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高句麗の獅子  作者: 水前寺鯉太郎


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囮作戦――月影の入江

月影の入江は、白く深い霧に閉ざされていた。

 波の音だけが響く砂浜に、トムルは一人、椅子も置かずに立っていた。背後にはガリム、ソリム、そして青白い顔で船を降りたばかりのテムジン。わずか三百の兵が、三万の軍勢を迎え撃つために整列していた。

 霧を切り裂き、黒い巨塔のような騎馬が現れた。

 ソムラ王、ヨルム。

 その全身から放たれる圧倒的な威圧感は、周囲の空気を歪ませるほどだった。彼が手を上げると、背後の地平線を埋め尽くした三万の黒鉄騎兵が一斉に足を止めた。その音だけで、大地が悲鳴を上げた。

「……南の島の小僧。わが足元にひざまずき、民を売るか」

 ヨルムの声は重く、低い。トムルは静かに首を振った。

「民は売りません。ただ、あなたに問いたい。この美しい海を、血で汚す意味がどこにあるのかを」

「愚かな」

 ヨルムが冷笑し、抜刀した。

「力こそが世界のことわりだ。貴様の理想など、この三万の蹄で粉微塵にしてくれるわ!」

 ソムラ王の合図と共に、最前列の騎兵が砂を蹴り立てて突っ込んできた。

 ガリムが吼え、ソリムが矢を放つ。しかし、押し寄せる鉄の波は止まらない。

 その時、丘の上でハリムが一本の紅い旗を振った。

「……今だ!」

 トムルの右腕が、目にも止まらぬ速さで動いた。

 彼が放ったのは、ただの石ではない。ハリボルの鍛冶師が打ち出した、特殊な形状の鉄礫てつれきだ。

 パパパパァン!

 乾いた音が連続して響く。トムルの石は、騎兵を直接狙うのではなく、彼らの進路にある岩礁と波打ち際を正確に叩いた。砕け散った火花と飛沫しぶきが、馬たちの目を眩ませ、砂浜に隠されていた「引き潮の罠」へと敵を誘導する。

 同時に、海上に潜んでいたハルム王の艦隊が姿を現した。

「テムジン、死んでも舵を離すな!」

「……う、うう、もう……死んでいる……だが、外さん!」

 テムジンは船酔いで嘔吐しながらも、驚異的な執念で巨大な投石機を操り、ソムラ軍の退路に火薬樽を叩き込んだ。陸からはカムルのパルチザンが、霧に紛れて伏兵として牙を剥く。

 三万の軍勢は、あまりの巨大さゆえに、この狭い入江で自らの重みによって足を取られた。逃げ場を失った馬たちが将棋倒しになり、混乱は一瞬で全軍へと波及した。

 トムルは、乱軍の中、ただ一人を見つめていた。

 立ち往生する黒馬の上で、憤怒に顔を歪めるヨルム王を。

「ヨルム王! 暴力で奪ったものは、より大きな暴力に飲まれるだけだ!」

 トムルの手には、最後の一つ、平たい石が握られていた。

 戦いは、半刻はんときで決した。

 圧倒的な兵力差を、地形と、潮目と、そして「裏切り」という名の偽装工作で覆した歴史的瞬間だった。

 ヨルムは撤退を余儀なくされ、黒鉄の波は引き潮と共に去っていった。

 私は、砂浜に座り込んで激しく呼吸するトムルの横に歩み寄った。

 彼の外套は泥と潮にまみれ、その手は再び血が滲んでいた。しかし、その瞳にはもはや「怯え」はなかった。

『三万の暴力は、三百の意志に敗れた。』

『ハリムの策は残酷だったが、トムルの勇気はそれを「希望」へと変えた。』

『ヨルムは平壌ピョンヤンへと退却した。しかし、これは終わりの始まりに過ぎない。』

『王を捨てた王と、民を背負った男。二人の決戦の舞台は、大陸の北、平壌へと移る。』

『今日、入江を赤く染めたのは、民の血ではなかった。敗れ去ったソムラの軍旗の色であった。』

〔チャリム・ソノの記録 第十三帳より〕

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