不死鳥の鞍上
薫香が満ちた食堂を後にし、白い霧が肺に入ると湿った石の味がした。
廊下の石床が、靴底越しに冷えを渡してくる。
息を吸う度、冷涼な水気がソクボルグの朝を思い出させる。
視線を前に向けると世界は淡く霞んでいるのに、重さだけが増していく。
テテュスは気づけば、肩をすくめたまま歩いていた。
「今日は飛ばしません。試運転と、機動演習だけです」
そのための最終調整なのだと、淡々と説明してくれた。
(ああ。なるほど……)
以前、ミレイユが昼休みを返上して最新鋭機を稼働させていた記憶が引っ張り出される。時間が掛かる作業らしい。
暴走事故を経験したから分かる。機体を棺桶にさせまいと、慎重に慎重を期した彼女や整備兵たちの労苦が。
彼らの尽力が強襲を脱する契機となった事が、今となっては誇らしい。
「先程はすみません。ナイジェルが――」
「謝らないで下さい。少佐が悪い訳では……」
後ろを振り返らない声に言葉を被せた。しょんぼりと垂れる尻尾を見ていると、喉の空気が少し薄くなる。
重苦しい沈黙が晴れぬまま、二人はテテュスの自室を訪れた。
「リョース」
「きゅう」
毛むくじゃらの相棒を呼び寄せ、抱き上げた。そのまま顔を埋めると甘い獣臭に包まれ、毛皮の熱が冷えた胸の奥まで落ちてくる。
背を撫でれば、冷気に強張る指先がゆっくりとほどけていく。少しは気分が晴れた。
それから、子機の奥にある核を取り出す。
「よろしくお願いしますね」
薔薇色の宝珠をダグアーラが見詰めると、キラリと光った気がした。
公国において幼精の軍事転用は、未だ成し遂げられてない鬼門。暴走事故への懸念が欠片も無いといえば嘘になる。
だがテテュスは記憶が混濁したり、現実と妄想の境界が曖昧になるような変調の兆しもない。診断結果も日記の内容も、十分信頼に足る。
(大丈夫、いつも通りでいい……)
核の輪郭を確かめるように、手の中で強く握った。不安を振り払って踵を返すと、後ろから声が掛かる。
「……やっぱり、まだ不安ですか?」
振り向けば、翳る白皙。いつになく気分が沈んでいる。
やはり、先程の護衛の言葉が棘として胸に突き刺さったままなのだろう。
「信じていますよ? 少佐」
目元を緩めて見遣る。途端に少年は頬を上気させ破顔した。
「はい♪」
ダグアーラは嬉々として尻尾を揺らし、短く首肯する。
「ちなみに、中尉の体調は?」
沈痛な表情が一転し、どこか挑発するような口ぶり。調子が戻った彼に、テテュスは余裕をもって答えた。
「問題ありません。一晩寝れば、疲れも吹き飛びましたから」
「フフ♪ そう来なくては」
細めた眼差しに、年相応の無邪気さが宿る。そういう振る舞いを抑圧されて来たのかと思うと、不覚にも目尻が湿っぽくなる。凛と背筋を伸ばすことで、それを誤魔化した。
廊下へ出た瞬間、背中の皮膚が硬くなる。
振り返らなくても分かる。遠い位置から、針のような視線が刺さっていた。
距離を隔てて追従する護衛の足音は一定で、息遣いさえ律されている。
見張られていると思った時点から、心拍が一段上がる。
彼は何も言わない。ただ気配を消し、雄弁な眼光で監視するだけ。抑制的な靴底の残響が、無形の圧迫感を背中に叩きつけて来る。
「ところで中尉。お加減は如何ですか?」
沈黙から一転。ナイジェルの質問は、何故だか癪に障る。趣旨が被っているせいかもしれない。そう考えなければ、肚底のざらつきが消えなかった。
「全く問題ない」
冷たく硬質な自分の声に、心内で動揺した。絶対に振り返ったりはしない。後方の騎士に、テテュスは内心で渋面を浮かべた。
紅白の強化服に着替え、辿り着いた格納庫。
中は広い。霧を呑んだ伽藍洞みたいに、音だけが遠くに反響する。
油と鋼の匂いが鼻腔に絡み、息を吸った分だけ肺が冷える。
整備員の声は背景に沈み、視線は一点へ吸い寄せられた。
膝をついて眠る真紅の巨体、エンドリフギル。
装甲は滑らかな曲線を描き、胸部から背部へと続く稜線は、生き物の肋骨のようにしなやか。
赫焉とした真紅の塗装が照明の淡光を吸い込み、静かに脈打っているようにも見えた。
跪座姿勢のまま沈黙は、まるで主の呼び声を待つ獣。
近づくほど、鼓動が先に走り出す。
自分のものなのか、それとも——
「……綺麗」
意図せず唇から零れた。強い、ではなく。速そう、でもなく。
その鮮烈さに、心臓が焦がれた。
胸郭の奥が、共鳴する。
まだ触れていないのに、身体の内側をなぞられる感覚があった。
「気に入ってくれたみたいですね?」
背後から弾む声。振り向かなくても分かる。ダグアーラの瞳はきっと今、少年のそれではない。創造主の眼光を浮かべていることが。
「ええ。速く動かしたいと、思うくらいには……」
逸る鼓動に手を当てた胸の底で、言葉が芽を出す。それは良かったと、喜色に弾む声が背中に心地よい。
「起動は問題ありませんので、まずは同調の確認だけ」
ダグアーラの指示が飛ぶ。けれどテテュスの意識は、機体の中心へ吸い込まれていく。コックピットの縁に触れた指先が、冷たい金属のはずなのに、なぜか温度を帯びて感じた。
梯子を上り、整備兵から口々に声を掛けられ座席へ滑り込む。眼前には、世界に切り取られた暗晦が広がっていた。
熱気すら感じさせる真紅の外貌とは違い、深井戸の底のように冷たく光もない。迫る闇の紗幕に肺腑が圧され、息が半拍遅れる。
鼓動だけが、空洞に叩きつけられる。身体がすっぽりと収まる操縦席は、まるで鋼の内臓だった。
「起動詠唱、お願いします」
降って来る命令。空を仰げば、ハッチ上部からダグアーラが顔を覗かせる。一つ頷き、固定帯より背筋を伸ばすと、詠唱は滑らかに喉を通り抜けた。
「天翔ける不死鳥よ、灰燼より来たりて黎明を焼き尽くせ――――エンドリフギル」
テテュスの声に反応し、魔導心炉が魔力を流し込む。一瞬でコックピットに蒼光が走り、計器の針が振動。映照魔法【水鏡】により、目の前には格納庫の景色が照らし出された。
目線を下げれば、方形の鏡面に後方の光景が映し出される。そのすぐ下に空いた窪みへゆっくりと核を差し出し、嵌め込んだ。
(あ――――)
核が機体に応じた瞬間、胸の奥で小さな火花が弾けた。リョースを通じて魔力が流れ込んで来る。
跳ね上がる鼓動で、それは焔へ変わった。
冷たいはずの心炉の光が、血に混ざって熱を帯びる。
(熱い――)
視界が冴え、指先が軽い。
まだ動いていないのに、身体だけが先に空へ駆け上がっていた。
視界の縁が白く滲む。まぶたの裏まで、淡い光が染みてくる。
<――――、中尉っ⁉>
息を吸うと喉が熱く、舌が一拍遅れて動いた。
「……少、佐……?」
言葉が、自分の口から遠い。
<一体、どうしたんですか?>
機体を見上げ、儚く碧眼を揺らす顔を前に、テテュスの胸は甘く締め付けられる。
「問題ありません。少々、機体の魔力に当てられていました」
<えっ?! 本当に、大丈夫なんですか?>
何といじらしいのか。反響が耳朶を打つ、不安が染み出す怪訝な言葉に頬が緩んだ。この場に彼がいなくて何より。
「はい。そう申し上げております」
喜色を包含する声が、喉を駆け抜ける。
やがて問題ないとの裁可が降り、機体の操縦を命じられた。
呼吸が整い、指先が操縦桿へ触れた。その瞬間。胸の奥に、幽かな気配が寄り添う。
(リョース)
声ではなく、言葉でもない。ただ、「居る」と分かる。
テテュスは小さく息を吐いた。今はただ、確かめたい。自分の身体が、感覚が。どこまで機体と一致するのかを。
「アハティアラ中尉。エンドリフギル、出ます!」
ペダルを踏み、操縦桿を傾ける。
一瞬で、世界が塗り替わる。
「これ、は……っ」
反応が早い。思わず声が漏れた。浮遊感を漂わせる立ち上がり。わずか一秒足らずで変化した視座の高さに、感慨が沸き立つ。もう、旧式には戻れない。
<どうですか?>
「はい、すごく良いです♪」
頬が上気し、明らかに自分の声が弾んでいる。旧式の反応速度の鈍さは、想像以上に重い足枷だったらしい。操縦桿の挙動を瞬時に反映し、鴻毛の如く軽やかな動きに歓喜すら込み上げるから不思議だ。
核の反射がいつもより眩しく感じるのは、リョースも喜んでいるから。
歓声が上がる。けれど胸の奥は、それ以上に熱い。
操縦桿を握る指先が、機体の鼓動と共振している。
実際、自分と機体の魔力が一体となり、灼熱の奔流と化していた。灼炎の欠片になった心地が、静かに肚底で燃え上がる。
意が如く、鋼の躯体が半拍の中で動く。その瞬間がたまらない。
気持ちいい。喉の奥で、言葉にならない笑みが零れる。
指先に宿る熱が、なかなか引かなかった。




