霧の城
ナイジェルは悪びれることなく、清涼な空気を纏ったまま指摘する。
「その発言は、越権行為なのでは?」
「は?」
口から出た声が、自分でも薄く聞こえた。
背中に視線を感じて振り返る。神殿から出向している壮年の神官。静かに見定めようとする冷徹な眼差しに、胸に微かな痛痒を覚えて落ち着かない。
「いいえ、違います」
ダグアーラが、被せる。
「中尉は、何も変なことは言ってません」
その瞬間、胸の奥がふっと緩んだ。差し出された助け舟に、安堵してしまった。
同時に、別のものが喉の奥に刺さる。庇われたのは、発言が正しいからではない。
自分の失言が、ダグアーラの職責内に収められただけ。
「殿下……」
ナイジェルの眉根が一瞬だけ揺れた。仮面の下の本心が、刃の先のように覗く。
だがすぐ整う。その冷たさに、テテュスの皮膚が粟立つ。
揺るぎない自信を湛えた碧眼を前に翻意が無理だと悟ったのか、神殿騎士は肩を竦めた。
「仕方ありませんね。殿下がそういうのであれば」
浮かべた苦笑には、冷たい諦観が滲んでいた。二人の関係にヒビが入ったように感じられ、テテュスは落ち着かない。
テテュスは匙を持つ指先に、力が入らないのを自覚した。
さっきの我儘が、少佐の迷惑になっている。迷惑どころか少佐の立場を笠に着て、自分の居場所を守った。
「大丈夫です」
ダグアーラが、こちらを見る。
「守るって、約束しましたから」
瞳の蒼碧が細まる。その優しさが、今はひどく甘い。甘い毒が胸の内側へ染み出し、息をするたびに広がっていく。
安心してしまう。頼ってしまう。それが怖い。
「少佐……」
何を言うべきなのか。テテュスは自身の本音を見失い、ありのまま出すことを恐れて言葉が迷子になる。
「さ。食べましょう。移動は強行軍ですから」
「……はい」
ノーラが不安げにこちらを見ている。テテュスは笑ってみせた。笑える自分が、一番苦しい。
食器の音だけが、静かに響いた。
その静けさは、和やかさではない。
呑み込み切れずわだかまる想いが、舌を鈍らせた。
〇 〇
ほの暗い朝。冷たい木と石の匂いが鼻先をかすめる。
目覚めた瞬間、知らない天井が視界に落ちてきた。
(……ああ。そうだ)
身体を起こすと、背中の筋が重い。毛布の匂いが違う。基地の布は洗剤の香りが薄く、幽かに森の匂いがした。
感覚が鮮明になるにつれ、ソクボルグ基地に来た実感が立ち上がる。
食堂の湯気。スプーンが皿を叩く小さな音。ノーラの笑い声。
そして、あの目。神官の冷徹な視線。
夕食の席はささやかな歓迎会の様相を呈し、再会したネイラが軽口を叩き、スコルが冗談を飛ばして笑いに包まれた。
それだけで胸の奥がほどけて、危うく泣きそうになった。
だから、笑ってしまった。
笑って、全部を誤魔化した。
入浴の湯気の中で、ようやく呼吸が深くなった。
それでも、寝台に横たわった瞬間。肚底の冷えだけは残っていた。
『楽しみだな』
その呟きは、嘘ではない。
まだ見ぬ専用機を操縦する事に対し、興味があるのも事実。ダグアーラによれば、反応速度は最新鋭機を上回るという。それに胸が躍ったのは間違いない。
けれどそれは、希望じゃない。
懺悔の色を含んでいた。
ふと、手の甲が疼く。
指先でなぞると、後悔が背骨を駆け上がった。
「ふぅ…………」
切り替えろ。心の中で強く念じて頭を振る。それだけで、頭の中の靄も少しは晴れた。
テテュスはベッドから出て、部屋の窓を開ける。
白濁した霧の眺望。高い標高の晩秋は冬の気配を含み、無意識に呼吸が浅くなる。
南東部高原の縁に張り付くように築かれているソクボルグ基地は、いわば天然の要塞。
切り立った斜面の上に広がる石造りの建物群は、朝夕になると濃霧に包まれ、遠目には輪郭すら白煙の遮幕に没する。
(攻め上がるには、最悪の地形ね)
眼下を見渡して分かったが、飛翔鎧での索敵も難しそうだ。テテュスは要害の堅牢さに感心する。
視界は奪われ、足場は湿り、攻城兵器の設営にも倍の手間がかかる。その霧は守勢にとって、城壁よりも強力な防塁だった。
攻める者を拒む城。近代化改修して運用するのは、参謀本部の慧眼があればこそ。
「いやー、何度来てもご飯が美味しいねぇ♪」
食堂に響いたのは、スコルの快活な声。昨日の内に朝食を一緒に取る約束をしていた四人は、テーブルの一角を占有していた。護衛のゼルヴァは、少し離れた位置で黙々と食指を動かす。
彼女はジャガイモが入ったホクホクの煮込み料理を頬張り、満足そうに息を吐く。
「ま、高原野菜が新鮮だからね」
応じるネイラは淡々としていた。肘をつくと、匙を回して弄ぶ。
