Dear my master.
思えば貴方は悪魔に身を捧げているような男。
それでもあの頃の私は、貴方が神様に見えた。
Dear my master.
*
その日の大きな空は、まるでひとつの大きな宝石箱のようであった。
星が瞬く空には、白い満月が静かに息を潜めている。
全く欠けていない、完璧な天体。惑星を回る衛星。
見惚れてしまうほどの光を散らし、それらは終わりの見えない夜を飾り立てている。
そんな完璧な存在でさえ、天から見放された人間のことは助けてくれやしない。
夜の静謐を切り裂くように、叩きつけるような足音が響く。すっかり闇に溶けた摩天楼の間を、道を照らしだすには頼りない月光に背を向けて、少女は光のない道をただひたすらに駆け抜けていた。
駆け抜けた道に、無数の赤い雫を落として。
少女の身体は深く傷ついていた。腕や足には血が滲み、服は不自然に引き裂かれている。
美しい星空に見惚れる余裕もなく、少女はただ前へと走り続ける。地面を踏み込むたびにガクンと身体が崩れる。右足首はよく見ると赤黒く腫れ上がっている。折れているのだろう。
長い事走り続けていたのか、額には玉のような汗がとめどなく流れ続けている。
「ッ、!」
身体が右に傾いた。一度浮遊した身体は支え切れるわけもなく、無残にも地面へと叩きつけられる。
その後ろから遅れて、安定した足音が近づいてくる。
少女は追われていた。それも複数。
起き上がらせようとした身体は脳の信号に応じる事も無く、びくともしない。
体力はすでに限界を迎えていた。無理に起こそうとした反動で、疲弊とともに体中に走る激痛が追い打ちをかける。
迫る足音は少女を取り囲む形で静止した。いつのまにか倒れ込む少女の身体には複数の男の影が落ちていた。
「……まったく、てこずらせやがって」
男の一人が少女の腹を蹴り上げる。腹に打たれた衝撃で少女は小さく呻いた。
「落ちこぼれは落ちこぼれらしく罰を受けてもらわねぇと困るぜ、嬢ちゃん」
「可哀想にな。素材は悪くねぇのに、『天才になれなかった』だけでこの先の人生真っ暗だ」
男の一人が少女の髪を掴み、乱暴に持ち上げる。血と涙でぐちゃぐちゃになった顔からは生気なんてとうに失われていた。それでも美しい白髪を持つ少女の光の消えた瞳は宝石のように奥ゆかしいものがあって、男達の加虐心をそそるには十分だった。
乱れた服、そこから見える白い肌。幼い少女の身体は痛々しく、生々しく残る刻まれた無数の傷でさえ艶めかしい。
少女の顔を覗き込んだ男がごくり、と唾を呑み込む。
「……ふん。まぁ、大人しくしていれば俺達が価値を見い出してやってもいいけどな?」
男は掴んだ頭を地面に叩きつけ、少女を仰向けにして押さえつける。別の男がナイフを少女の首にあてがう。大柄の男達が複数。並んで取り囲めば、少女の華奢な身体を外界から覆い隠してしまうには十分だった。
深夜2時の摩天楼。人はとうに眠った町。
もう、ここまでかもしれない。
かすれた視界に映る風景。瞼の隙間から覗く夜の幻想。無慈悲に輝くだけの月は、それでもどうしようもなく綺麗で。
少女は死を恐れていた。
全力で抗おうとしていた。
もはや陰湿ないじめなど慣れきっていた。
このままでは本当に死んでしまうかもしれない。
日に日に拍車のかかる自分への加害。増える傷。天才以外の処遇なんて見えていない教師。
それを良しとするこの世界。人間としての尊厳でさえ奪われた弱い自分。
全部全部大嫌いで。でも、もう何もかもがどうでもよかった。
何故だか今はひどく心が落ち着いていた。
覆せない運命があるということは、学園から『一般化降格』を言い渡された瞬間から本当は分かっていたのかもしれない。いつか受け入れるしかない事が起こるということも。
ナイフで突き刺されているかのような苦痛は、だんだんと麻痺してきている。
痛覚だけではなく五感全てが、だんだんと遠のいていく。
恐怖も、焦燥も、絶望も、目を閉じれば薄らいで、安らかな気持ちになった。
衣服の擦れる音。耳元でカチャ、とベルトに手をかける音が聞こえる。
そして何をされるかは分からない絶望に抗うことを止め、身体から力を抜いて身を委ねた刹那。
――全身の血の気がひく感覚がした。
気付けば少女は拳を、男の一人に打ち込んでいた。
腹に衝撃を受けた男は口から空気を吐き出して、その衝撃でナイフを取り落とす。続けざまにもう一発。頭を抑えていた男の手が緩む。すかさず拾い上げたナイフを振り切り円を描く。ナイフの刃は一瞬にして男達の足首をとらえ、血が噴き出した。
叫ぶ男達の声が遠くに聞こえた。たじろいだ一瞬の隙を見て少女は身を起こす。
初めて握ったはずのナイフは、なぜだか少女の手によく馴染んだ。
驚く隙を与える事無く、少女は一歩、男達へと踏み込む。
―――――体感1分の出来事。気付けば、少女の周りには男達が倒れ伏していた。
「…………ぁ……」
肩で息をしていた。くらくらと歪む視界には、たしかに先程まで生きていた人間が血に濡れて動かなくなっている。
何が起きたか分からない。けれど手には、肉を切ったたしかな生々しい感覚が残っていた。
その感覚が、嫌でも事の状況を表していた。
―――――あぁ、私。人を殺してしまった。
自分の心臓の音がうるさい。指の先から冷えていく感触を覚える。
しかしそれですら他人事のようだった。
まるで映画のワンシーンのように、画面の向こうで起きた出来事を目の当たりにするような。それでも止まらない身体の震えは、少女の抑えきれない心情を表していて。
少女は、その感情の名前を知らなかった。
「大丈夫かい?」
誰かの声が聞こえた。
ふいに聞こえた声。ゆっくりと振り向けば、月光を背に近づいてくる一人分の人影。
男の影だ。男達の仲間だろうかと身構えたが、品の良い服装や佇まいから先程の男達とは違う、どこか異質な雰囲気が感じ取れた。
「あぁ、怖がらないで。……ごめんねぇ、こんな状況で。驚くのも無理ないよね」
頷こうとして、顔をしかめる。今になって体中の痛みを思い出したのだ。
ナイフは握ったままだ。しかし再び振るえるほどの精神力も体力も、もはや少女には残っていなかった。
少女は大人しく、声無き声で問う。
「……貴方は……だれ?」
少女の問いに応えるように、男の手が、少女の頬にあてがわれる。
「震えているね。可哀想に」
あたたかい手。
一般科に堕ちてからというもの、どこかよそよそしくなった父と母。
誰かに触れてもらうことなんて久しくなかった少女は、その優しく、愛しいあたたかさに涙した。
「とりあえず……この状況が他に見つかると君の身柄がまずいし、移動してしまおうか。あぁ、後処理は任せて。大丈夫、君の保護が最優先事項だ」
慣れた様子で見渡す男をぼんやり見つめる。男は少女に手を差し出した。
「桜花さん、だったかな」
少女を見下ろす男の瞳は、暗い。
「初めまして。華咲と言います」
星の見えない夜を映したような冷たい瞳はひどく恐ろしく、しかしどこか心地よかった。
悪魔のようにも、神様のようにも見えた。
「――――僕は君の味方だよ」
少女の視界を、月を背に隠した神様の姿が覆い隠す。
そう認識したのが過ちだったのかは、少女にしか分からない。
少女は、男の手を取った。




