主人と侍女
軍服に着替えて自室に戻るなり、テテュスは窓を開放する。
秋の涼風が白檀の香りを揺らし、張り詰めていた胸の内をわずかに冷やす。司令部で浴びた言葉の棘は、まだ喉の奥に残っていた。
抽斗から小箱を取り出し、黒いリボンに指先を置く。
乾いた布の感触が、ざらついた心をかろうじて縫い留めた。
「アイリス……」
形見をそっとなぞりながら名を口にすると、十年という歳月の向こうから、柔らかな体温だけが蘇る。
毎晩テテュスに寝物語を読み聞かせた声、何度も愛おしげに抱擁してもらった記憶は、死に別れた今でも胸に残っている。
乳母であり、魔法の家庭教師でもあった女性。
病弱で内気だった少女はもういない。鏡に映るのは、鳶色の軍服に身を包み、黒いリボンでストロベリーブロンドの髪を結んだ一人の士官。
その手に花ではなく、剣を持つこと。
泣くよりも先に、立つこと。
彼女は、自身の行動でそれを教えてくれた。
「見守っていてくれ」
リボンを握り締めた手を額に当て、祈るような言葉を紡ぐ。
出向して来た軍属巫女を、軍の独断で処することはまずないだろう。
結果として面目は立つはずだ。下される命令は恐らく、冷却期間を作るための措置。
ただ、隊長を辞することになるかもしれない。蚊帳の外に置いた三人の処遇だけが心配だった。
(演習と言えば、そうだ……)
パーシオ中尉との賭けには勝った。故に今後、彼がテテュスに付きまとって来ることは無いだろう。もっとも、反攻する用意はあるのだが。
これで平穏が戻った。痴情に時間を費やすなど、巫女としてあるまじき愚行だ。
それにしても実感が薄い。墜落事故のせいで、演習が遠い記憶のように感じられた。
「恋愛なんて……」
吐き捨てかけた言葉は、最後まで続かなかった。胸元でリボンを握る指に、少しだけ力が入る。
あの人は、軟禁状態だった境遇に一度も愚痴をこぼさなかった。命令を下した父についてさえも。
だからこそ、愛だの妻だの、せっかく結んだ自分の輪郭を他人にほどかれることが、テテュスにはひどく耐え難かった。
「テテュスさま」
部屋に響くノックの音。テテュスは慌てて小箱を仕舞い、机に背を向ける。
入室してきたのは、年端もいかぬ侍女。小角が覗く栗色の髪から尖った耳と蝙蝠羽。彼女の種は、理不尽な目を向けられることが多い。
「洗濯物、お持ちいたしました♪」
そんな事を感じさせない彼女は、屈託ない笑みを向けて来る。
「ご苦労、ノーラ」
動揺を隠すため、厳つい物言いになった。
小角の覗く栗色の髪を揺らし、抱えた洗濯物を差し出そうとして次の瞬間、華奢な身体が傾いた。布束と一緒に床へ。
「大丈夫か?」
駆け寄ると、ノーラは青ざめたまま身を強張らせていた。
謝ろうとしている。叱られるより先に縮こまるその癖が、未だ消えない。
「も、もうしわけ――」
「いい。ケガはないか?」
返事の代わりに、小さく肩が震える。
テテュスはしゃがみ込み、そっと背に手を置いた。薄い肩甲骨のこわばりが掌に伝わり、やがて少しずつ緩んでいく。
『怒らないん、ですか……?』
出会った頃、何度も聞いた言葉だった。
その度に胸が締めつけられた。過去に囚われた薄幸の少女はどれほど怯え、人の顔色を窺って生きてきたのか。
それを思うと、他人事では済まされない。
「大丈夫だ。いい子だから」
侍女の少女を抱きよせ、繊細な手つきで頭を撫でる。
もしアイリスなら、間違いなくそうしただろうから。
その確信が、テテュスを衝き動かす。
少女の震えが収まると、二人で散らかった洗濯物を拾って抽斗にしまう。
「申し訳ございませんでした……」
「廊下で転んだりとかは?」
瞳を潤ませてる彼女に尋ねると、首を横に振る。
「頑張ったな」
進歩を祝してもう一度撫でると、少女はくすぐったそうに目を細めた。
「…………えへへ♪」
栗色の髪を揺らしてやっと戻った笑顔に、テテュスの口元もほどける。
それを見逃さず、ノーラがぱっと顔を明るくした。
「テテュスさまも、嬉しそうです♪」
「は? ――なっ⁉」
慌てて口元を隠す。
耳まで熱くなるのが分かった。主人としての威厳も何もあったものではない。
狼狽える雇い主を前にノーラは小さく吹き出し、直後に腹の虫を鳴る。今度はノーラが茹で上がる番。うつむく姿がいじらしい。
「食堂に行こうか?」
演習の後は墜落事故のゴタゴタでそれどころではなかった。
もう食堂が閉まりそうな時間であることに気付くと、テテュスも空腹を覚えた。
「はぁい……」
再び頭を撫でると、今度は照れ隠しのように顔を背ける。
「……いらない?」
「もうっ テテュスさまのイジワル!」
鏃型の尻尾を張って怒る姿が可笑しくて、今度こそテテュスは笑ってしまった。過ぎた冗談だと謝罪してから、二人は部屋を後にする。共にスカートの裾を揺らして。
日差しが差し込む廊下はひんやりと、石と鉄の匂いが薫る。
魔界との縦深を守るラクリマ基地は近代化改修した石造りの城砦。
今もなお要衝としての威容を誇り、魔族に睨みを利かせていた。
「献立は何でしょうね?」
嬉々として弾む声を響かせ、楽しげに雇い主の顔を覗き込む。
彼女の天真爛漫さに思わず口元が綻んでしまう。
淫魔族。魔王と邪神が討滅された大戦後、人族に寝返った魔族の末裔。平和が保たれた今でも、人魔の軋轢は絶えない。
解雇されていく当てのない彼女を、軍の登用制度を使い専属メイドとして雇ってもう半年。
初めは、守ったつもりで雇った少女だった。
けれど今は違う。
この無垢な笑顔を曇らせないためにも、自分は強くあらねばならない。そう思う。
「あまり、羽目を外さないように」
「はーい♪」
ノーラが笑うと、栗色の髪に淡い輪が生まれた。光が祝福を与えたみたいに。
少女の歩調に合わせ食堂へ向かう。廊下は静かで、すれ違う兵士もわずか。二人で雑談に興じ、少女の笑う声が廊下の石にこだました。