寒暖差があると野菜は糖度が増す。それをテテュスは、神殿に奉職していた頃から知っていた。
「これで、パンが白ければなぁ。ハハ……」
逸らした視線を床に落とし、乾いた笑いが哀愁を漂わせる。テテュスにとってパンとは、茶色か黒なのでスコルの気持ちが分からない。ただ、彼女なりに耐え忍んで来たことは窺えた。
「近衛師団は、随分といいもの食ってたんだね?」
さすがお貴族サマ。庶民代表からの皮肉に、スコルの眉がピクリと跳ねる。
近衛師団は王都に駐屯しており、穀倉地帯の恩恵を受けているようだった。最新の製粉機は性能が良いと、研修時代に聞いた事があった。
「そうだよ。お貴族様はね、しっかり経済も回しちゃうんだよ? その辺の庶民よ・り・も♪」
胸を反らして勝ち誇るスコルに対し、ネイラは咀嚼していた口をへの字に曲げた。
まるで子供のケンカだ。黒パンをもそもそ食べるテテュスが静観していると、口を開いたのはノーラ。
「白パンって、そんなにおいしいんですか?」
少女が首をかしげるのも無理はない。暮らしていた孤児院は裕福とは言い難く、ラクリマ基地も白パンは出なかった。
「うんっ とっても美味しいよ? ケーキみたいにね♪」
「ケーキ⁉」
ノーラの顔が目に見えて輝き出した。その笑顔は屈託がない。テテュスは胸の奥が、ふっと緩むのを感じた。
「今度、食べに行こうか?」
はい。幼い侍女は嬉々として首を縦に振る。
皮肉の応酬をしていた二人は見合わせた顔を綻ばせ、朝餉の一時は穏やかな空気が流れていた。
ヴァールヘイト基地で抱えたもの。
越権、庇護、甘さ。それらは、今この食卓では語られない。
語られないからこそ、ここは心地いい。
食器の音が落ち着き、湯気の匂いが薄くなる頃。食堂の入口に、金色の尻尾が揺れて現れる。ダグアーラだ。
「中尉。少し時間を頂けますか?」
耳朶を打つ少年の声に、甘い疼きが胸に宿る。屈託ない笑みを浮かべる姿は見ていて微笑ましい。だが少年の後方には神殿騎士が控えており、嫌でも昨日の事を思い出した。
「おはよー♪ ダグアーラ少佐。ゴハン食べた?」
柔らかく尻尾と手を振るのはスコル。彼は短く「はい」とだけ。
食卓を訪れた少佐は他の面々にも会釈し、次にテテュスへ向き直る。
「試運転の前に、最終調整をお願いします」
嬉々として上気した頬が、旺盛な好奇心を物語っていた。自身が設計した機体の動くところを早く見たい。衝動的な愉悦が全身から溢れ出している。ダグアーラの無邪気さに当てられ、口角を緩ませる自分がいた。
「はい」
それ以外の言葉など、意味がない。テテュスも思わず頬が綻ぶ。ただ、突き刺さる視線が心に冷や水を浴びせて来る。
「天才である殿下が技術を愛し、政治を理解しておられることは重々承知しております。ですが誤解を生む余地は、作らぬに越したことはございません。愛情すら政治に変質するのが、王族なれば」
ナイジェルの言葉に、その場の空気が凍る。ダグアーラは忠言を送る護衛へ向ける碧眼に、烈火の炎を宿していた。
政治の力を使えばこそ、研究を継続できてるのは自明。技術の牙城にあって、それを否定することはできないでいた。
「僕は、一人の技術者としてここに居ます……」
それだけ言うと、口を引き結ぶ。震える拳に気持ちを押し込めた少年の、ささやかな抵抗だった。
「ええ、そうでしょうとも。私は殿下の口から直接、それを聞きたかったのですよ」
言質を取ったと、柔和な笑みを浮かべる。自身の立場を鑑みればこそ沈黙を貫くダグアーラ。テテュスは代わりに抗弁したい衝動が沸き起こるが、昨日の事が二の足を踏ませる。
もどかしさに肚の底で焦燥が募る。少年に視線を向ければ、微笑を返してくれた。一瞬、心臓が跳ねた。
「貴方に言われずとも、政治は理解しています」
少年は柔らかい声音で、しかし確信を込めてそれを口にする。
「だからこそ、証明します。技術で」
前人未到の大望を。揺らぐことなく。
「ナイジェルはさ。護衛が任務なら、政治に口挟むのは職分を超えてるんじゃないの?」
「一番手っ取り早いのはさ、結果で黙らせることじゃない?」
友人二人も護衛役に苦言を呈する。形勢不利を悟ったのか、青年は大仰に肩を竦めた。
「では、行きましょうか? 中尉」
爽やかな笑みから差し出される手。食事を終えたテテュスは椅子を引くと、
「それじゃ、後でね♪」
「がんばれ」
「応援してますっ」
三人は口々に鼓舞して送り出してくれた。
「みんな、ありがとう」
緊張がほどけ、胸の奥に残る冷えが霧のように薄れていく。
——今度こそ、大丈夫。
そう、信じた。




