新たなる翼
テテュスは居住まいを正し、背筋を伸ばして咳をひとつ。肚に力を入れ、浮き立つ心に蓋をする。――——そう、念じた。
「人が悪いですよ、少佐」
半眼で見咎めても、ダグアーラは堪えた様子もなく涼しげだ。
けれど、金色の尻尾だけが嬉しさを隠せず小さく揺れていた。
「フフ♪ ちょっと、驚かせたくなっちゃいまして。ほら、夜会の時も、あれから会えず仕舞いじゃなかったですか?」
「うっ……」
その話題を出されると弱い。喉が詰まり、目が泳ぐ。言葉は宙を舞い、唇だけが震えた。
何を言っても、一度口にしたら戻れなくなりそうで。堪らず声を殺した。
「結局話す時間が取れなくて、寂しかったなぁ~? なんて♪」
無邪気な笑みで懐に入り込もうとしてくるから油断ならない。顔を背けても、拒絶の意思が働かない。恐ろしいほど自然に、心の距離だけが縮まっていく。
「……すみませんでした」
下手に反論することはせず、素直に謝った。謝罪は盾になる。少なくとも、自分の心を守る盾には。
「いいですよ。僕は、部下には寛大ですから」
「自分で言いますかソレ」
胡乱な眼差しで抗議しても、彼は微笑を崩さない。あまりに軽く許されると、逆に胸の奥が痛む。許されるだけの距離にいるのだと、思い知らされるから。
微笑を交わし、沈黙が降りた。少しこそばゆく、しかし心地よい瞬間。
そのまま、ずっと続けばいいのに。そんな感慨が胸に去来する。
「お二人とも、大変仲がよろしいですね」
横槍を入れる声は、凪いだ水面に石を投げるように。その場に静かに波紋をつくった。
顔を向けると、群青の竜角と尻尾を持つ竜人の青年が佇んでいた。白と藍の礼装に身を包み、凛々《りり》しい立ち姿。完璧すぎて、むしろ人の温度が薄い。
「お初にお目にかかります、中尉。我が名はナイジェル・サイヴレイグ。神殿より罷り越しました、殿下の新たなる盾にございます」
礼節はもちろん、言葉の端まで整っている。研がれた刃のように。
礼装をふわりと舞い上がらせて跪き、テテュスの手を取った。次の瞬間、甲に柔らかな口づけが刻まれる。
「——っ⁈」
凍るような悪寒が背骨を襲った。不意打ちに手を引く。触れていたはずの熱だけが、皮膚の裏で遅れて脈打つ。
「おや。少し、礼が過ぎましたか?」
人当たりよく、声音も優しい。けれど、すがめた目だけが笑っていない。敵意とまでは言い切れない。ただ、こちらを測る意思がある。拒絶の輪郭が、白藍の瞳の奥底に確かにある。
その気配に反応したのか、ダグアーラが一歩近づいた。テテュスの肘と手に、さりげなく触れる。守るように。けれど尻尾は身を捩り、微笑はどこかぎこちない。
醸し出される違和感が、テテュスの喉までせり上がる。
「世の中には、慇懃無礼という言葉もありますからね? 中尉」
「いえ、その――」
言い終える前に、廊下の向こうから低い声が割って入った。
「おい。いつになったらメシに行くんだよ?」
ゼルヴァだ。待たせていた護衛が、うんざりした顔で立っている。その無愛想が、今はありがたい。テテュスはこれ幸いとばかりに彼の背中の陰へ逃げ、息を整えた。
これは戦略的撤退。何を言おうとしていたかは今、どうでもいい
「し、食事に行ってきます!」
「あ、テテュスさまっ」
ノーラが慌てて追ってくる。小さな足音。振り向いた瞬間、少女の身体が宙を舞っていた。
「ったく、世話が焼ける……」
ゼルヴァが当然のように抱き留め、ゆっくりと床へ下ろす。主従は同時に感謝の言葉を口にした。たったそれだけのやり取りが、硬直した空気を少しだけ溶かす。
そして、ダグアーラも厨房に話を通していたらしく、会食の運びとなった。周到なサプライズに、テテュスはもう苦笑するしかない。
「では、会食と行きましょうか?」
「はい♪」
屈託なく頷く少年の尻尾が楽しげに揺れる。ゼルヴァが先導し、ダグアーラが並び、背後を守る形でナイジェルが追従する。ノーラはその横を小走りに付いてきた。
編成が決まった行軍みたいで、息苦しいほど秩序だっている。
「そんなに、寂しかったんですか?」
意趣返しのつもりで聞くと、金色の尻尾が跳ねた。ダグアーラは不敵に目を細める。
「はい♪ ずっと、お会いしたかったですよ?」
「——っ」
上目遣いで覗き込まれる。柔らかい笑みが言葉の端に混ざるだけで、胸の奥がざわつく。
(こんな風にされたら、勘違いしてしまう)
冗談だ。そういう顔をしている――――——そのはずなのに、心が勝手に期待してしまいそうで怖い。もっと声を聞きたい、そう思ってしまう自分がいる。
やめなさい。期待するな。
