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高句麗の獅子  作者: 水前寺鯉太郎


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ヌルボル国、民の声

ヌルボルの空は、どこまでも高く、どこまでもうつろだった。

 かつて黄金の稲穂が波打ったというこの地は、今やソムラ国の苛烈な徴発によって荒れ果て、土は乾ききっていた。村の入口には、見せしめのために吊るされた古い藁人形が、虚しく風に揺れている。

「……ひどい。これが、国の姿なんですか」

 トムルの呟きに、ハリムが冷淡に答えた。

「これが『力』による統治の終着点だ。民から明日を奪えば、国はただの墓場になる」

 その日の夜、一行に激震が走った。

 食料の管理を任されていたピリムが、荷物をまとめて姿を消したのだ。彼はソムラ国の下級役人上がりで、常に強い者の顔色を窺って生きてきた男だった。

「追いますか」

 ソリムが弓を手に取ったが、ハリムが首を振った。

「放っておけ。己の保身のために裏切った者は、己の保身のために死ぬだろう」

 ハリムの言葉は予言となった。翌朝、私たちは街道の脇で、ソムラの落ち武者狩りに遭い、身ぐるみを剥がれて息絶えたピリムの死体を見つけることになった。トムルはその亡骸に自らの外套をかけ、静かに目を閉じた。裏切りすら、この乱世の悲劇の一部でしかなかった。

 ヌルボルの中心、古びた広場に民が集められた。

 彼らの目は、一様に濁っていた。次は誰が自分たちの家を焼き、誰が子供を連れ去るのか。そんな諦めだけが、彼らを繋ぎ止めていた。

 ハリムが壇上に立ち、華々しい檄文げきぶんを読み上げようとした。しかし、トムルがその袖を引いた。

「……それはいいよ、ハリム」

 トムルは壇上に登らず、民と同じ泥の地面に腰を下ろした。人々がざわめく。

「僕は、南の島から来たトムルという名前の、臆病な男です」

 トムルは自分の、まだ生々しい傷痕が残る両手を見つめながら話し始めた。

「先日、僕は自分の弱さのせいで、多くの人を死なせてしまいました。平和を望みながら、戦いを引き寄せ、守りたい人を守れなかった。……僕は、王様になれるような立派な人間じゃありません。今でも、夜になるのが怖い」

 民の沈黙が、重質じゅうしつなものに変わった。

「でも、だからこそ、僕はもう二度と、あんな思いをしたくない。皆さんの手から、大事なものが零れ落ちるのを見たくないんです。……力を貸してください。一緒に、誰もが夜を恐れずに眠れる場所を作りたい」

 その言葉は、ハリムの用意したどの名文よりも深く、民の胸に突き刺さった。

 チェリョンが、持参した異国の薬で病人の手を取り、ガリムが自らくわを握って荒地を耕し始めた。テムジンは馬から降り、子供たちに北方の歌を教えた。

 「記録」という冷めた視点を持ち続けてきた私でさえ、その時、胸の鼓動が速まるのを止められなかった。

 その夜、広場には小さな灯火ともしびがいくつも並んだ。

 民が自発的に持ち寄った、わずかな油と、粗末な灯り。

『今日、ヌルボルの民は、支配者に屈服したのではない。』

『彼らは、一人の臆病な男が差し出した「誠実」という名の手に、自らの手を重ねたのだ。』

『ハリムが狙った通り、民心は動いた。だがそれは、計略を超えたトムルの「心」が招いた奇跡だった。』

『ピリムの死は、古い世界の終わりを告げ、ヌルボルの灯火は、新しい国の夜明けを予感させている。』

 トムルの包帯を巻き直すチェリョンの横顔が、焚き火の光に美しく透けていた。

 ガリムが磨き直した槍の穂先が、月明かりを鋭く弾き返している。

 私たちは今、確かに「軍」になりつつあった。

〔チャリム・ソノの記録 第十帳より〕

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