表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
高句麗の獅子  作者: 水前寺鯉太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/16

石を投げる男

これは私、チャリム・ソノの記録である。

 後世の誰かがこれを読むとすれば、まず断っておかねばならないことがある。私は英雄譚を書くつもりで筆を執ったわけではない。

 私が知る「英雄」という人種は、もっとあごが割れていて、地を揺らすような低い声を出し、少なくとも役人の前で「あ、あの、その……」などと、情けない吃音きつおんを漏らしたりはしない。

 だから最初、私はこの男のことを、記録する価値があるとは微塵も思っていなかった。

 ナンド島の朝は、風から始まる。

 海から吹き上げる湿った風が草原を撫で、砂を舞わせ、眠る者の頬を叩く。島の者はみな、その潮の香りで一日が始まったことを知る。私も例外ではない。

 その朝も、私は浜辺に出た。潮の記録をつけるためだ。干満の時刻、波の高さ、風の癖――。島の漁師たちには不可欠な情報であり、書くことしか能のない私が、この島で居場所を得るための唯一の手段でもあった。

 そこに、トムル・ハウンがいた。

 正確には、波打ち際にうずくまって、抜け殻のようにぼんやりしていた。

 何を見るでもなく、何に怯えるでもなく。ただそこに「在る」だけ。潮だまりに映った自分の顔でも眺めていたのかもしれないが、その表情からは何も読み取れなかった。島一番のお人好し、あるいは「お坊ちゃん」と呼ばれる二十六歳の男の顔は、朝陽の中でひどく空疎に見えた。

 私は声をかけなかった。彼は島でも指折りの地主、ハウン家の次男だ。私のような流れの記録係が、気安く話しかけるような間柄ではない。そう思っていた。あの時までは。

 騒ぎが起きたのは、太陽が天頂を過ぎた頃だった。

 港の近くで、子供たちの押し殺したような声がした。見れば、島の子供が三人、本土から派遣されてきた徴税役人パンナに取り囲まれていた。

 パンナは蛇のような男だった。細い目をさらに細め、少女が抱える魚籠びこを、漆塗りの杖で小突いている。

「これは税の対象だ。没収する」

「……お父ちゃんに頼まれた分だもん。税金じゃないよ」

 漁師の末娘、ナリが小さな声で抗議した。だがパンナは鼻で笑った。

「対象かどうかを決めるのは私だ。役人に逆らうのは、王に逆らうのと同じだと教わらなかったか?」

 私は足が止まった。助けるべきか。だが、ペンを握るだけの私に何ができる。

 そこへ、のっそりと、場違いな影が割り込んだ。トムルだった。

「あ、あの……役人さん」

 パンナが不機嫌そうに振り向く。トムルは笑っていた。だが、それはあまりにも不器用な、引きつった笑いだった。

「その魚……ええと、僕が今朝、子供たちに預けた、ものでして。ええ、そうです」

 明白な嘘だった。彼は朝からずっと浜にいたのだ。

「貴様は誰だ」

「トムル……ハウン、と申します。ハウン家の……次男、でして。はい」

 パンナの眉が動いた。ハウンの名は、腐っても島の有力者だ。無視もできないが、この男の態度はあまりに舐めている。

「証文はあるのか」

「あ、証文……ですか。ええと、それは。えー、蔵に、あったかな、なかったかな……確認して、それから、ええと……」

 そこからの会話は、世にも奇妙なものだった。

 トムルは反論もしなければ、怒りもしない。ただひたすら「あの」「その」「ええと」を繰り返し、役人の問いかけを霧の中へ誘い込む。パンナが苛立ち、怒鳴りつければ、彼はさらに縮こまって言葉を濁す。

 一刻(二時間)近くもそんな不毛なやり取りが続いただろうか。ついにパンナが顔を真っ赤にして吐き捨てた。

「……話にならん。証文を持ってこい。話はそれからだ!」

 役人は逃げるように去っていった。残されたのは、無傷の魚籠と、呆然とする子供たち。

「若旦那さま、ありがとう!」

 ナリが駆け寄ると、トムルは困ったように頭を掻いた。

「いや、その……よかった。うん、よかった」

 その姿は、英雄というよりは、ただの気の弱い隣人にしか見えなかった。

 だが、私の目は誤魔化せなかった。

 子供たちが去り、港が静まり返った後。独りになったトムルは、再び浜辺へと歩いていった。

 彼は足元に転がっていた、こぶしほどの石を拾い上げた。

 その瞬間、世界が変わった。

 あれほどぶるぶると震えていた指先が、石に触れた途端、鉄のくさびのように静止したのだ。

 彼の背筋が、まるで一本の古木のように真っ直ぐに伸びる。体の中心から、言葉にできない重厚な「気」が波打ち際に沈み込んでいく。

 石が放たれた。

 音すらなかった。

 目算で五十間(約九十メートル)はあろうかという沖合。そこにある小さな波頭だけが、砲弾でも打ち込まれたかのように激しく爆ぜた。

 私は茂みの中で、呼吸すら忘れていた。あの細腕の、どこにそんな力が眠っているというのか。トムルはすぐに踵を返し、またいつもの情けない猫背に戻って歩き出した。

 この男は、自らの力を呪っているのか。それとも、恐ろしいほどの無自覚なのか。

 その夜、私は村の外れにある古木の下で、星を仰ぐ彼を見つけた。

「昼間のこと、見ていました」

 私が告げると、トムルは心底困ったような顔をして、私を見た。

「……石を投げるところも」

 沈黙が流れた。潮騒の音だけが響く中、私は問いを重ねた。

「あんな力があるなら、なぜあんな役人に、頭を下げ続けたのですか」

 トムルは長い時間をかけて空を眺め、それから、消え入りそうな声で漏らした。

「……だって、怖いじゃないか」

 私は続きを待った。

「争えば、誰かが傷つく。僕が役人を投げ飛ばせば、本土からもっと大勢の兵隊が来る。そうなれば、島が火の海になる。子供たちが……泣く。そういうことを考えると、手が震えて、言葉が出なくなるんだ」

 彼は少し笑った。自嘲ではなく、切実な告白だった。

「僕はただ、みんなで笑って魚を食べていたいだけなんだよ。チャリム」

 私は返す言葉を持たなかった。彼が恐れていたのは役人ではなく、自らの力が引き起こす「破滅」だったのだ。

 その時。

 水平線の向こう側に、小さな火が灯った。

 一つ、また一つ。それは不気味な赤色を帯びていた。

 近づくにつれて、それが船団の掲げる旗の色だと気づいた。ソムラ国の「血塗られた獅子」の紋様。

 偵察船だ。

 トムルの顔から、笑みが完全に消えた。

 星を映していた瞳が、冷徹な武人のそれに変わるのを、私は見逃さなかった。

 その夜、私は宿に戻り、この記録の第一葉を書き上げた。

 英雄譚を書くつもりはない、と私は綴った。それは今も変わらない。

 しかし――。

 この「世界一の臆病者」が、愛する日常を守るために立ち上がる時、一体何が起きるのか。

 あるいはこの男が、望まぬままに世界の王へと押し上げられていくその軌跡を、私はつぶさに記さねばならない。

 そう予感した。

 これが、長い戦いの始まりだった。


〔チャリム・ソノの記録 第一帳より〕

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