ヨルムの決断
その報せは、美しすぎる夕焼けと共に届いた。
ハリボル国の港で、同盟の祝宴の準備が進んでいた時のことだ。ハリムが受け取った小さな書状。それを一読した彼の顔から、すべての色が消えた。
「……ヨルムが、動いた」
その一言で、その場の風が止まった。
ソムラ王ヨルム。これまで部下の将軍たちを差し向けるだけだった「大陸の巨獣」が、ついに玉座を立ったという。その数、三万。ヌルボル国でトムルに希望を見た民たちを「逆賊」と断じ、村々を焼き払いながら、この西海岸を目指している。
「三万だと!?」
ガリムが椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。
「我らの兵は、合わせても三千に満たない。十倍以上の相手に、どう立ち向かう!」
「正面から当たれば、瞬きする間に踏み潰されるだろうな」
ハリムは扇子を弄びながら、冷たく言い放った。
「策は二つ。海へ逃げ出し、島へ戻って嵐が過ぎるのを待つか。あるいは……」
「あるいは?」
「ヌルボルの民を盾にし、ヨルムの進軍が鈍った隙に、王の首だけを狙うかだ。どちらにせよ、多大な血が流れる」
広場を埋める民たちの間に、目に見えるほどの「恐怖」が伝染していった。
昨日までトムルを英雄と称えていた者たちが、今は怯えた目で彼を見ている。その視線は、彼を王として見ているのではない。自分たちに災厄を連れてきた「呪われた男」として見ていた。
トムルは、そのすべてを黙って受け止めていた。
夜、浜辺に立つトムルの隣に、チェリョンが静かに並んだ。
彼女の青い瞳は、月光を反射して、深い湖のように澄んでいる。
「……トムル。あなたの心は、あの丘で止まったままですか?」
第八話、偽りの白旗の下で民を失ったあの夜のことだ。トムルは震える声で答えた。
「僕は、怖いんだ。僕が『戦おう』と言えば、また誰かの手が血に染まる。僕を信じた人が、冷たい土になる」
チェリョンは、そっとトムルの手に自分の手を重ねた。
「戦うことは、殺すことだけではありません。大切なものを『手放さない』と決めることです。……あなたはもう、島から来た臆病な少年ではないはずよ」
翌朝、軍議の席に現れたトムルの目は、凪いでいた。
「ハリム、策を教えて。民を盾にするんじゃない。僕が、盾になる策を」
ハリムは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「……それは、あなたが最も嫌う『嘘』を吐けということになりますよ」
「構わない。僕一人で抱えられる嘘なら、いくらでも吐く」
トムルは、ヨルム王に向けて一通の使者を送った。
『私は、ヌルボルの民を裏切った。彼らの首と引き換えに、我が身の安全を請いたい。月影の入江にて、和睦の儀を執り行おう』
それは、最悪の「裏切り者」を演じる囮の作戦だった。
ガリムは激昂し、ハルム王は呆れ果てた。しかし、トムルの瞳の奥にある決意を見た時、彼らは己の武器を静かに磨き始めた。
『歴史には、記録されるべき「嘘」がある。』
『トムル・ハウンは、自らの名を泥にまみれさせる道を選んだ。』
『すべては、この地に生きる民の明日を繋ぐため。』
『ヨルム王の三万の軍勢が、地平線を黒く塗り潰しながら近づいてくる。』
『決戦の地、月影の入江。そこは、かつて私たちがすべてを失った場所のすぐ隣だった。』
焚き火の煙が、北の空へと流れていく。
そこには、かつて見たこともないほど巨大な軍旗が、はためいていた。
〔チャリム・ソノの記録 第十二帳より〕




