「記録を止めるわけにはいかないので。死なば諸共もろともです」

 漕ぎ出した。背後で、故郷が燃えている。ナリの泣き声が、遠ざかる波音に消えていく。

 ソムラ国の快速船が、獲物を追う猟犬のように動き出した。

「追ってきます!」

 揺れる舟の上、トムルが立ち上がった。足の裏が甲板に吸い付いたかのように、その姿勢は微動だにしない。彼は懐から、あの「選別した石」を取り出した。

 一閃。

 夜の海を、不可視の弾丸が切り裂いた。

 快速船の帆柱の天辺。滑車が粉々に砕け散り、巨大な帆が生き物のように崩れ落ちた。追撃の足を奪われた船が、暗い海に取り残されていく。

 やがて、夜明けが来た。

 水平線が橙色に染まり、前方の霞の中に、見たこともないほど巨大な陸地の影が浮かび上がった。大陸だ。

 トムルは舳先で丸まっていた。顔が土色だ。

「……帰れるかな、僕」

「王になれば、帰れますよ」

 私は筆を走らせながら、平然と答えた。

「あるいは、あの大陸すべてを、我らが王土にするか」

 トムルは力なく笑い、私の顔をじっと見た。

「……チャリム。お前、本当にとんでもない奴だな」

「お褒めに預かり光栄です」

 私は書き続けた。この情けない男が、初めて自らの意志で「海」を越えたこの日を。

 大陸の影が、牙を剥くように迫っていた。



〔チャリム・ソノの記録 第二帳より〕

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