何度も反芻してきた心の声が、今また繰り返される。
彼は王族。自分は一介の巫女。この温もりに慣れてはいけない。いつか失う日が来る。それが分かっているから、指先が冷たくなる。
食堂に入ると、湯気と香辛料が温い膜のように頬を撫でた。炒った雑穀の甘さ、バターの匂い。白禽の焼き目から立つ肉汁の香り。身体の芯が、ゆっくりほどけていった。
席につく。四人が並び、対面にゼルヴァ。ナイジェルは端正な横顔のまま、必要以上に口を挟まず、けれど全てを見ている。
食堂という日常の空間に、神殿の静謐な緊張が細い糸で張られている。
「ん~、美味しい♪」
ノーラがとろけそうな頬を支えて笑う。可愛らしい。救われる。
「まあまあだな」
ゼルヴァが器を傾け、短く言う。彼の言葉には余計な飾りがないから安心する。ついでに愛想も無いが。
少しの間、食指だけが動く。食器の音が静かに響いた。
温かく、穏やか。このまま、何事もなく進めばいいのに。
「それで、話の続きですが……」
完食し、口元を拭ったダグアーラが切り出した。顔つきが変わる。あの無邪気さの奥に、硬い芯が見え隠れする。
「はい」
テテュスは首肯する。胸の奥で、期待が形を持つ。彼が「必ず成功させたい」と思っていることを、言葉にされなくても感じ取ってしまう。
新たに開発された竜機兵の名は、エンドリフギル。
「死して尚、灰の中から蘇る。不死鳥にあやかって名付けました」
遠くを見る視線。以前にはなかった精悍さが、その横顔に宿っていた。失敗を糧に、何度でも立ち上がる。そう言い切る声には、確かに強さがある。
テテュスの胸が温かくなる。思わず、言葉が零れた。
「強く、なられましたね……」
その瞬間、テーブルの空気がわずかに変わった。ナイジェルの視線が、静かにダグアーラからテテュスへ移る。評価ではない。確認でもない。境界を測る目だ。
ダグアーラは微笑み、いつもの調子で続けようとする。
「それで中尉。夕方にはここを発ちます。全ての準備が整いましたので」
はい。完成したのかを尋ねると、少佐は無邪気に肯定した。
テテュスは息を呑む。飛翔型竜機兵の新たな試作機。胸の奥で、期待が羽ばたきそうになる。
——大丈夫。今回は違う。そう思った瞬間、二ヶ月前の空と装甲の冷たさが、意識の底からひたりと這い上がってきた。
(予算も、人員も、今は足りている。手順も、整っている。状況は真逆……)
言い訳のように数え上げながら、なお指先が冷える。不安材料はない、ないはずだ。それでも胸のざわめきが収まらない。
その揺れが、ほんの少しだけ表情に滲んだのだろう。ダグアーラの笑みが一瞬だけ、深く息を整えるように歪む。
「先日の失態から学び、ちゃんと調整や準備には時間を取ります。何より——」
言葉を切り、彼は少しだけ声を落とした。嬉しさを隠しきれない目で、こちらを見る。
「幼精との同調を前提とした、いわば中尉の専用機です」
今度こそ飛べる。確信に満ちた唇が弧を描く。
同調。その単語が、食堂の温度を僅かに変える。ナイジェルの表情が硬くなる。その変化にノーラは首を傾げ、ゼルヴァは我関せずで食指を動かす。
テテュスは、自分の中で何かが定まっていくのを感じた。
守りたい。支えたい。けれど、それを“何の立場で”言うのか——その線引きが、今この場で試されている。
唇が開きかける。
喉の奥で、言葉が形になりかけた。
その横で様子を窺っていたナイジェルの視線が、刃物みたいに静かに光った。
「殿下。正妃様が臨月とはいえ、貴方様にも立場というものがございます。婚姻を結ぶ相手にも、家格が求められるのはご存じのはずです」
その台詞は、テテュスの言葉を遮るように。
「…………何が言いたいのですか?」
低い声。爽やかな笑みを崩さないナイジェルを、ダグアーラが睨む。
「いえ、別に。ただ、パルウルスに同調できる巫女なら、別に中尉でなくてもいいのでは?」
「ふざけるな!」
テテュスは怒りに任せて立ち上がった。神殿の騎士は物腰柔らかそうな態度だが、巫女を見据える白藍の瞳の奥は底冷えしていた。その視線が神経を逆撫でし、難詰の言葉が口を衝いて出る。
「話を聞いていなかったのか? エンドリフギルは、私が搭乗する前提で設計されているんだぞ?」
自分を外すなどあり得ない。
水を打ったような静けさの中、爽やかな笑みが喜悦に歪む。
初めて本心をさらけ出した。どこか悪辣さすら感じた表情に、背筋が凍った。
(――――いや、違う)
これは説明じゃない、自己弁護。
私が、彼の隣に立ち続けるための言い訳だ。彼の正論に触発され、反射的に言葉を放ってしまった。




