雨と蛇
麗らかな温もりが、皮膚の下で揺れていた。春の木漏れ日が、水面越しに差すように。
心地よい。いつまでも浸っていたいと、安らぎすら覚える。
「ぅ…………ん……」
雨粒の律動で目が醒める。ダグアーラの視界にまず飛び込んで来たのは、知らない天井。
夢心地から徐々に意識が覚醒していき、上体を起こして周囲を見渡す。殺風景な部屋には、まるで心当たりがない。
「ここは…………?」
一体どこだろう。獣人の少年は不安から、耳をピンと張り詰めて音を拾い、金色の尻尾を捩る。
凛とした白檀の香りが、ほのかに鼻先をかすめる。湿気はないが、少し肌寒い。視線を落とすと、強化服ではないことに初めて気付いた。簡素な肌着だけで、身体には傷一つない。
(そうだ。僕は――)
ダグアーラの記憶が蘇って来る。
刻限は、もう目前だった。だから焦って自ら乗った。
けれど機体は叫び、計器は狂い操縦は指からこぼれ落ちた。
暴走し、限界に迫る急加速。強化服を押し潰す程の重圧に晒されながら魔力切れを起こし、意識が途切れたのを思い出した。
(どうして、無傷なんだ……?)
素足で立ち上がり全身を確認。どこにも治療痕は見当たらない。墜落は免れなかった筈なのに、どうして。
抓った頬の痛みが、現実であることを知らしめる。
「まさか、監禁……っ」
ドアに手を掛けるが、鍵が掛かっていた。
戦慄が背中を駆け巡る。目的は明らか。試作機の機密を狙っての事だろう。もしくは身代金か。犯人が王族だと分かっているなら、軟禁状態で自分を遇するのも頷ける。
窓を開け、外の様子を確認。雨足はそれ程でもないが、三階分の高さがある。眼前の回廊は一見、跳べば手が届きそうだがリスクは高そうだ。
眼下の景色から、尖塔のような場所に幽閉されていることは分かる。耳をすませば、遠雷の機巧音が風雨に紛れて聴こえた。
頭の獣耳を扉に傍立てて様子を窺うと、生活音すら聞き取れない。竜機兵が遠い今のうちに脱出を。
身体をほぐして状態を確かめ、ナイトスタンドのブローチを首へ。身の証であり、堅い護り。
「よし」
ダグアーラは石造りの壁に指を引っ掛け外に出る。雨で滑りやすいので細心の注意を払い、慎重を期して壁を伝って下にいく。
しかし、それを嘲笑うかのように吹きつける風。指に力を入れた拍子に、滑ってバランスを崩した。
「あっ」
落下までは一瞬だった。この高さで落下したら、今度こそ死ぬ。死の恐怖に全身総毛立ち、尻尾も逆立つ。
(まだ、死ねない……っ)
雨粒が全身を叩きつける中、魔力を繰り身体強化。鋼の如く強化した指を石壁に引っかけて減速。そのまま蹴って宙返りで勢いを相殺。濡れた芝生の上に降り立つ。
ほっと胸を撫で下ろし、周囲を警戒。今のところ、近付いて来る人影はない。
「っくしゅっ」
濡れネズミになったせいでくしゃみをした。空中回廊は頭上にあり、筋力強化して跳躍しても届かなそうだ。それに派手に魔力や魔法を使うと気付かれる。
雨足が強くなった荒天の下、雨宿りできる場所を目指す。水分を含んだ尻尾が重い。地面に着きそうになる先端を何とか浮かせた。
手近な扉をくぐり風雨から逃げ切ると、ようやく人心地。半裸になって服を絞り、少しでも熱を逃がさないようにする。
「寒い…………っ」
身震いし歯が鳴り出す。このままでは低体温症で死ぬ。魔力を全身に巡らせ、肉体活性で熱を生み出す。呼吸の間隔を短くし、代謝亢進も忘れない。
灯りの少ない建物内を見渡し警戒。人影はおろか、気配すらない。それでも油断はできないが。
「…………?」
一瞬、傍立てた耳が何か音を拾った気がした。狼狽し反転。注意深く耳を澄ませてみたが、無人の静けさが耳鳴りをもたらす。湧き上がる恐怖が、幻聴を引き起こしたのかもしれない。そんな考えに思考が引きずられる。
(警戒は、しておこう)
油断大敵。肌着を片手に足音を立てぬよう、注意しながら壁に張り付く。眼前には丁字路が立ちはだかり、曲がり角からはいかにも誰かが出て来そうだ。
生唾を呑み込み、視界の切れた先をこっそり覗く。
しかし誰もいない。
(なんだ……?)
この違和感は。そもそもダグアーラを監禁するなら、厳重に見張りを立てるハズだ。それに手錠も嵌められてない。まるで、逃げてくださいと言わんばかりだ。
(相手は素人? いや、でも――)
警備がお粗末な割には、自身に傷一つないのが気に掛かる。
(もしかして――)
天井から漏れ出る微かな殺気。反射的に振り向くと、すでに相手は後方から地を這うように疾駆。暗闇に白い仮面が浮かび上がる。
ダグアーラは思わず目を剥く。飛び掛かる相手の正体はメイド。手にした凶刃が、僅かな照明の中で怪しく煌めく。それが牙を剥く蛇を思わせ、皮膚が粟立つ。
膝下の死角から斬り上げ。服を投げ付け躱したものの、尻もちをつく。相手はすかさず距離を詰め、逆手の刃が急襲。手首を掴んで押し留めた。
「くっ……」
こうも密着されては、ブローチの結界が発動しない。絡み付かれているような心地に肚の底に嫌悪の澱が溜まる。
均衡を作っているが、ジリ貧なのは変わらない。仮面のメイドは正体不明。それでも、殺しに来ているのに変わりはない。
刺客の二文字が頭に浮かんだ。仮面の下からでも分かる、眼光に宿る殺意と憎悪がその証左。幽かに漏れ出る呼吸が威嚇音を思わせ、身の毛がよだつ。
「がっ……ぁ……っ」
敵は腕を伸ばし、覆い被さって膝を鳩尾に突き刺さす。ナイフの脅威は遠いが息が詰まり、肺が逼塞して今にも意識が飛びそう。酸欠に朦朧とする中で、それでも抵抗は止めない。
「殿下ッ!」
聞き覚えの無い声。相手の注意が逸れた瞬間。力を振り絞って身体を捻り、敵を横倒し。圧迫から解放され、ようやく息を吸い込める。堪らず咳き込んだ。
「殿下から離れろッ!」
怒声と共に投げられる太刀。高速回転で迫る白刃から刺客は大きく跳躍し距離を取る。獲物を逃した太刀は、そのまま地面に牙を突き立てた。
「どこかケガはッ⁉」
「……っ」
息も絶え絶えで首を振り、見上げればメイドが敵に太刀を構える。ストロベリーブロンドの髪を黒いリボンで結っていた。
「貴様、どういうつもりだ?」
問い質す静かな怒り。充溢し漏出した魔力が大気と感応し、微風が流れ出す。そして、髪が銀色に輝き出した。
『紅銀』。類稀なる魔力の資質を示す証。微風と銀光は止まることを知らず、ほの暗い闇を清冽に斬り裂く。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
大気を劈く気勢。裂帛の気迫が轟き。風が舞い上がる。反撃を試みた敵は太ももから取り出したナイフを投擲。刀身には魔力が充填されており、術式の気配を感じた。紅銀のメイドは斬撃を飛ばして一刀両断。室内で紅蓮の炎が爆ぜる。
「殿下ッ!」
「ぅぷっ――」
胸が押し当てられ、ダグアーラの視界は閉ざされた。
柔らかい膨らみに圧迫され、口が開けない。辛うじて鼻呼吸をすると、白檀が薫る。部屋の残り香を思い出した。
直後、肉の焼け焦げる臭いが鼻腔に突き刺さり、白檀は消え失せた。
土埃の幕が下りると、照明が壊され晦冥が訪れる。
紅銀のメイドが抱擁を解くと、少年の頬を指先でなぞり安堵。すると、次の瞬間には苦悶の表情で項垂れる。
「え?」
不審に思い立ち上がると、彼女の背中が焼け爛れていた。結界で爆風は殺した。だが熱は逃がし切れず、炙る炎は彼女の柔肌を舐った。発動した結界の狭さが災いした。
「大丈夫ですかッ⁉」
首肯する彼女は脂汗が吹き出し、息も絶え絶え。気の利いた事も言えない自分が不甲斐ない。慄然とするダグアーラは歯噛みした。
(僕の、せいだ……)
自分を庇ったばっかりに。しかし、嘆いていても仕方がない。立ち上がり周囲を確認。先程の敵は見当たらないのが不幸中の幸い。
「テテュスッ!」
暗闇に響き渡る女性の声。駆け出す足音が近付いて来る。
「何があったの?」
血相を変えたメイドがうずくまるメイドに尋ねる。弱々しい声で「敵襲……」とだけ呟いた。気後れしている場合じゃない。ダグアーラは腹に力を入れる。
「とりあえず、撤退したみたいです」
魔力で周囲を走査、敵の気配はない。去ったと見るのが妥当だろう。
「それで、王子さまの方は?」
大丈夫です。それだけ答えると、窮地を救ってくれたメイドに肩を貸した。その時、彼女は謝罪の言葉を口にする。
重傷を負って尚、気丈に振る舞おうとする。そんな姿に少年は、感動すら覚えた。
「いえ、命を救って頂いた恩に比べれば……」
涙腺が緩みそうになるのを必死でこらえ、蒼白な彼女に笑顔を向けた。ありがとうと、感謝の言葉を添えて。




