石を投げる男
これは私、チャリム・ソノの記録である。
後世の誰かがこれを読むとすれば、まず断っておかねばならないことがある。私は英雄譚を書くつもりで筆を執ったわけではない。
私が知る「英雄」という人種は、もっと顎が割れていて、地を揺らすような低い声を出し、少なくとも役人の前で「あ、あの、その……」などと、情けない吃音を漏らしたりはしない。
だから最初、私はこの男のことを、記録する価値があるとは微塵も思っていなかった。
ナンド島の朝は、風から始まる。
海から吹き上げる湿った風が草原を撫で、砂を舞わせ、眠る者の頬を叩く。島の者はみな、その潮の香りで一日が始まったことを知る。私も例外ではない。
その朝も、私は浜辺に出た。潮の記録をつけるためだ。干満の時刻、波の高さ、風の癖――。島の漁師たちには不可欠な情報であり、書くことしか能のない私が、この島で居場所を得るための唯一の手段でもあった。
そこに、トムル・ハウンがいた。
正確には、波打ち際に蹲って、抜け殻のようにぼんやりしていた。
何を見るでもなく、何に怯えるでもなく。ただそこに「在る」だけ。潮だまりに映った自分の顔でも眺めていたのかもしれないが、その表情からは何も読み取れなかった。島一番のお人好し、あるいは「お坊ちゃん」と呼ばれる二十六歳の男の顔は、朝陽の中でひどく空疎に見えた。
私は声をかけなかった。彼は島でも指折りの地主、ハウン家の次男だ。私のような流れの記録係が、気安く話しかけるような間柄ではない。そう思っていた。あの時までは。
騒ぎが起きたのは、太陽が天頂を過ぎた頃だった。
港の近くで、子供たちの押し殺したような声がした。見れば、島の子供が三人、本土から派遣されてきた徴税役人パンナに取り囲まれていた。
パンナは蛇のような男だった。細い目をさらに細め、少女が抱える魚籠を、漆塗りの杖で小突いている。
「これは税の対象だ。没収する」
「……お父ちゃんに頼まれた分だもん。税金じゃないよ」
漁師の末娘、ナリが小さな声で抗議した。だがパンナは鼻で笑った。
「対象かどうかを決めるのは私だ。役人に逆らうのは、王に逆らうのと同じだと教わらなかったか?」
私は足が止まった。助けるべきか。だが、ペンを握るだけの私に何ができる。
そこへ、のっそりと、場違いな影が割り込んだ。トムルだった。
「あ、あの……役人さん」
パンナが不機嫌そうに振り向く。トムルは笑っていた。だが、それはあまりにも不器用な、引きつった笑いだった。
「その魚……ええと、僕が今朝、子供たちに預けた、ものでして。ええ、そうです」
明白な嘘だった。彼は朝からずっと浜にいたのだ。
「貴様は誰だ」
「トムル……ハウン、と申します。ハウン家の……次男、でして。はい」
パンナの眉が動いた。ハウンの名は、腐っても島の有力者だ。無視もできないが、この男の態度はあまりに舐めている。
「証文はあるのか」
「あ、証文……ですか。ええと、それは。えー、蔵に、あったかな、なかったかな……確認して、それから、ええと……」
そこからの会話は、世にも奇妙なものだった。
トムルは反論もしなければ、怒りもしない。ただひたすら「あの」「その」「ええと」を繰り返し、役人の問いかけを霧の中へ誘い込む。パンナが苛立ち、怒鳴りつければ、彼はさらに縮こまって言葉を濁す。
一刻(二時間)近くもそんな不毛なやり取りが続いただろうか。ついにパンナが顔を真っ赤にして吐き捨てた。
「……話にならん。証文を持ってこい。話はそれからだ!」
役人は逃げるように去っていった。残されたのは、無傷の魚籠と、呆然とする子供たち。
「若旦那さま、ありがとう!」
ナリが駆け寄ると、トムルは困ったように頭を掻いた。
「いや、その……よかった。うん、よかった」
その姿は、英雄というよりは、ただの気の弱い隣人にしか見えなかった。
だが、私の目は誤魔化せなかった。
子供たちが去り、港が静まり返った後。独りになったトムルは、再び浜辺へと歩いていった。
彼は足元に転がっていた、拳ほどの石を拾い上げた。
その瞬間、世界が変わった。
あれほどぶるぶると震えていた指先が、石に触れた途端、鉄の楔のように静止したのだ。
彼の背筋が、まるで一本の古木のように真っ直ぐに伸びる。体の中心から、言葉にできない重厚な「気」が波打ち際に沈み込んでいく。
石が放たれた。
音すらなかった。
目算で五十間(約九十メートル)はあろうかという沖合。そこにある小さな波頭だけが、砲弾でも打ち込まれたかのように激しく爆ぜた。
私は茂みの中で、呼吸すら忘れていた。あの細腕の、どこにそんな力が眠っているというのか。トムルはすぐに踵を返し、またいつもの情けない猫背に戻って歩き出した。
この男は、自らの力を呪っているのか。それとも、恐ろしいほどの無自覚なのか。
その夜、私は村の外れにある古木の下で、星を仰ぐ彼を見つけた。
「昼間のこと、見ていました」
私が告げると、トムルは心底困ったような顔をして、私を見た。
「……石を投げるところも」
沈黙が流れた。潮騒の音だけが響く中、私は問いを重ねた。
「あんな力があるなら、なぜあんな役人に、頭を下げ続けたのですか」
トムルは長い時間をかけて空を眺め、それから、消え入りそうな声で漏らした。
「……だって、怖いじゃないか」
私は続きを待った。
「争えば、誰かが傷つく。僕が役人を投げ飛ばせば、本土からもっと大勢の兵隊が来る。そうなれば、島が火の海になる。子供たちが……泣く。そういうことを考えると、手が震えて、言葉が出なくなるんだ」
彼は少し笑った。自嘲ではなく、切実な告白だった。
「僕はただ、みんなで笑って魚を食べていたいだけなんだよ。チャリム」
私は返す言葉を持たなかった。彼が恐れていたのは役人ではなく、自らの力が引き起こす「破滅」だったのだ。
その時。
水平線の向こう側に、小さな火が灯った。
一つ、また一つ。それは不気味な赤色を帯びていた。
近づくにつれて、それが船団の掲げる旗の色だと気づいた。ソムラ国の「血塗られた獅子」の紋様。
偵察船だ。
トムルの顔から、笑みが完全に消えた。
星を映していた瞳が、冷徹な武人のそれに変わるのを、私は見逃さなかった。
その夜、私は宿に戻り、この記録の第一葉を書き上げた。
英雄譚を書くつもりはない、と私は綴った。それは今も変わらない。
しかし――。
この「世界一の臆病者」が、愛する日常を守るために立ち上がる時、一体何が起きるのか。
あるいはこの男が、望まぬままに世界の王へと押し上げられていくその軌跡を、私はつぶさに記さねばならない。
そう予感した。
これが、長い戦いの始まりだった。
〔チャリム・ソノの記録 第一帳より〕




